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中山優の王道思想

 中山優は、明治二十八(一八九五)年、熊本県来民町笹本(現熊本県山鹿市鹿本町来民笹本)で生まれた。熊本県立鹿本中学を経て、大正四(一九一五)年秋に東亜同文書院政治科に入学している。
 『上海・東亜同文書院─日中を架けんとした男たち』を著した栗田尚弥氏は、「東亜同文書院の入学者には、大陸に〈志〉を抱く豪傑タイプの青年が多かったが、中山の豪傑ぶりはそのなかでも抜きん出ていた」と書いている。後に中山は書院時代を振り返り、「学生時代、私はあまり授業に出ずに、酒を飲んだりテニスをしたり上海の街に先輩を訪れたり、全くいま考えれば厄介千万な学生だったに違いない」と語っている。実際、中山は何度か停学処分を食らっているが、そんな中山を愛したのが院長の根津一だった。中山も根津を尊敬し、他の授業をさぼっても、根津の『大学』講義だけは欠かさず聴講したという。ただ、出席日数が足りなかったため卒業できず、大正八(一九一九)年夏、中退を余儀なくされた。ところが彼は、大阪朝日新聞に入社することができたのである。
 根津が同社社長の上野理一宛に推薦状を書き、「やむなく退学させるが卒業以上の実力をもつ男」と太鼓判を押したからだ。こうして朝日新聞に入社した中山は、北京特派員となった。ところが、彼は結核を患い退社、大正十二(一九二三)年、郷里へ戻った。中山にとってどん底の時代だ。結核は妻と長男にも感染、残念ながら長男は死去した。五年におよぶ闘病の末、中山夫妻は奇跡的に病気を克服した。以来、中山は日中問題に人生を捧げるのである。彼は、昭和三(一九二八)年から東亜同文会機関誌『支那』などに、中国時事評論を寄稿するようになった。中山は同年七月の『支那』に「動く支那と動かざる支那」を発表し、強い言葉で日本人に警告を発した。
 「今日に於ける支那の日本人の支那観の堕落は、同時に日本自身の堕落を語る。……日本は今や岐路に立つてゐる。即ち、西洋と共に、支那を敵とする乎、或は、小事実に拘泥せず、東洋として、支那全体と握手するかである。支那人に対する過度の軽視、支那の新勢力の将来に対する冷眼と蔑視は、世界に於ける最大の生活難に悩む今日の日本人にとりて正に自殺的態度である」
 こうした日本人の支那観に対する厳しい批判は、石原や木村に通ずるものだった。中山は昭和五(一九三〇)年に外務省嘱託となった。中山が石原と出会うのは、その二年後の昭和七(一九三二)年のことである。奉天のホテル・瀋陽館で、中山は石原とソ連問題について意見を交わしたのだ。以来、二人は度々面談し、大陸問題に関して意見を交換する仲となった(『上海・東亜同文書院』)。そして、昭和十二(一九三七)年頃から彼は東亜同文会会長であった近衛文麿のブレーンとなったのである。
 栗田氏は、中山の中国論の背景には、王道思想を生み出した儒教文化に対する尊敬の念があったと指摘している。ここで再び注目すべきが、宮島詠士である。すでに第一章で書いたように、木村武雄は詠士に特別な思いを抱き、笠木良明も詠士を崇拝していたが、中山にとっても詠士は特別な存在だったのである。
 中山に関わる写真を分析した、愛知大学東亜同文書院大学記念センター研究員の石田卓生氏は、南京で撮影されたと推測される一枚の写真に注目する。そこには「望郷廬」という文字が映っている。東京郊外の狛江にあった中山の自宅にも、望郷廬の一軸がかかっていた。これこそ、詠士の書だったのである(石田卓生「中山優写真資料について」『同文書院記念報』二十三巻)

民族派とヘイト

 国家安全保障の観点から日本国内に潜伏する海外テロリストに厳しく対処するのは当然のことである。また、日本の社会秩序、伝統文化を維持するためには、野放図な移民受け入れに反対しなければならない。しかし、民族派こそ排外主義やヘイトに陥ってはならないと思う。
 大御心にお応えするという崇高な志を抱いていた戦前の民族派は、外国人から尊敬される日本人であろうと努めていた。頭山満らの玄洋社は、時に国家権力と対峙しつつも、欧米列強の植民地支配に喘ぐアジアの志士たちを命がけで守った。
 中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ベトナムのクォン・デ、ファン・ボイ・チャウ、ビルマのウ・オッタマらは、いずれも頭山の献身的な支援に助けられて活躍した。さらに頭山らは、中東・イスラム世界にも視野を拡げ、明治三十九(一九〇六)年六月に亜細亜義会を結成、アブデュルレシト・イブラヒーム、ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらと連携した。
頭山満
 一方、善隣書院において緒方竹虎、河相達夫、中山優、安岡正篤、笠木良明といった人物を育てた宮島詠士は、日本が世界に誇る人種平等決議案の生みの親でもある。
 大正八(一九一九)年、牧野伸顕は第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議に日本全権として参加するためヨーロッパに渡った。それに先立ち、牧野は詠士と会い、「日本としてこの会議で提言すべきことは何か」と尋ねた。
 すると詠士は、尊敬していた勝海舟に思いを馳せつつ、「(海舟ならば)来るべき会議に世界人類はその皮膚の色を超越して無差別平等であるべきことを強調せらるゝことと察せられます」と応えたのだ。牧野が会議で上程した「世界人類平等決議案」の裏に、詠士の助言が秘められていたのである(石川順「宮島大八と張廉卿」『海外事情』第五巻第十号)。

宮島詠士

 そして、民族派の先人たちは率先してヘイトと闘ってきた。『奪はれたる亜細亜』などの著作で知られる国士満川亀太郎は、黒人差別と闘った先駆者だ。満川は早くも中学時代から黒人差別の問題を意識していた。大正九(一九二〇)年夏、ジャマイカ出身の黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベーの運動の盛り上がりを目の当たりにすると、満川は黒人問題についての日本人の認識を高めようとした。大正十五(一九二五)年には『黒人問題』を刊行している。クリストファー・スピルマン教授が指摘しているように、文藝春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏によると、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行った。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったという。
 満川はユダヤ人差別とも果敢に闘った。当時、国内では鹿子木員信のようにヒトラーとナチスの動きを無批判的に礼賛する者もいたが、満川は人種平等の立場から、ヒトラーの人種差別主義を厳しく批判していた。いまだヒトラーが政権を握っていなかった昭和七(一九三二)年に刊行した『激変渦中の世界と日本』の中で、ナチスの反ユダヤ主義を「偉大なる錯覚」と酷評し、ドイツで行われているユダヤ人排斥の流行について「世界に対して恥ずかしき事実である」と述べたヒンデンブルグの言葉を引いていた。

満川亀太郎

 戦後の民族派たちもヘイトと闘ってきた。野村秋介もまた差別を憎んだ民族派の一人だ。
 野村は昭和三十八(一九六三)年に河野一郎邸を焼き討ちし、千葉刑務所に服役した。その時、朴判岩という同房の在日朝鮮人が毎日、看守に虐待されていた。寡黙で誠実な朴に心を打たれた野村は、刑務所の管理部長に訴えて、朴への虐待をやめさせたという(『汚れた顔の天使たち』)。
 昭和五十八(一九八三)年の衆院選では、石原慎太郎と同じ選挙区から出馬した新井将敬のポスターに、「一九六六年に北朝鮮から帰化」と記した中傷ステッカーが貼られるという事件が起こった。その後、ステッカーを貼ったのが石原の公設第一秘書だったことが判明すると、野村はこれに激怒し、石原の事務所に怒鳴り込み、「石原は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」と迫った。
 民族派、右派を名乗るのならば、こうした先人の行動の意味をよく学ぶ必要があるのではないか。

野村秋介

儒教文明の復興と大川周明

■西本白川と大川周明
 東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。
 そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類なき特徴がある」と書いていた。だからこそ、大川は「道の体得者」が中国政治を動かすことを期待していたのである。呉懐中氏は次のように説いている。
 「大川が同時代中国における道の体得者や有徳者として首肯したのは、辜鴻銘・沈子培・張謇・杜天一(日本側は西本白川や大陸浪人の元祖たる金子雪斎)等の面々だったように思われる」
 では、大川の中国認識論は以下にして固められたのだろうか。ここで注目すべきが西本白川の影響である。
 西本は、東亜同文会が明治三十三(一九〇〇)年に開設した南京同文書院の一期生で、同書院の教授を務め、その後週刊『上海』の編集や春申社の社長を務めた。
 当時、在中国の日本人ジャーナリズム界では、「北に橘樸、南に西本白川」と呼ばれていた。王道主義を掲げた西川は、中国の共和政治・デモクラシー思想や新文学運動に反対し、清朝の復辟や国学の復興を期待して、清朝の遺臣で宗社党を組織した沈子培・姚文藻・鄭孝胥らと交遊した。大川は西本の人格を高く評価していた。
 「徳のある人間に対しては支那人は非常に尊敬する。私の友人で去年亡くなりましたが、上海に西本白川といふ非常に篤心な学者が居ました。此人は上海に居ること二十何年になるが人間が非常に立派である為に亡くなる迄非常に貧乏であつた。本当に陋巷に窮居して居つた。陋巷に窮居して居りながら支那の経学と真に真面目に勉強して居つたところが、日本人に此の西本君の道を求める非常な熱心な心、其極めて潔白な人格、之に対して殆ど尊敬を払わない。それにも拘らず支那人の方は、西本君を知る程の人々は、非常なる尊敬を払つて居るのであります」(「漢民族と其文明」『月刊日本』昭和五年三月)
 そして、大川は西本と中国認識を共有していたのだ。例えば、西本が大川に宛てた書簡には次のように書かれていた。
 「支那が昔も今もやはり道の国で、内外を問はず苟も道の大用と其の統を継承する丈けの人格者さへあらば、何時にても乱を治に向はせ廃を興に趨かせることか出来るといふ吾人の対支的信念……」
 これは、大川の次の言葉と響き合っている。
 「支那の天下は如何なる例外もなく、常に道の体得者によりて平らげられ、而して唯物主義者によりて乱されて来た。唯物主義(者)が支那を支配する時、支那には如何なる平和もなかつた。而してその乱雑混沌は、道の体得者が現れて天下四海を統一するまで続かざるを得なかった」
 実際、西川の思想は、大川に強い影響を与えていた。呉懐中氏は次のように指摘している。
 〈『現代支那史の考察』(1922)・『大儒沈子培』(1923)・『康煕大帝』(1925)等の西本の著書に見られる、道を中心に中国の思想や歴史を探り、近代中国の事情を批判し、また清朝遺老の沈子培を道統的大儒として尊敬し、偉業を成した康煕帝は王道的政治精神を持つ典型的人物だからこそとして礼讃するという姿勢は、大川の中国論に対し、具体的言説様式にまで影響を与えたように思われる〉
 大川は西本の『康煕大帝』について、「道の如何なるものかを具体的に理解する為に」一読すべきもの、「支那研究者の必読」を要する「希有の好著」として推薦していた。

■辜鴻銘と大川周明
 西本とならんで、大川の儒教思想に基づく王道主義に強い影響を与えたのが辜鴻銘である。
辜鴻銘
大正十三(一九二四)年、北京からの書簡で、大川は次のように書いている。
 「故に到処恨事徒に繁くして空しく傷心す。御憫察下され度、唯だ北京に於て一老学者と相識り稍々慰むる所有之度候。此人名を辜鴻銘とよび、学漢洋を兼ね識見高遠なり。生をして支那の古道僅に這個老漢の心裡に護持せらるゝを思わしむ。その英文の如き暢達にして而も機智横溢、殆どバーナードショウの筆致あり。兼て独逸語に達し、独逸に於て其著を刊行せることあり。而も満腔これ古道にして、一念たゞ真個支那精神の宣揚にあり。生一見旧知の如く、交すでに断金なり。……壮年の頃より張之洞に侍し、忠を大清朝廷に致し、今に及んで禄を共和政府に食むを肯んぜず、陋巷に寝居せり。生に示して曰く心憂天下食不足と」(『道』第百七十九号、大正十三年)
 呉懐中氏は、辜鴻銘が西洋遍歴を経て張之洞の感化によって儒家文化に回帰し、「反西洋文明的復古主義」によって自国の精神性を自国の歴史に求めるようになったと指摘する。そして、辜は儒家文化に回帰してからは儒教的中華文明の復興を唱え、西洋文明への対決や克服を目指す強烈な文化ナショナリストになったのと指摘している。
 一方、愛知県立大学の川尻文彦氏は次のように述べている。
 〈梁漱溟研究で知られるガイ・アリトー(Guy Allito)は、第一次大戦後の沈んだ雰囲気の中で、タゴールや岡倉天心と並んで東洋の聖哲として知られたのは、梁漱溟でも梁啓超でもなく辜鴻銘であったという。第一次大戦中の一九一五年(一九二二年にも再版)、彼は英文でThe Spirit of the Chinese People(別名『春秋大義』)を発表するとともに、大戦と東西文明の関係について論じ、中国文化によって西洋を救うことを高唱した〉(「辜鴻銘とアーサー・スミス」)
 しかも辜は、中国が西洋文明の進出に抵抗できないのは、儒教文明または道徳文化が衰弱した結果であり、日本は中国儒教文明の真精神を体得したことによって国を守り、しかも隆盛させたと考えた。ゆえに日本は自分の保持した中国文明の精髄を再び中国にもたらし、真の中国文明を復興することを自らの天職とすべきだと説いた(「中国文明の復興と日本」『大東文化』大正十四年七月)
 こうした辜の考え方は、大川の思想に極めて重大な影響を与えていたのではないか。岡倉天心の東洋文明論から強い影響を受けていた大川は、「儒教文明の貯蔵庫」としての日本の特別な使命を強く自覚していた。だからこそ、辜の言葉は大川を触発し、中国における儒教文明の復興を切望させたに違いない。張学良に対する過剰な期待もその表れだったと考えられる。

中国の民族的自覚を評価した行地社同人

 大川周明らは、大正十四(一九二五)年二月に行地社を設立した。ちょうどこの頃、上海の日系紡績工場では、幼年工虐待に反対するストライキが続いていた。そして、同年五月に同じ工場で組合弾圧に反対するストライキが起こった。しかし、労働運動の指導者顧正紅が射殺されてしまう。これに抗議する学生たちが逮捕され、五月三十日には、逮捕学生の釈放を要求する学生、市民、労働者のデモに租界のイギリス警官が発砲し、多数の死傷者と逮捕者が出た。五月三十日事件である。
 これに抗議して六月一日から上海の労働者二十数万人がストライキに入った。この時に組織されたのが、工商学連合会である。工商学連合会は、十七項目の交渉条件を提出し、責任者の処罰、損害賠償、労働者の権利保障などを要求した。ここで注目すべきは、同時に彼等が、領事裁判権の取消し、外国軍隊の撤退を要求していたことだ。
 こうした中国の動きについて、行地社同人たちが「民族的自覚の高まり」として肯定的に評価していたことは特筆すべきことだろう。例えば、満川亀太郎は同年七月に行地社機関誌『月刊日本』で次のように書いていた。
 〈予は、今支那に起つてゐる出来事に対し、之を単なる「暴動」とか「騒動」とかの名の下に片付けて行くことが出来ない。此の事件の底には深淵なる支那国民の思想的潮流が渦を成してゐる。然らば其の思想的潮流とは何であるか。そは要するに支那国民の民族的自覚である。……然るに二十年間日英同盟の夢尚覚めやらず、依然として英国に引ずられて行くならば、亜細亜に於る日本の立場は全然破滅の外にない。日本は敢然として思想的に英国より独立し、進んで支那国民の自覚と国家の改造とに対して同情と理解と後援とを有たねばならぬ〉(「亜細亜興廃の断崖に立つ日本」『月刊日本』大正十四年七月)。
 同じく行地社同人の長野郎は、『月刊日本』同号に次のように書いていた。
 〈国民自覚の運動は内外両方面に発展して来たのである。先づ外部に対しては、
 一、領土侵略に対する反帝国主義運動となつて現はれた。彼等は外交懸案が起る毎に声を大にして挙国一致を叫び檄を飛し、示威運動を試みた結果は、挙国一致の観念と支那の国家と云ふ感じを少からず支那人の頭に植へ付けたのである。一昨年反帝国主義聯盟が各地に組織されてから其運動は一層組織的な且つ深刻なものとなつた。
二、列国資本の争覇地となった関係上、列国資本侵略反抗の運動が盛んとなり、外貨の排斥や、外人経営工場の同盟罷業等頻々として起つて来た。……
三、列国の文化施設反対の運動である。列国の中で最も文化施設に力を尽したのは英米、殊に米国である。……彼らは欧米の文化施設を文化侵略と呼び、資本侵略の手先であると叫んだ。
 対外的運動は大要右の通りであるが、要するに彼等の目的は完全なる国家の解放を得やうとするのである。従て列国の圧力を押し除けるため、領土的、資本的、文化的の侵略に反抗すると共に、一切の不平等条約即ち租界地、租借地撤廃、領事裁判廃止、自主的関税制度等を要求して居る〉(「支那の興国運動」)
 大川は、大正十五年一月に「支那問題に対する一考察」と題して次のように書いていた。
 「道理は如何にもあれ、支那が日本に対して反感を抱くのは、少くも人情の自然ではある。……然るに大隈内閣の二十一箇条要求が、甚しく支那の自尊心を傷けた時に当り、世界戦による日本の台頭を不利とする欧米が、陰に陽に支那青年に支持を与へたので、茲に排外運動の第一着歩として、手近き日本を排斥し初めたのである。二十一箇条要求は、もと支那保全を本願とせるもの、……条約の精神其者は期せずして亜細亜主義の要件となつて居る。さり乍ら其の要求の時機、要求の方法等が、支那人に不快の感情を激発し、之を因縁として連年排日運動の甚しきを加へ来つたのは、また止むなき次第である」(「支那問題に対する一考察」『東方公論』大正十五年一月)
 このように、大川は対華二十一カ条要求について弁明しつつも、排日運動に理解を示していたのである。ただ、呉懐中氏は『大川周明と近代中国』で、次のように指摘している。
 「行地社は理念や組織の面において、猶存社を継承した超国家主義団体であった。ただ、この時点て国民革命の動向を含めた中国の動きを感知し、それに対して確実なパイプと方法で接近していたという点において、猶存社を含めた左右両翼の陣営を超えた観があった。……国民革命運動について長野や佐々木(到一)ほど、正面から高く評価してはいなかった。しかし、五・三〇事件や関税会議以来、初期北伐運動までの中国民族運動の実態を、大川はある程度認識していたはずと思われる」

右翼と中東イスラム─イスラエル・ハマス紛争と日本

■日本の右翼・アジア主義者とイスラム
欧米列強による植民地支配の打破とアジアの道義的秩序の回復を目指した戦前日本の右翼・アジア主義者は、東アジアだけでなく、東南アジア、中央アジア、中東などのイスラム教徒(ムスリム)の境遇についても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが頭山満らであった。彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指してムスリムと協力しようとしていた。
前列右から古島一雄、頭山満、犬養毅、五百木良三、後列右から足羽清美、在神戸回教僧正シヤムグノーフ、在東京回数僧正クルバンガリー、島野三郎
明治三十九(一九〇六)年六月には、亜細亜義会という団体が結成されている。『東亜先覚志士記伝』によると、創設メンバーは、トルコ系ムスリムのアブデュルレシト・イブラヒームと、頭山満、犬養毅、河野広中、大原武慶、青柳勝敏、中野常太郎、山田喜之助、中山逸三。その後、A・H・ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらのムスリムも参加した。
亜細亜義会の評議員三十一名のうち十八名が外国人で、内訳はアラブ人六名、トルコ人六名、タタール人一名、インド人二名、中国人(清国人)一名、朝鮮人一名、某国人一名となっていた。
亜細亜義会は機関誌『大東』を発行していた。東洋大学教授の三沢伸生氏によると、『大東』の目次欄の注意書きには「本誌(大東)の表紙に大東を包める青色の文字は中央部上より印度、アラビャ、アルメニヤ、西蔵、両側上より蒙古、暹羅の順序に依り其地方文字にて大東と記せるなり」と書かれている。また、『大東』には亜細亜義会主意書のトルコ語訳やタタール語訳も掲載されていた。

亜細亜義会機関誌『大東』

亜細亜義会主意書

亜細亜義会主意書(トルコ語・タタール語)

さらに、『大東』第四年八号巻末の予告によれば、会員を対象に亜拉比亜(アラビア)語、土耳其(トルコ)語、馬来(マレー)語、蒙古語、印度語の五ヶ国語の通信教育、馬来語、印度語、亜拉比亜語、土耳其語の四ヶ国語の夜学教育の実施を計画し、受講生を募っていた。
なお、亜細亜義会に関する学術論文としては、Elmostafa Rezrazi氏の「20世紀初頭のイスラーム世界と日本 : パン・イスラーム主義と大アジア主義の関係を中心に」平成十年、三沢伸生氏の「亜細亜義会機関誌『大東』に所収される二〇世紀初頭の日本におけるイスラーム関係情報」『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』平成十三年などがある。

■アラブ・ナショナリズムへの共感─「パレスチナ人の解放が最後の仕事」
アジア主義者のアラブ・ナショナリズムへの共感は、戦後も維持されていた。その代表的な人物が、岸信介の外交ブレーンを務めた中谷武世である。中谷は大正八(一九一九)年に大川周明・満川亀太郎・北一輝らが結成した猶存社の運動にかかわり、アジア主義者として活動するようになった。昭和八(一九三三)年に設立された大亜細亜協会の常任理事も務めていた。そんな中谷が、アジア民族解放運動に生涯を賭ける動機となったのが、以下の「猶存社宣言」であった。
中谷武世(左)と岸信介
「我が神の吾々に指す所は支那に在る、印度に在る、支那と印度と豪州の円心に当る安南、緬甸、暹羅に在る。チグリス・ユーフラテス河の平野を流るゝ所、ナイル河の海に注ぐ所、即ち黄白人種の接壌する所に在る。人類最古の歴史の書かれたる所は、吾々日本民族に依りて人類最新の歴史の書かるゝ所で無いか。吾々は全日本民族を挙げて亜細亜九億民の奴隷の為めに一大リンコルンたらしめなければならぬ」
戦後、中谷は「チグリス・ユーフラテス河の平野を流るるところ、ナイルの大河の海に注ぐところ」を「中東」と定義し、この地域に在住するアラブ民族の独立解放及び近代化推進、とりわけパレスチナ人のそれを「最後の民族運動」として自分の全精力を傾注する課題とした(シナン・レヴェント「戦後日本の対中東外交にみる民族主義―アジア主義の延長線―」)。
特に中谷は、昭和三十(一九五五)年に開催されたバンドン会議を舞台にアジア・アフリカ連帯運動を主導し、翌昭和三十一年七月二十六日にスエズ運河国有化を宣言したエジプトのナセルに共鳴していた。中谷は、ナセルとの面会にむけて準備を開始する。これを助けたのが、バンドン会議以来ナセルとのパイプを築いていた高碕達之助であった。
昭和三十二(一九五七)年、中谷は中曽根康弘、下中弥三郎とともに、イラン、イラク、シリアを経て、カイロに入った。六月六日午後八時、三人はナセルの私邸を訪れた。中谷が高碕の紹介状をナセルに手渡し、続いて中曽根が流暢な英語で切り出した。
「私は日本国民を代表してスエズの国有化の成功を心からお祝い申し上げる、曽て日露戦争に於ける日本の勝利は全有色民族の覚醒の契機をなしたといわれるが、こんどのスエズ国有化の成功はアジア、アフリカの諸民族に強い自信を与えた。日本国民は之によって非常な刺戟を受けた。日本国民の大多数はスエズ国有化に賛成であり、ナセル大統領支持である」
ナセルは力強い語調でこたえる。
「……日露戦争のお話があったが、他のアジア諸国民と同じくエジプトの民族的自覚も日露戦争に於ける日本の勝利に刺戟されたのである。爾来半世紀の歴史は西欧帝国主義と我々アジア・アフリカの民族主義との戦の連続であり、スエズ国有化の戦いも此の西欧の植民主義に対する我々アジア・アフリカ人の闘争の一環である……」(『昭和動乱期の回想』 上)
日露戦争とスエズ国有化が、欧米の帝国主義に対するアジア・アフリカの民族解放闘争という一つの連続した物語として語られたのである。
翌昭和三十三年、中谷らによって、日本とアラブ諸国との親善・友好関係の増進などを目的として日本アラブ協会が創立された(現在、会長はコスモエネルギーホールディングス社長・会長を務めた森川桂造氏が務めている)。同協会は昭和三十九(一九六四)年七月には『季刊アラブ』が創刊している。
『季刊アラブ』創刊号
一般的に、日本外交がアラブ寄りに転換したのは、石油ショックが襲った一九七三年頃とされているが、その下地は中谷らによって作られていたのである。
その後、中谷は一貫してアラブ諸国と日本の橋渡し役として活躍した。シナン・レヴェント氏によると、中谷は、昭和五十三(一九七八)年九月、福田赳夫が首相として初めて中東諸国を訪れる際、特使として下工作を行った(「戦後日本の対中東外交にみる民族主義」)。中谷はまた、昭和五十九(一九八四)年に中曽根首相の特使として中東アラブ諸国を訪れ、同地に関する最新情報を現地政経界の要人から入手したという。
中谷は、亡くなる一年前の平成元(一九八九)年三月に刊行した『昭和動乱期の回想』の中で、まだ独立を成し遂げていない唯一のアラブ民族であるパレスチナ人の解放問題に協力することが、自分の最後の仕事だと述べていた。

石原莞爾と南部次郎(木村莞爾『石原莞爾』より)

 木村莞爾の『石原莞爾』には興亜の先駆者・南部次郎とその子・襄吉と石原の関係が詳しく記述されている。
 〈襄吉の厳父南部次郎が中国に渡ったのは明治六年であるから、副島に先立つこと二年である。彼は、盛岡南部藩主の分家に生まれ、幼にしてその英才を買われて十八歳で藩の執政になったといわれているから、よほどの傑物であったに違いない。だが気骨が禍いして藩主の忌諱に触れ、閉門を仰せつけられている間に照井小平の門をたたたいた。照井は中国人章炳麟が当代随一の中国通と激称しただけに、彼に中国問題を教えられて南部は感奮興起した。
南部次郎
 明治二年、廃藩置県で南部藩主の利恭が藩知事となって、彼を大参事に抜擢したが、彼はそれを蹴って中国に赴き、一年余で突如帰国して、征台事務総裁の西郷従道に面接し、「中国は所詮は満州から中国本土に攻め入った清朝のものではない。漢民族の民族意識が鬱勃として勃興しつつある今日、早晩漢民族の革命が起こるに違いない。その際、自分は、南部藩士五百名を引率してその革命に参加するつもりである。」と中国の大勢を説いた。二度目は藩士佐藤昌介、藤森主一郎を同伴し、決意して上海に渡った。台湾問題の最後的解決に乗り出した大久保利通が、五十万元の賠償金を得て問題を妥結し、神奈川丸で帰国する途上、これに便乗した南部は大久保に「清朝政府には聖人の訓えがすたれてアジアの連帯感はなくなった。故に地に堕ちた王道を回復して、日華の提携を計るには革命以外にはない」と熱心に説いた。大久保は彼の言に耳を貸しても、無謀な計画には賛成しないで、それを差し止める方法として、彼を内務省四等属に任命したが、そんなことで決意をかえる彼ではない。
 彼は明治九年一月、新たに支那公使となった森有礼を説いて、藩士金子弥兵衛を実費留学生として北京に留学させ、自らは参謀黒田清隆に談判して官費で北京に渡り、金子、伊集院らと交わりを深くして、上海の佐藤、藤森らと連絡をとりながら清朝政府の転覆を画策した。
 十三年七月、南部は帰朝命令をうけてやむなく帰国したが、十五年、今度は外務卿井上馨の密命で三度、中国に渡った。そして清朝第一の重臣李鴻章らと盛んに交遊して十六年帰国した。井上は、南部の進言により芝罘(チーフー)に領事館を置くことにして、初代領事に南部を任命した。
 この時、彼は四十九歳である。彼は芝罘で領事館を根城に中国の同志を集め、革命を力説して、ここで畠山三郎、白井新太郎らの青年を育成した。
 明治十八年二月、仏国クレーベル総督が澎湖島を占領して、北上して天津を衝き、清朝政府に圧迫を加えた。この時、福州にいた同志の陸軍中尉小沢豁郎が、好機到れりと、南部に檄を飛ばして、「われは福州で兵を挙げん。君は芝罘で蹶起せよ」と連絡した。南部は、この蹶起には反対だったので、同伴して福州で小沢にその暴挙を中止させた。これが陸軍当局の耳に入って、小沢は馘になるところだったが、商部は福島安正大佐に頼んで香港転任で事無きを得た。が、こうして政府と関係なしに独自で動く南部の処遇に困った政府は、とうとう十六年十一月、彼を日本に召還した。
 この命令に接した彼は長崎から辞表を郵送して、十八年九月東京に帰った。彼は〈中国を改造するには、先王の道を明らかにすれば足りる。必ずしも革命を必要としない。権謀はやむを得ずやったことで、もとより善なるものではない〉として、爾後中国革命を断念し、五十一歳で閑雲野鶴を友とし、花を鑑賞し絵を描き、囲碁を楽しみ、清貧に安んじて、後事を襄吉に託そうとした。襄吉は石原の偉才を父に紹介し、石原は南部から、日華提携の真義を会得した〉

第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)

令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
崎門学研究会・折本龍則代表

★当日の動画は「崎門チャンネル」

■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?

■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
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裕仁親王殿下に伝授された『中朝事実』

 乃木希典大将は自決する二日前の明治四十五(一九一二)年九月十一日、東宮御所へ赴き、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)にお目にかかりたいと語った。殿下は御年満十一歳、学習院初等科五年生だった。そのときの模様を大正天皇の御学友、甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介する。
 乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。続けて乃木は、「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。──希典が最後にお願い申し上げたいことは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
 ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりだった。頬のあたりが、かすかに震えていた。
 顔をあげた乃木は、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」
乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、皇太子殿下は、虫が知らせたのだろうか、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになった。
 すると、乃木は一段と声を落して、「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役をおおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、ずっとお供申し上げなければなりません。遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。
 それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれた。大野氏が「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子だったが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したという。

スメラ学塾①─日本的世界観を目指して

 『日本百年戦争宣言』で知られる孤高のエリート軍人・高嶋辰彦に思想的影響を与えた人物の一人が、仲小路彰である。高嶋が仲小路と初めて会ったのは、昭和十三年十月二十七日のことであった。
 独自の「日本世界主義」思想を展開していた仲小路らは、昭和十五年に「スメラ学塾」を立ち上げた。その講義の中核を担ったのは、国民精神文化研究所に所属していた小島威彦である。小島は、日本中心の独創的な世界史を講じた。

 仲小路は、昭和十七年に『米英の罪悪史』を著し、以下のように書いている。ここには、欧米的価値観に基づいた政治システムに対する鋭い批判が示されている。
 〈思へば、英米の議会主義政治、政党主義的政治は一時全く世界政治の理想の如く宣伝され、その自由主義的民主政治は、実に政治的体制の典型として偶像化されました。これを以て進歩的なりとし、それに反対するものを悉く反動的保守的として排撃し、英米はその政治的偶像をもつて他のすべての諸国を、その政治的統制の下に独裁するのでありました。あらゆる植民地国は、自らの伝統的なる政治組織をもつて全く旧きものとして廃棄し、英国的政治の体制下に編入され細胞化されるのでありました。しかももし一国が強大となるや、これを抑圧するために、米英には適し、その国には不利なる米英的憲法、法律等を制定せしめ、さらにそれを英米的世界の現状維持のみを擬護する国際法をもつてしめつけ、全くその自由を剥奪することを以て、自由主義政治と称せしめ、彼等をして全く英米化し、米英依存せしめるのでありました。しかもすでに民主主義的なる米英的世界秩序は、それ自らの中に矛盾を激化し、末期的没落に瀕するのであります。
 かくして今次の大戦こそ、それ等一切の旧き民主主義的米英勢力圏を徹底的に粉砕すべき戦争であります。もしそれを為さずして、たゞ従来の米英的支配権を排撃して、それに代るに再び自らが米英的地位を占め、その搾取を繰返すことあるか、それともまた米英的なる近代国家体制、民主主義政体を植民地の独立として実施するか、或はまたソヴエート的なる民族解放理論がいかなるものなるを認識せず、帝国主義侵略を避けんとして、東亜の解放を実現せんとする如きあらば、これは全く皇軍の赫々たる戦果を無にするのみならず、却つて大東亜民族は不統一のまま殆ど救はるることなく、遂に克服すべからざる禍根を残すこととなるでありませう。まさに近代民主国家を根本的に否定し、海月なす、たゞよへる国々を修理固成するすめらみくにの国生みとしての日本世界史建設の大東亜皇化圏、すめら太平洋圏の復興を実現し、かくて大御稜威の下、アジアは渾然として、その根源的なるものに帰一するは、それ自らの本質的運命であります〉
 この仲小路の言説は、英米型民主主義を絶対視する、わが国の戦後言論空間においては、理解し難いものかもしれない。しかし、我々は改めて英米型民主主義が絶対なのかを問い直すべきではないか。

細野要斎『感興漫筆』を読む①─崎門学派の息遣い

 筆者は、尾張藩の尊皇思想は、崎門学派、君山学派(松平君山を中心とする学派)、本居国学派が微妙な連携を保ちながら強化されていったという仮説を持っている。このうち、幕末勤皇運動を牽引した崎門学派としては若井重斎や中村修らが知られているが、彼らの師こそ、「尾張崎門学の最後の明星」と呼ばれた細野要斎である。
 要斎は、蟹養斎門下の中村直斎らから崎門学を、さらに中村習斎門下の深田香実から垂加神道を学んだ。要斎が遺した膨大な随筆『葎(むぐら)の滴』からは、尾張崎門学派の高い志と、日常の息遣いを感得することができる。
 この貴重な記録『葎の滴』の中心部分を構成するのが、『感興漫筆』であり、その原本は伊勢神宮文庫に収蔵されている。『感興漫筆』は要斎二十六歳の天保七(一八三六)年から始まり、死去した明治十一(一八七八)年九月まで、四十二年に及ぶ記録だ。
 例えば、弘化四(一八四五)年五月の記録には、要斎が深田香実から垂加神道の奥義を伝授された感動が記されている(『名古屋叢書』第十九巻、五十八、五十九頁)。
 「香実先生、予が篤志に感じ、神道の奥義を悉く伝授し玉ふ時に、誓紙を出すべしとの玉ふ。その文体を問ふに、先生曰、爾が意に任せて書し来れと、仍つて書して先生に献す。文如左。

 神文

一 今度神道之奥義、悉預御伝授、誠以、忝仕合奉存候。深重之恩義、弥以、終身相忘申間敷候事。
一 御伝授之大事、弥慎而怠間敷候事。
一 他人は勿論、親子兄如何様に懇望仕候共、非其人ば、猥に伝授等仕間敷候。修行成熟之人於有之は、申達之上、可請御指図之事。
右之条々、堅可相守候。若し於相背は、可蒙日本国中大小神祇之御罰候。仍而、神文如件。」