東亜同文書院大旅行

荒尾精の興亜の精神を引き継いだ近衛篤麿は、興亜のための人材養成という使命に邁進した。明治32年10月、彼は清国を訪れ、清朝体制内での穏健改革を目指す洋務派官僚、劉坤一と会談、東亜同文会の主旨を説明した上で、南京に学校を設立する構想があるので便宜を図ってほしいと要請した。劉坤一は「できるだけの便宜を供与する」と快諾した。こうして、翌明治33年5月、南京同文書院が設立され、荒尾の盟友、根津一が院長に就任した。ところが、北清事変のため同年8月に上海に引き上げなければならなかった。当初は騒乱が収まり次第南京に復帰する予定であったが、根津が抱いていた大規模学院計画を実現することになり、明治34年5月、上海の城外高昌廟桂墅里に東亜同文書院が開校された。以来、終戦までの45年間に約5000名の日中学生が書院で学ぶことになる。
書院の興学要旨は、「中外の実学を講じて、中日の英才を教え、一には以て中国富強の基を樹て、一には以て中日輯協の根を固む。期する所は中国を保全して、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるに在り」と定められ、立教綱領には「徳教を経と為し、聖経賢伝によりて之を施し、智育を緯と為し」と謳った。興学要旨で「中外の実学を講じ」と謳う書院の学生は、最終学年の夏休みを返上し、二、三カ月、中国内陸部などアジア各地に大旅行し、中国に学ぶ学生としての自覚と自信を体得し、大旅行が実学であることを知り、社会に巣立っていった(『東亜同文書院大学史』昭和57年、184頁)。
明治34年末、根津は1年生を4~5人の班に分け、蘇州か杭州かのいずれかに分けて旅行させた。2年目を迎えた1期生は明治35年森茂教授の引率により、山東地方を2週間旅行、さらに同年漢口までを巡った。こうした旅行が次々と企画されるようになり、次第にその範囲を拡大していった。明治40年に外務省の旅行補助費が交付されるようになると、調査旅行が本格的に展開されるようになる。

 以下、藤田佳久氏の『東亜同文書院 中国大調査旅行の研究』(大明堂、平成12年)に基づいて、調査旅行発展の歴史を見ておきたい。
明治40年からの調査旅行本格化によって、中国各地へ旅行コースが伸び、定着していく中で、第17期(大正9年)以降になると、地域調査の目的が冠として付された調査コースが設定されるようになった。例えば、北支内蒙古・羊毛・牛革牛骨、山東河北河南湖北・綿花、華北・借款企業といった具合である。この時期から第28期(昭和6年)までが、中国調査旅行の最も充実し、円熟した時期とされる(298頁)。『東亜同文書院大旅行誌 第21巻 足跡』は、この時期に該当する第26期生による旅行誌である。

 

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