以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。
●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載) →
真木と彦九郎の遺児
彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
欲追故人跡 孤剣去飄然
吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
高山儀助自上野来展其考仲縄墓
留余家一句臨帰潜然賦贈
悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。
真木と高山を繋ぐ宮原南陸
平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁 →
竹内式部・山県大弐の精神を引き継いだ高山彦九郎
平成30年4月15日、崎門学研究会代表の折本龍則氏、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、久留米勤皇志士史跡巡りを敢行。崎門学を中心とする朝権回復の志の継承をたどるのが、主たる目的だった。
朝権回復を目指した崎門派の行動は、徳川幕府全盛時代に開始されていた。宝暦六(一七五六)年、崎門派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始した。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていた。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されてしまう。これが宝暦事件である。
続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きている。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件である。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのだ。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きている。
この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎だった。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継いだ。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていた。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとした。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれた。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り① →
『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)には、垂加神道の重要文献も含め主要な神道文献が収録されている。以下、目次を掲げる。
卜部兼直「神道由来記」
度会家行「神道簡要」
吉田兼倶「神道大意」
船橋国賢「慶長勅版 日本紀神代巻奥書」
林羅山「神道伝授」
熊沢蕃山「三輪物語」
出口延佳「神宮続秘伝問答」
河辺精長「依勤績并高年申加階状」
吉川惟足「神道大意註」
橘三喜「神道四品縁起」
真野時綱「神家常談」
山崎闇斎「藤森弓兵政所記」
山崎闇斎「持授抄」
続きを読む 『神道叢説』(国書刊行会、明治44年)目次 →
●垂加翁伝来神道奥秘口訣を相伝許可される
昭和18年、高山彦九郎先生慰霊会によって『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』が刊行された。日記原本は有馬主膳が所有していたものであり、その後、有馬秀雄が襲蔵していた。同書には、「有馬守居翁小伝」として以下のように書かれている。
〈別名 有馬守居、初め純次と称し、後主膳と改む 其の邸宅が久留米城内二ノ丸の東南隅なる傾斜路の辺に在つたので阪低窩と号し、剰水或は是誰とも称した。是誰の雅号は京都大徳寺の大順師の撰ひ所である
又書屋名を「虚受軒」と名づけ所蔵の文籍には、虚受軒蔵書又は虚受庫の印章を捺してゐた。「虚受」の語は、晋書礼志中の「君子虚受、心無適莫」に取つたので、これ「己を空うして、人言を容れる」の義である
守居が藩老として寛裕博く忠言を求めて、修省献替に努めたことが察知せらるゝ。
即似庵 篠山城東郊外─森嘉善宅の北方約二丁、現今久留米市東櫛原町久留米商業学校の北部─なる翁の別墅の廬舎を「即似庵」と称した これは寛政の初年、茶道の師たる孤峰不白の設計指揮によりて築造されたもので、園内に数百年を経て枝葉欝蒼として四辺を圧する一大樟樹があつたが、惜い哉近時柯葉次第に枯槁するに至つたので、此の名本も遂に伐斫された。
此の庵室は明治の中期、久留米藩番頭稲次家の後裔亥三郎氏が買収して、市内篠山町なる自邸に移したが今に現存してゐる
翁は皇室尊崇の念が篤かつたので、寛政の比尊皇斥覇の潜行運動に奔走した、上毛の俊傑高山彦九郎、芸州の志士唐崎常陸介等が、相前後して久留米に来た時は、此の別業を中心として、森嘉善・樺島石梁・尾関正義・権藤壽達・高良山座主伝雄等と交通往来し、雅雛に託して国事を談じたのである
(中略)
晩年深く山崎闇斎の垂加神道を信じて……唐崎常陸介に就いて、同神道の「三種神宝極秘伝」「神籬磐境秘伝」其の他垂加翁伝来神道奥秘口訣等、悉く相伝許可を得た人である。〉
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。
☞[続く]
合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●宮原南陸
享保元年(一七一六)八月十五日、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子として、十間屋敷(現・日吉町)に出生。名は存、半左衛門と称する。幼より至孝で学問に勉め、父職を襲って岸氏に仕えた。性は慎み深く、自分に厳格で、世事に練達し、主家三代に歴事した。学徳次第に世に高かまり、教を乞う者が多く、講義は本末を明らかにして懇切周到であったので、門人ますます増え、晩年には「門弟家にみつ」といわれている。当時の藩士で学問で名を成した者の多くは、南陸の門から出た。天明五年二月、藩校「講談所」が設けられると、藩主はその学徳をきき、特に抜擢して講官に任じた。陪臣の身で藩校教官となったのは破格の事であった。南陸の学統は山崎闇斎学派、師は合原窓南で実践をつとめ、空論を忌んだ。寛政四年(一七九二)六月十一日没。享年七七。墓は寺町真教寺。
●宮原国綸
宮原南陸の嫡子で、名は国綸、通称は文之進、字は世経、桑州と号した。父南陸の学統闇斎学を奉じた。漢学ばかりでなく、柔剣術に長じ、また越後流兵法にも通じた。忠臣・孝子・節婦等の名を聞く毎に、その家を訪れ、善事善行を書き取り「筑後孝子伝」前後編、「筑後良民伝」を著し、藩主より褒賞を受けた。真木和泉守は、姉駒子が和泉守十二歳の時、国綸の長男宮原半左衛門に嫁した。この関係から和泉守は、国綸の教を受けた。文政十一年(一八二八)四月十七日没。享年六七。
『真木和泉守』(宇高浩著)より、
「文政八年二月廿七日、和泉守の長姉駒子は、十九歳の春を迎へ、国老岸氏の臣、宮原半左衛門(得、字は多助)に嫁いだ。半左衛門は久留米藩校修道館教授宮原南陸の孫に当り、曽て和泉守が師と仰いだ宮原桑州の嫡男で、桑州は駒子が嫁いだ頃は未だ生存し、その後三年を経て、文政十一年四月十七日病没した。和泉守が桑州の門に学んだ頃までは、まだ弱冠で、充分に其の教えを咀嚼し得なかったであろうが、長ずるに及んで、南陸・桑州二人が読破した万巻の蔵書を、姉聟半左衛門に借覧して、勉学の渇を充分に医することが出来た。南陸父子の学は、山崎闇斎の門下、浅見絅斎に出で、筑後の合原窓南に伝わり、ついに南陸父子に及んだものである。崎門の学が、明治維新の大業に預って力があったことは、ここに吾
人の呶説を要しないところであるが、和泉守の思想の源流が、拠って来るべきところを知るべきである」 続きを読む 合原窓南の門人② →
合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英、跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。
●岸静知
国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。
●不破守直
正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人① →
明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 続きを読む 藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート