「玉木正英」カテゴリーアーカイブ

尾張藩垂加神道派・近松茂矩と橘家神道秘伝(松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』収録の『橘家神道口傳抄』)

この度、皇學館大學教授の松本丘先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』(神道資料叢刊 十八、令和四年三月)を贈呈していただいた。誠に有難うございます。
筆者は崎門学研究会代表の折本龍則氏、同副代表の小野耕資氏とともに崎門学、垂加神道の勉強を続けてきたが、『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』執筆過程で、尾張藩の垂加神道派にも強い関心を持つようになった。
尾張藩初代藩主・徳川義直の遺訓「王命に依って催さるる事」は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。
松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』

近松茂矩は、長沼流を皆伝した後、橘家神道に継承された秘伝を取り入れて、独自の流派「一全流」を創始していた。
今回、松本先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』には、名古屋市蓬左文庫所蔵の『橘家神道口傳抄』が収められている。松本先生の解題にある通り、同書は玉木葦斎の講述、吉見幸和筆記に係る。安永四年に吉見が上京した際に、葦斎から伝授された橘家神道秘伝である。さらに、松本先生は次のように指摘されている。
本文と同筆の書入に「茂矩」の名が見えてをり、幸和門人で兵学者としても知られた近松茂矩の筆写に係るものと考へられる。尾張徳川家家令であつた鈴木信吉氏の旧蔵書である」(解題五頁)
茂矩が橘家神道の秘伝を伝授されていたことが窺われる。

拳骨拓史氏が『兵学思想入門』で引いているように、近松は『神国武道弁』で「所謂神道は武道の根なり。武道の本は神道なり。道に二つなし」と述べていた。そんな近松が、橘家神道の秘伝を伝えられていた敬公の『軍書合鑑』の真価を見抜いたのは決して偶然ではない。近松は『昔咄』において次のように書いていたのである。
「軍書合鑑は、寛永年間の御撰述の由、是又本朝にて、軍術正伝の書の最第一と称せん、故いかなれば、凡そ神代相承の軍術は、神武天皇より代々の天皇、天津日嗣の時に、三種の神器と同じく、御相伝ありし、但し敏達天皇慮有りて、其神伝軍術をば、難波親王へ御伝受あづけられて、親王の御子孫代々伝へて、守り奉るべき勅令にて、橘家代々受けあづかり奉りて、三十四代相承し、唯授一人として、他へみだりに、伝ふる事なし」
さらに近松は、「付会をなして、何流と称する軍師」たちを批判した上で、「天下の兵法を立てた」として長沼澹斎を称え、さらに次のように述べている。
「源敬(敬公)様此御選ありて、終に依王命被催に、筆を停め給ふ、これよく本朝神武の道を得させられし事、言はずして明白なり、故に予恐れながら、本朝正兵伝書編述の根元なりと、称し奉りぬ」
このように近松は、敬公が本朝神武の道を極めていたことを示すものとして「王命に依って催さるる事」をとらえ、尾張尊皇思想を力強く継承せんとしたのだった。

坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

以下、『宗教問題』(36号、令和3年11月30日発売)に掲載していただいた「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」を紹介する。

■尾張藩尊皇思想の起点─「王命に依って催さるる事」
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編纂した兵法書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の末尾には、「王命に依って催さるる事」の一語が記されている。尾張藩尊皇思想の起点となったこの遺訓は、歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残そうとしたからである。近松は明和元(一七六四)年に『円覚院様御伝(えんかくいんさまごでん)十五ヶ条』を著し、「王命に依って催さるる事」について、「いかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と記した。
一方、『円覚院様御伝十五ヶ条』が書かれた十四年後の安永七(一七七八)年、水戸藩では第六代藩主・治保(はるもり)(文公)が、第二第藩主・光圀(義公)が遺した一句「古謂ふ君以て君たらずと雖も、臣臣たらざる可からず」を楷書で浄写し、義公の精神を復興させようとした。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公(第七代藩主・治紀)に伝へたに相違ない」と述べている。水戸においてもまた、義公遺訓は「朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」との趣旨として、文公から武公へ、武公から斉昭(烈公)へ、そして烈公から慶喜へと伝えられた。青山延于(のぶゆき)が編修した『武公遺事』には、武公が烈公に対して「何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじ」と語っていたことが記録されている。
実は、尾張藩における尊皇思想の継承は垂加神道、そして兵学思想と密接な関係を持っていた。敬公の遺訓を復興させた吉通とそれを明文化した近松茂矩は、ともに垂加神道を学んでいたのだ。しかも、吉通は長沼流兵学を好んだという。長沼流を創設した長沼澹斎(たんさい)(宗敬(むねよし))は、甲州流などの兵法を学んだ後、寛文(一六六六)年に『兵要録』を著し、長沼流兵法を創始した。近松もまた長沼流を皆伝しており、さらに幕末の尾張藩で活躍した徳川慶勝の側近・長谷川敬もまた長沼流を継承していた。『兵要録』には、「仮にも不義非道の弓矢をとらざれ」という言葉が記されている。これは『円覚院様御伝十五ヶ条』にある「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と見事に符合しており、近松の尊皇思想が兵学思想によって補強されていたことが窺えるのである(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』望楠書房)。
そして、垂加神道の尊皇思想、特に皇統守護の精神を兵学思想によって補強した人物が、今回紹介する玉木葦斎(いさい)(正英)である。寛文十(一六七一)年に生まれた葦斎は、元禄四(一六九一)年に闇斎の門人・出雲路信直に入門、さらに正徳三(一七一三)年に同じく闇斎の門人・正親町公通の門に入って垂加神道を修めた。葦斎は正徳五年には、公通から闇斎の『中臣祓風水草』の伝授を受けている。葦斎は垂加神道の継承者としての自覚を持ちつつも、同時に橘家(きっけ)神道を継承し、その発展に力を尽くすことを優先したように見える。
ただ、谷省吾は、「二つの神道(垂加神道と橘家神道=引用者)を併行して学びはじめた彼の神学的思索の過程においては、二つの神道が一つの人格・頭脳の中で、分ちがたく重なりあつてゐたことは当然である。……葦斎といふ一個のすぐれた坩堝の中で、両神道の所伝が燃焼されて、新しい綜合が行はれたことは確かである」と述べている(『垂加神道の成立と展開』)。

玉木葦斎墓 続きを読む 坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

玉木正英口述「神学大意」─神籬(日守木)

 玉木正英口述の「神学大意」(松岡雄渕筆記)には、以下のように書かれている。
 「扨神籬と云ことは、皇天二組の霊をきつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、万々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云は禁中様のこと、日つぎの御子で御代々日ぞ。其日様を覆ひ守らせらるる道の名ぞ。去によて代々御日様の御座る処はどこぞと云へば、禁裏の皇居が代々日様の御座所ぞ。(中略)とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに朝家を守護しをほひ守ると云ことを立かひやり(ママ)、以て朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はるやうにと云ふことが、この伝の至極也」(カタカナをひらがなに改めた)

堀尾秀斎(春芳)と吉見幸和─垂加神道をめぐって

 
 吉見幸和が垂加神道批判を開始するのは、堀尾秀斎(春芳)が横須賀村へ移住した直後の元文元(一七三六)年のことである。では、堀尾は垂加神道について、いかなる立場をとったのであろうか。岸野氏は以下のように明確に述べてある。
 〈春芳は、吉見幸和の実証主義を継承する方向ではなく、垂加の本流を求めてこの年(一七三六年)の春に京都に遊学し、玉木葦斎の講席に出て、垂加を継承する正親町家の神道と、葦斎が独自に展開した橘家神道を講習することになる。玉木葦斎はこの年の七月八日に急病で突如死去しているので、葦斎よりの直接の講習を受けた期間はそれほど長いものではなかったと思われる。晩年の葦斎は、垂加神道を基礎としつつ、垂加神道に従来なかった神道行事を導入し、橘家神軍伝を中心とする兵家神道をとり入れた独自の橘家神道を樹立している。春芳が、後に門人に伝えている垂加流の神道の内容をみると、短期の講習であったにせよ、葦斎流の橘家神道の特徴が色濃く出ているので、吉見幸和とは異なった方向での独自性という点で、春芳にとってこの京都遊学の意味は大きかったものと思われる〉
 堀尾はまた、京都遊学中、谷川士清や、京都の朝日神明社の神主で増穂残口の子、増穂鎮中等と交流していた。士清との交友は、その後も続き、増穂鎮中からは残口の『闇夜の礫』を与えられている。
 ところで、吉見と同様に実証主義の立場からの神典を展開していた人物に、多田義俊(義寛)がいる。壺井義知に有職故実を学び、芝山重豊や中山兼親らの公卿に近侍して研鑽を重ねた人物である。多田は、寛保元(一七四一)年から名古巣に滞在していた。多田の考え方について、岸野氏は、多田が寛保三(一七四三)年六月に著した『蓴菜草紙(ぬなはのそうし)』序に基づいて、次のように書いている。 続きを読む 堀尾秀斎(春芳)と吉見幸和─垂加神道をめぐって

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。

●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。

●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

天日・天照大神・天皇の三位一体に基づく現人神天皇観の誕生

 前田勉氏は、『近世神道と国学』において、次のように書いている。
 〈…(玉木)正英の神籬=「日守木」解釈は、…天照大神の霊魂は今もなお天皇と「同床同殿」に生きているという神器観に、…橘家神軍伝の「大星伝」とが結びつくことによって、新たに創出されたものではなかったか。それは、文字通り天日と天照大神と天皇の三位一体にもとづく現人神天皇観の誕生を意味していた。
 さらに正英の神籬解釈の特筆すべき点は、「日守木」の「日」を守護する忠誠とは、現人神天皇への忠誠であったことである。正英において忠誠とは、現人神天皇への忠誠であって、それを超えた普遍的な道徳的原理に根拠づけられたものではなかった〉
 そして前田氏は、是非分別せず、ひたすらに天皇に帰依する、天皇への被虐的ともいえる絶対的忠誠のモデルにされたのが楠木正成であるとする(160、161頁)。

天皇の有徳・不徳と万世一系性の矛盾を解いた玉木正英

 前田勉氏は、『近世神道と国学』において、次のように書いている。
〈…(玉木)正英は、天皇の有徳・不徳と万世一系性の矛盾という闇斎学派の人々の喉元に突きつけられていたアポリアに、彼独自の三種の神器観を媒介にして、ひとつの明快な答えを提出した。正英の弟子若林強斎によれば、それは次のようなテーゼである。
橘家三種伝の内、上に道有るは、三種霊徳、玉体に有り。上に道無きは、三種霊徳、神器に有るなり。故に無道の君為りと雖も、神器を掌握すれば、則ち是れ有徳の君なり。神器と玉体は一にして別無きなり。

(『橘家三種伝口訣』)

 天皇が有徳の君主であれば、「三種霊徳」は天皇の「玉体」にある。しかし、天皇が不徳である場合、「三種霊徳」は「神器」にある。だから、不徳の天皇であっても三種の神器を掌握している限り、「有徳の君」であるという。ここでは、三種の神器の「霊徳」の不可思議な権威が天皇の有徳・不徳以上に重んじられる。普遍的な道徳以上に、天皇の万世一系性が三種の神器の「霊徳」を根拠に強調されているのである。このような三種の神器観は「垂加派の独創」(加藤仁平氏)とされる」