「徳川義直」カテゴリーアーカイブ

「王命に依って催さるる事」─田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』

田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』
 田中惣五郎は『綜合明治維新史 第二巻』(千倉書房、昭和十九年)において次のように書いている。
 〈尾州藩主義直の尊王心は著名であり、大義名分に明かであるとされて居るが、水戸義公の大日本史編纂もこの叔父義直の啓発によるところ尠しとしないと言はれて居る。従来この藩のことは閑却され勝であつたから少しく筆を加へて置かう。義直の著「軍書合艦」の巻未には「依王命被催事」といふ一筒条があつて、一旦緩急の際は尊王の師を興す意であつたと伝へられる。しかしこれは恐らく群雄の興起した際のことであつて、本家の浮沈に当つては、水戸同様いづれにも与せぬ方針と解すべきであらう。そしてこの事は文書に明確にすることを憚り、子孫相続の際、口伝に依て之を伝へた。そして四代の藩主吉通が二十四歳で世を去り、其の子五郎太が尚幼少であつたから、忠臣で事理に通じた近臣近松茂矩に命じて成長の後に伝へしめたものが、所謂「円覚院様御伝十五条」の一で、御家馴といはれるものである〉

「近世国学の開基は尾張初代藩主の徳川義直だ」と主張した尾張藩の国学者

 
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張藩の国学者たちは、「近世国学の開基は尾張初代藩主の徳川義直だ」と主張したと指摘している。
 近世の国学の系譜は、通常、契沖・荷田春満・加茂真淵・本居宣長・平田篤胤を基軸として理解されている。
 ところが、尾張藩の国学者たちは、義直が『類聚日本紀』『神祇宝典』などの撰述を行っていることを根拠として、近世国学の開基は義直だと主張したというのだ。
 尾張藩では、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという問題関心が強まった。その理由は何か。岸野氏は、以下のように説明している。
 〈義直自身についていえば、家康の子として尾張藩主となったが、尾張藩の成立の事情からいえば、家臣団の出自の雑多性と複合性や、支配領域が尾張国を超えた複合的性格を持っていること等の中での、尾張藩と尾張徳川家の統合の論理とイデオロギーが不可欠であったという事情があった。徳川家康の子としての、徳川系譜と事跡の確認は最も重要な問題であった。戦国期に遡れば、多様な戦国大名の家臣であった者を家臣団に組み込むためには、徳川系譜が清和源氏に繋がることもまた重要な問題であった。清和源氏と繋がれば、古代天皇の事跡の研究はい儒学的政治論の「王道」「治者道」を極めることと同列になる。儒学神道の方法がこれを結びつけたといえる。こうして、藩祖としての統合の原理を求めて著されたものであるだけに、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという、問題関心が惹起するのは当然であったといえる〉(十九、二十頁)
 ただし、天明・寛政改革期には、尾張藩における国学派の地位はそれほど高くはなかった。この時期、義直著書の校合が主導したのも、儒者や垂加派だった。校合の担当者は、『初学文宗』『軍書合鑑』が細井平州、『神祇宝典』が河村秀根、『類聚日本紀』が稲葉通邦、『成功記』が岡田新川、『中臣獣抄』が吉見幸孝であった。
 ところが、尾張藩における国学派の地位は上昇していった。その契機こそ、やがて十四代藩主に就く徳川慶勝とのむすびつきであった。岸野氏は、「尾張藩に仕えた国学者たちは、幕末維新期の尾張藩主徳川慶勝と結ぶことによって、藩祖尾張義直の国学的再評価を行い、藩政改革と国政変革に参加しようとしていた」と述べる(十二頁)。

尾張藩藩校・明倫堂の歴史①─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

 尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
〈●寛永六(一六二九)年、徳川義直、尾張藩邸内に孔子堂を作る。
 孔子堂の作られた日時不明なるも、林羅山が尾張に義直(亜相)に謁し、その模様を「拝尾陽聖堂」(林羅山文集巻第六十四)に記した。(十二月六日)蒔絵塗小厨子で、孔子像・堯・舜・禹・周公の像あり。地上、四、五尺ばかりの所に安置せられたとある。

●寛永十(一六三三)年二月十六日、義直、釈奠を行う。
 明倫堂始原によれば、この時、義直は「先聖殿」の額を作った。これは上野地内・林羅山先聖殿に送られたが、幕府が聖堂・昌平黌を営むにあたって、尾張に返却された。
義直は、林羅山のため、その邸に先聖殿を作る。これが後、幕府の湯島の聖堂・昌平校の基となる。実にわが国近世の教学は義直に負うところ大である。義直の位牌は建中寺に、儒式をもって安置されている。墓は定光寺。(羅山文集「武州先聖殿経始」)

●慶安四(一六五一)年九月、聖堂を二の丸に新築す。
 この建物が後に、堀川法蔵寺八角堂となった。「始原」に唐・日本でも珍しい八角の建物であると、ここに「先聖殿」の額が掲げられ、さらに明倫堂の聖堂が完成すると、ここに移し掲げられたものであると。

●寛保三(一七四三)年八月十七日、藩主綱誠の後圃に先聖殿を重修す。
 藩儒 木実聞(木下蘭皐)、抜んでられて聖堂の祭酒となり、侍読を兼ぬ。(明倫堂始原・先聖廟重修記・鶴舞中央図書館蔵)

●寛延二(一七四九)年十一月十五日、藩主宗勝、明倫堂と大書して、蟹養斎に与える。
 巾下学同所といわれるものがこれで、明倫堂の名はこれよりはじまる。深田明峰、松平君山、須賀精斎、小出慎斎等の学者集ることとなる。明倫堂の額は徳川美術館にあり。

●安永九(一七八〇)年九月二十九日、江戸の大儒細井平洲を尾藩に邀す。
●天明二(一七八二)年二月、平洲、尾藩にわたり巡廻講話。聴くもの十万を越す。日本教育史上空前のことである。
 藩主宗睦、藩学を興さんとして、まず尾張知多郡(現東海市)の人、平洲を招き、明倫堂建学について一切を托す。禄三百俵。この禄世人を驚かした。天明六年、禄四百石、一千石待遇の礼剣を賜わる。

●天明三(一七八三)年五月一日、明倫堂開校。藩主宗睦、新たに明倫堂を興し、細井平洲を挙げて総裁とする(後、名を督学と改む)
 藩校としての明倫堂はここにはじまる。いまを去る二百年。城南片端長島町東角一丁四面。「明倫堂」の額はいま藩校の壁面を飾ることとなった。(いまの東照宮のところ)孟子に曰く「夏には校といひ、殷には序といひ、周には庠といふ。学は則ち三代これを共にす。皆、人倫を明にする所以なり」(明人倫)と。けだし宗睦は日本の中央に藩学の模範を建てんとしたのである。平洲はここを士・大夫の教育、さらに庶民の教育を行うところとして開放し、天下の注目を浴びた。この日午後二時、平洲「孝経」を講じた。学問は折衷学で、学派を択ばぬ自由なものである。〉
[続く]

「王命に依って催さるる事」を伝えた近松茂矩─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 尾張藩初代藩主・徳川義直の「王命に依って催さるる事」を後世に残そうとした四代藩主・徳川吉通の命により『円覚院様御伝十五ヶ条』を編んだのが、近松茂矩である。
 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)の解説で、名古屋大学教授の佐々木隆美氏は近松について、以下のように書いている。
 「…近松茂矩は、その先は近江出身、永く美濃国山県郡に住し、祖父茂英の時、尾藩に仕えて代官となり、美濃郡奉行用水奉行等を歴任、父茂清も材木奉行御馬廻等を勤めている。茂矩は長子で、彦之進と称し、正徳二年末十六歳で以て通番(所謂表小姓)となつたが、時に藩主吉通は廿四歳であり、嗣子五郎太は僅か二歳である。翌年江戸に下り、五月側小姓となつて元服したが、七月には早くも吉通の死去に遭い、彼が側近に侍した期間は結局僅かに六十余日に過ぎない。而もこの主の知遇に対しての感激が彼の生涯の方向を決定した事は前述の通りである。更に十月十八日には五郎太も死去している。かくて彼はその九月下旬から兵学自叙を書き始め、その年の末御馬廻の閑職に転じて尾張に帰り、以来故主の意を体して兵学に精進する外、神道・和歌・俳諧・茶道等、多彩な才能を発揮している。
 正徳五年十九歳の若さで以て一派をたて、全流錬兵伝(後に一全流と改名)と称し、初めて錬兵堂に門を開いて教授を行ない、享保八年藩主の尋ねに応じて提出した武芸指南の年数並に門人の書上げについてみると、既に桀出した門人四十五名の多きに達している。彼が長沼流の兵学を苦心の末悉く皆伝された由来も、前述の如く故主の素志によるものであるが、その修行の経過も差出された長沼流留のうちに詳述されている。
 かくの如く当時一流の兵学者としての彼は、他面吉見幸和の高足としてその許しを得た神道学者であり、敬神の念の厚い信仰者でもあつた事は、伊勢神宮や熱田神宮への崇敬事実からも知られる。更には和歌を京都の観景窓長雄に、俳諧を支考後に里紅に学び、其他茶の道にも入つているが、恐らく之等は所謂文化的教養としてのものであつたろう。たゞ俳諧は比較的その交遊範囲も広く作句も一応の出来栄えの様である。要するに風流人としての半面を多分に所有していた訳である。享保の末の「当世誰か身の上」(筆者不詳)の跋に彼は三々良の名で「世はたゞ色に遊ぶべし、色に荒む事なかれ」云々等の粋な言辞を述べている。蓋し彼の青壮年時代は、恰も名古屋の都市文化爛熟の宗春の時代である事を思うならば、容易に首肯できる。その交遊に遊女あり俳優ありで、各所の宿坊に粋を仄見せた事実は随筆を通じても伺い知られる。
 
 著書も頗る多く而も多方面に亘り、御伝十五ヶ条を始めとして、尾藩君臣の言行故事旧聞を録した「昔咄」十三巻や、「道知辺」「錬兵伝」等の武道関係のもの、「本朝正教伝」「稲荷社伝」以下の神道もの、「視聴漫筆」「茶窓閑話」等の随筆類から和歌俳諧のものまで七十数種に及んでいる。
 安永七年二月十七日、八十二歳の長寿で歿している。(墓所 平和公園 旧は北押切の本願寺)」

尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
 『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
 『初学文宗』(同)
 『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
 『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
 『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
 『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
 『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
 『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
 『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
 『家訓』(石井垂穂著)
 『諸生規矩』(蟹養斎著)
 『諸生階級』(同)
 『読書路径』(同)
 『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
 『寛延記草』(中村習斎著)
 『新堂釈菜儀』(同)
 『新堂開講儀』(同)
 『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)

徳川慶勝の藩主就任─『名古屋と明治維新』より

●押し付け養子に抵抗した金鉄党
 以下、羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』に基づいて、徳川慶勝が尾張藩第十四代藩主に就任する過程について整理しておく。
 慶勝は、高須松平家十代義建(よしたつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。
 高須松平家は、尾張藩二代藩主の光友が二男の義行に作らせた分家だが、義建の父義和(よしなり)は、水戸藩六代藩主の治保(はるもり)の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸藩第七代藩主治紀(はるとし)の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。水戸藩第九代藩主の斉昭は、慶勝の叔父にあたる。
 尾張藩では、九代藩主・宗睦(むねちか)が寛政十一(一七九九)年十二月に没し、初代義直から続く男系の血統が絶えた。
 尾張藩十代藩主・斉朝(なりとも)は、徳川十一代将軍家斉(いえなり)の弟・一橋治国(はるくに)の息子である。ここで、血縁関係による大名統制強化を意図した家斉の意図に注目する必要がある。家斉には、五十三人の子供(息子二十六人、娘二十七人)がいた。昭和女子大学講師の山岸良二氏によると、家斉には正妻である第八代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、側室が二十四人、彼女らの使用人として働く女性の中からも「お手付」がさらに二十人以上いたとされる。
 文政十(一八二七)年に尾張藩第十一代藩主に就いた斉温(なりはる)は家斉の十九男、天保十(一八三九)年に第十二代藩主に就いた斉荘(なりたか)は家斉の十二男であり、家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の五男・田安斉匡(なりまさ)の養子である。そして、弘化二(一八四五)年に第十三代藩主に就いた慶臧(よしつぐ)は、田安斉匡の十男だ。つまり、尾張藩では約五十年間、四代にわたって、将軍家の系統からの養子が藩主を独占していたのである。
 この間、第十一代斉温が死去した天保十(一八三九)年三月、即日斉荘が後嗣に決まった際、大番組や馬廻組など、国元の中堅藩士らの不満が一気に高まった。
 同年四月、馬廻組の大橋善之丞は上書を提出し、水戸家の先例を引きながら、尾張家が押し付け養子を受け入れれば、家中の「武威」が失われると嘆いた。さらに、田安家から「付人」が多く尾張家に入れば、家中の出費が嵩み財政に悪影響を及ぼすとした(木村慎平「嘉永・安政期の尾張藩」『名古屋と明治維新』所収)。
 こうした不満が、慶勝擁立運動を支えていたのである。同年六月十四日には、四十七名が連署で竹腰正富に上書を提出している。連署に名を連ねた国学者の植松茂岳は、六月二十二日に慶勝擁立を周旋するために江戸に出発している。このときの慶勝擁立派が「金鉄」と呼ばれるようになっていく。
 木村慎平氏は、植松宛の書簡にある「養君の件が真の目的なので、火中までも願い出るべきだと金鉄に心懸けている人もおります」を引いて、「信念や決意を曲げない意志の固さを表したものであろう」と書いている。
 ただ、慶勝擁立運動は、まもなく急速にしぼんでいった。斉荘擁立を主導した成瀬正住が蟄居となり、これ以上幕府と事を構えるのは好ましくないという判断もはたらいた。さらに、かつて幕府による謹慎処分を受けたまま死去した七代藩主・宗春が赦免され、慶勝擁立派は不問に付されたため、騒動は一旦は収束した。
 その後、弘化二(一八四五)年、斉荘は没し、第十三代藩主に就いた慶臧も嘉永二(一八四九)年に没した。江戸の年寄衆は将軍家近親から跡継を探そうとしたが、人材に乏しく、御三家同士の養子嗣の前例もなかったため、跡継は高須家当主の義建か慶勝にしぼられていった。結局、義建が五十一歳と高齢であったことから、慶勝継嗣が決定したものと考えられる。
 塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』では、「嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた」と書いている。

「王命に依って催される事」

●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」

「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ

 尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す

「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。

●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)