合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●宮原南陸
享保元年(一七一六)八月十五日、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子として、十間屋敷(現・日吉町)に出生。名は存、半左衛門と称する。幼より至孝で学問に勉め、父職を襲って岸氏に仕えた。性は慎み深く、自分に厳格で、世事に練達し、主家三代に歴事した。学徳次第に世に高かまり、教を乞う者が多く、講義は本末を明らかにして懇切周到であったので、門人ますます増え、晩年には「門弟家にみつ」といわれている。当時の藩士で学問で名を成した者の多くは、南陸の門から出た。天明五年二月、藩校「講談所」が設けられると、藩主はその学徳をきき、特に抜擢して講官に任じた。陪臣の身で藩校教官となったのは破格の事であった。南陸の学統は山崎闇斎学派、師は合原窓南で実践をつとめ、空論を忌んだ。寛政四年(一七九二)六月十一日没。享年七七。墓は寺町真教寺。
●宮原国綸
宮原南陸の嫡子で、名は国綸、通称は文之進、字は世経、桑州と号した。父南陸の学統闇斎学を奉じた。漢学ばかりでなく、柔剣術に長じ、また越後流兵法にも通じた。忠臣・孝子・節婦等の名を聞く毎に、その家を訪れ、善事善行を書き取り「筑後孝子伝」前後編、「筑後良民伝」を著し、藩主より褒賞を受けた。真木和泉守は、姉駒子が和泉守十二歳の時、国綸の長男宮原半左衛門に嫁した。この関係から和泉守は、国綸の教を受けた。文政十一年(一八二八)四月十七日没。享年六七。
『真木和泉守』(宇高浩著)より、
「文政八年二月廿七日、和泉守の長姉駒子は、十九歳の春を迎へ、国老岸氏の臣、宮原半左衛門(得、字は多助)に嫁いだ。半左衛門は久留米藩校修道館教授宮原南陸の孫に当り、曽て和泉守が師と仰いだ宮原桑州の嫡男で、桑州は駒子が嫁いだ頃は未だ生存し、その後三年を経て、文政十一年四月十七日病没した。和泉守が桑州の門に学んだ頃までは、まだ弱冠で、充分に其の教えを咀嚼し得なかったであろうが、長ずるに及んで、南陸・桑州二人が読破した万巻の蔵書を、姉聟半左衛門に借覧して、勉学の渇を充分に医することが出来た。南陸父子の学は、山崎闇斎の門下、浅見絅斎に出で、筑後の合原窓南に伝わり、ついに南陸父子に及んだものである。崎門の学が、明治維新の大業に預って力があったことは、ここに吾
人の呶説を要しないところであるが、和泉守の思想の源流が、拠って来るべきところを知るべきである」
●稲次正思
縫殿と称し、号は白茅斎。好学の士で、藩儒合原窓南に師事し、野史・小説まで博く読み、また武事・故実を研究して「甲胄考略」等数種の著作がある。郡政に任ぜられては庶民悦服し、のち隊長をつとめた。「米藩詩文選」の巻一に七絶七首、二巻に淡居久徳重恭愛菊の詩に和した七律一首、四巻に延享元年九月の日付がある「甲胄考略」の自叙が記載されている。
●杉山正義
米藩士。清兵衛と称し、号は恒斎。杉山正仲の父。合原窓南の門に入り、易を学んで「易経本義和解」を著す。その他「恒斎集」「酔吟連句六千句」がある。なお書を能くした。その人となりは「豪邁威望群を抽ずる」と評されている。「米藩詩文選」巻一に詩篇五十首が収載されている。寛延二年(一七四九)没。
●杉山正仲(観斎)
享保十年(一七二五)五月、京隈の洗切に出生。清兵衛と称し、号は観斎。文学は利光釆庵に学び、武術は諸師に従い、文武に達すると共に、多芸多能で医術・書画・挿花・点茶の技に通じ、また礼節師範を勤め、また薬園を開き、また焔製製造の命を受け、のち軍制方にもなるという多芸多能の人物であった。寛延三年二十五歳で跡目相続し御馬廻組となり、次で御物成取建役となり、累進して町奉行となった。明和・安永の頃には数度江戸に在勤した。天明五年二月、藩校講談所が開かれると、講席掛りの任を受け、藩儒広津藍渓と共にその事に当った。正仲は博く群籍を渉猟して博学、著書は五十余種(目録は「筑後」四巻5号4P)にある。学友小川正格と安永六年に共著した「筑後志」は筑後全誌で、郷土研究の重要な資料であり、その他「米府紀事略」「北筑志略」「米藩詩文選」「武学須知」「嘉礼集覧」「医療活法」「訓幼随筆」等と著述は多様多種にわたっている。なお「米藩詩文選」四巻は、米藩に漢学が興って以来、藩校設立される天明・寛政ごろまでの漢詩文を収載していて、米藩文学史研究の貴重な資料となっている。寛政五年(一七九三)七月二十三日没。享年六九。墓は寺町宗安寺。
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