平成24年に『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」を開始してからまもなく3年。八冊(山鹿素行『中朝事実』、浅見絅斎『靖献遺言』、山県大弐『柳子新論』、本居宣長『直毘霊』、蒲生君平『山陵志』、平田篤胤『霊能真柱』、会沢正志斎『新論』、頼山陽『日本外史』)を終え、5月号から大塩中斎『洗心洞箚記』に移ります。
初回は、『洗心洞箚記』や大塩檄文に示された「万物一体の仁」にふれながら、天保8(1837)年の大塩挙兵に至る過程を描きました。
昭和維新運動に挺身した中村武彦氏は大塩檄文を高く評価していました。
続きを読む 『月刊日本』連載「志士の魂を揺り動かした十冊」、『洗心洞箚記』へ
「著作/文献」カテゴリーアーカイブ
若林強斎『雑話筆記』輪読(平成27年1月29日)
平成27年1月29日(木)、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)81~91頁まで輪読。ついに読了。
山崎闇斎、浅見絅斎の経歴、崎門の学風を象徴する清貧の中の困学、若林強斎の号に込められた思いなど、重要箇所が立て続けに登場。
若林強斎『雑話筆記』輪読(平成27年1月25日)
平成27年1月25日(日)、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』73~80頁まで輪読(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)。
今日は、有名な一節「自分ガ学問ト云ヘバ、嘉右衛門殿ノ落穂ヲヒラフテ、其説ヲ取失ハヌヤウニスルヨリ上ノコトハナシ」の部分を読めた。「嘉右衛門」とは山崎闇斎のこと。かつて闇斎の高弟浅見絅斎は神道に沈潜する晩年の闇斎についていけなかった。やがて闇斎が病床に伏すようになっても見舞おうとせず、葬儀にも列することがなかった。後に、絅斎は闇斎に対する態度を深く悔い、香をたいて師の霊に謝した。闇斎の偉大さを改めて認識し、その精神の継承を決意するに至った絅斎の言葉が、「自分ガ学問ト云ヘバ、嘉右衛門殿ノ落穂ヲヒラフテ、其説ヲ取失ハヌヤウニスルヨリ上ノコトハナシ」にほかならない。
國體についての国民的合意が求められている─中村武彦氏『尊皇攘夷』
対米従属から脱し、國體を回復するための本物の維新が、いま求められている。その際、重要になってくるのが、國體についての国民的合意にほかならない。
民族派の重鎮中村武彦氏は『尊皇攘夷』(今日の問題社、昭和44年)において、次のように指摘していた。
〈尊攘派と対立した形の開国論者及び佐幕派の人々も、尊皇攘夷の基本精神においては共通していた。意見として対立したのは、開国へ持って行く時期、順序、方法の違いだけであった。当時の日本人はみな常識として日本の歴史を知り、国体観念を持っていた。頼山陽の日本外史や会沢正志斎の新論は、幕末、書物を読むほどの者なら、武士だけでなく、全国の農民商人の間でもひろく読まれ、共鳴されていた。
幕末の尊攘維新運動の背後には、このような、いわば広汎なる国民的合意のあったことを見落してはならない。さればこそ、一たび大政奉還から皇政復古への道が決定するや、待っていましたとばかりに国を挙げて維新開明の大行進が始まり、全世界が瞠目する明治の奇蹟的な飛躍発展が行はれたのである。現代日本との根本的な違いが此処にある。
現代日本には頼山陽なく、水戸学なく、ただ圧倒的なる共産主義の宣伝と、所謂三S政策の影響のみがある。占領下に植民地教育を強制されて以来、今なお日本人、殊に若い世代の歴史と国体に関する無知には、救い難いものがある。肇国の神話も明治維新の歴史も教えられず、楠正成も乃木希典も知らない。世界の何処にこのような自虐的な教育をしている国家があろう〉
中村氏がこう書いてから45年あまりを経た現在も、状況は変わっていない。
西郷南洲と大塩平八郎─三島由紀夫「革命の哲学としての陽明学」
西郷南洲の思想と行動は、禅、陽明学、崎門学など多様な思想によって培われたとされている。こうした中で、南洲に陽明学の流れを見出そうとしたのが、三島由紀夫であった。
三島は、昭和45年9月の『諸君!』に発表した「革命の哲学としての陽明学」(同年10月刊『行動学入門』に収録)で、次のように指摘している。
〈西郷には「南洲遺訓」といふもう一つの著書があるが、ここにも陽明学の遠い思想的な影響は随所に見られる。たとへば「遺訓」の追加の部分の「事に当り、思慮の乏しきを憂ふることなかれ」といふ一行や、岸良眞二郎との問答の中の「猶豫狐疑は第一毒病にて害をなすこと甚だ多し」「猶豫は義心の不足より発するものなり」と言つてゐるところ、また「大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨んでは是非機会は引起さずんばあるべからず、英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、気を付くべき所なり」などといふところがさうである。また「遺訓」の問答の「三」では「知と能とは天然固有のものなれば『無智の智は慮らずして知り、無能の能は学ばずして能くす』と。これ何物ぞや、それただ心の所為にあらずや、心明らかなれば知もまた明らかなるところに発すべし」といつてゐるが、その中の引用は王陽明の語そのままでさへある。しかしながら、西郷隆盛の言葉のうちでもつとも大塩平八郎と深い因縁を結んでゐるやうに思はれるのは、次の箇所である。
聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も自刄を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修行致さず、唯个様の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。(西郷南洲遺訓ノ三六)
この文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させるのである〉
崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」
崎門学が明治維新の原動力の一つであったことを良く示す文章が、平泉澄先生の『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)に収められた「望楠軒」の一節である。
〈ここに殆んど不思議と思はれるのは、水戸の大日本史編修と時を同じうして、山崎闇斎が倭鑑の撰述に着手した事である。一つは江戸であり、今一つは京都である。一つは水戸藩の総力をあげての事業であり、今一つは学者個人の努力である。大小軽重の差はあるが、その目ざす所は一つであり、そして国史上最も困難なる南北の紛乱を、大義を以て裁断した点も同趣同様であった。但し問題は、処士一個の事業としては、あまりに大きかった。闇斎は、明暦三年の正月より筆を執り、そして少くとも二十数年間、鋭意努力したに拘らず、完成に至らずして天和二年(西暦一六八二年)九月、六十六歳を以て歿し、倭鑑の草稿もまた散逸してしまった。只その目録のみ、門人植田玄節によって伝へられた。それによれば、後醍醐天皇を本紀に立て、光厳、光明紀を之に附載し、後村上天皇を本紀に立て、光明、崇光、後光厳、後円融、後小松紀を之に附録し、そして明徳二年十月二日、三種神器入洛の事を特筆大書したといふ。して見れば是れは、水戸の大日本史と同じ見識であったとしなければならぬ。 続きを読む 崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」
若林強斎『雑話筆記』輪読(平成27年1月12日)
平成27年1月12日、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』67~72頁まで輪読(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)。
引き続き、陰陽五行、易のこと。「山崎先生ノ、易ハ唐土ノ神代巻、神代巻ハ日本ノ易ジヤト仰ラレタガ、格言ニテ候」(72頁)
●元亨利貞(げんこうりてい)
易経で乾(けん)の卦(け)を説明する語。「元」を万物の始、善の長、「亨」を万物の長、「利」を万物の生育、「貞」を万物の成就と解し、天の四徳として春夏秋冬、仁礼義智に配する。(大辞林 第三版)
●邵康節(しょうこうせつ)=邵雍 (しょうよう)
中国,北宋の学者,詩人。共城 (河南省) の人。字,堯夫 (ぎょうふ) 。その諡によって邵康節と呼ばれることも多い。幼少から才名が高く,李之才から図書,天文,易数を学んで,仁宗の嘉祐年間に,将作監主簿に推されたが固辞し,一生を市井の学者として終った。(ブリタニカ国際大百科事典)
●河図洛書(かとらくしょ)
中国古代に黄河と洛水のなかから出現したといわれる神秘的な図で,天地の理法を象徴しているともいわれる。『易』繋辞上伝に「河,図を出し,洛,書を出し,聖人之に則 (のっと) る」とあり,また『論語』子罕編にも「河,図を出さず」の有名な語がある。(ブリタニカ国際大百科事典)
若林強斎『神道大意』の真髄⑤─近藤啓吾先生「日本の神」⑤
若林強斎『神道大意』第五段
「総じて神道をかたるは、ひらたうやすらかにいふがよしとなり。忌部正通の、辞を嬰児にかりて心を神聖にもとむ、といへるこれなり。あのあさはかにあどない(子供つぽい、あどけないの意)やうなる中に、きつう面白くうまい意味がある、理窟らしい事を甚だきらふ事なり。(下略)」
以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
「以上第五段。忌部正通の辞とは、忌部正通の著と伝へる『神代口訣』の凡例のうちに見える語であつて、その意、「神代巻」の記述、一見荒唐無稽の如くであるが、それは古代人の未開未熟の眼をもつて見た儘を写したものであるから、我れも当時の人となりて当時の眼をもつてその荒唐の記述を見れば、おのづからその真実を知り得るであらうといふものである。そして闇斎も、初め神代の記述の不合理なるを解しがたしとしたのであるが、この辞を知るに及んで、その記述に込められた真実を理解するの道が開けたることを述懐してゐる。強斎のこの語は、闇斎のその意を受けたものに外ならない。そして強斎はその辞によつて、神道はいたづらに理窟を言ひたてるべきでなく、その説、平易なるべきであるといふのである。
以上をもつて強斎『神道大意』の紹介とその略解を終へる。読者みづからこれを熟思し、その神道説の本旨をみづから把握して頂きたい。そしてこれに因り、日本の神の特色を明らかにしてほしいと思ふ」
若林強斎『神道大意』の真髄④─近藤啓吾先生「日本の神」④
若林強斎『神道大意』第四段
「……苦々しき事は、上古神祖の教を遵(したがひ)守らせたまはぬ故と見えて、上はおそれあれば申し奉られぬ御事なり。下一統の風俗、唐の書のみ読みて、却つて我が国の道はしらず、浮屠は信じて却つて神明はたふとび奉らず、かの君上を大切に存じたてまっり、冥慮をおそるるやうなるしほらしき心は殆んどむなしくなりたり。まことに哀れむ可き事ならずや。然れども天地開闢已来、今日に至るまで、君も臣も神の裔かはらせたまはず、上古の故実もなほ残りて、伊勢神宮を初穂をもて祭らせ給はぬ内は、上様新穀をめしあがらせたまはぬの、伊勢奉幣、加茂祭の時は、上様も円座(わらふだ)にましますの、僧尼は神事にいむなどいふ類なり。さあれば末の世というて我れと身をいやしむべからず、天地も古の天地なり、日月の照臨、今にあらたなれば、面々の黒(きたな)き心を祓ひ清め、常々幽には神明を崇め祭り、明には君上を敬ひ奉り、人をいつくしみ、物をそこなはず、万事すぢめたがふ事なければ、おのれ一箇の日本魂は失墜せぬといふものなり。余所を見て悲しむ事なく、唯々我が志のつたなきことを責め、我が心身のたゞしからぬ事のみをうれひ、冥加を祈りてあらためなほすべし」
以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
「以上第四段。我国に古風古儀の存するありて、天地も古の天地であり、日月の照臨も今にあらたであるから、各人それぞれの汚き心を祓ひ清めて、神を崇め君を敬ひ人をいつくしみ物をそこなはず、万事筋目たがふことがなければ、己れ一個の日本魂は失はれぬことであるから、人を見て我が足らざるを悲しむことなく、ただ我が志の拙きことを責め、我が身の正しからぬことのみを憂へて、神の冥加を祈り、我れの至らぬところを矯め改めよ。かく説くが本段の主旨である。なほ本段の用語に見える「上様」は、当時一般にその大の属する封建君主をいふものであつたのと異なり、天皇を指し奉ることであさて、強斎に於いては、上様と仰ぐは天皇御一人の外なく、この講義を聞く人、よし封建君主の家臣であつても、その人の立場を越えて天皇の直臣との立場に於いてこれを聞くことを求めたことが、この語の用法にうかがはれる」
若林強斎『神道大意』の真髄③─近藤啓吾先生「日本の神」③
若林強斎『神道大意』第三段
「志をたつるというても、此の五尺のからだのつづく間のみではない、形気は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して八百万神の下座に列り、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて死生存亡のとんちやくはなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して(もりはもぐ、ねじつてとるをいふ)、不孝不忠となさば、生きても死にても天地無窮の間、其の罪逃る可からざるなり。(中略)道は神道、君は神孫、国は神国といふも、抑々天地開闢の初め、諾册二尊天神の詔を受け(中略)共にちぎりて天下をしろしめす珍(うづ)の御子を御出生と屹度祈念し思食す誠の御こころより、日の神御出生ならせられ、二尊かの天柱をもて日の神を天上に送り挙げたてまつりて、御位に即かせたまふより、天下万世無窮の君臣上下の位定まりて、さて日の神の御所作は、但父母の命をつつしみ守らせられ、天神地祇を斎ひ祭りて宝祚の無窮、天下万姓の安穏なるやうにと祈らせたまふより外の御心なし。神皇と一体といふも是なり。祭政一理といふも是なり。あなたを輔佐成らるる諸臣諸将も、上様のかう思召すみことのりを受けて宣ぶより外なうして、児屋(こやね)・太玉(ふとだま)の命の宗源を司らせらるるといふは、其の綱領なり。(中略)諸臣諸将は申すに及ばず、天下の蒼生までも上の法令をつつしみ守りて背き奉らぬやうに、天地神明の冥慮をおそれたふとびて、あなどりけがす事なければ、おきもなほさず面々分上の(それぞれの身分の上でいふの意)祭政一理といふものなり」
以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
「以上第三段。神道の教たる、忠孝の徳を全うせんとの努力は、その人の生存中のみの務めではなく、死するも猶ほ続けて、つひに八百万の神々の末にその座を与へられ、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神とならざるべからざるを語り、それ故に死生存亡の頓着はなき事であると説いてゐる。この段、まさに垂加学派の神道説の精彩をここに凝縮したる思ひがする」