「外国人」カテゴリーアーカイブ

「グンフー」=「一芸において極めて秀でている人間」

 中国武術は一般的にカンフーと総称されているが、ブルース・リーは広東語の発音「グンフー」を好んで用いた。
 ブルースが極めようとしたグンフーを支えていたのは、老荘思想を中心とする東洋思想であり、グンフーは武道であるのみならず、生き方そのものであった。それはブルースは次の言葉に示されている。
 「グンフーとは、一つの哲学である。道教と仏教の哲学では必須の部分となっている。それは逆境に対処する理想、すなわち、少しかがんでから跳び上がること、すべての物事に対して忍耐できること、人生における失敗と教訓を利すること、である。これらは、グンフーという芸術の多面性を示し、グンフーは自分自身の在り方のみならず、生き方をも教えてくれる」
 このブルースの言葉について、ジョン・リトルは次のように解説している。
『ブルース・リーノーツ』
 〈「グンフー」とは、正しく訳すと、とてつもない「総合的な」達成度、または業績を指す言葉である。「グンフー」を得た者とは、一芸において極めて秀でている人間のことであり、その一芸が何であっても違いはない。例えば、文章を書くことに並外れて長けているジャーナリストは、グンフーがあるといえる。良い腕を持ったペンキ職人も、同様にグンフーを見せているといえる。つまり、医学から乗馬に至るまで、もうおわかりのように武術でもゴルフでも、職業や余技など、すべての技能について適用されうる表現なのである。
 今日の社会でなら、自分の仕事を徹底的に修得すればグンフーは示され、自分自身を修めたことにもなる。自分自身を修めることは、少なくとも中国人の考え方からすると、個人が目指すにふさわしい、有意義なものである。中国の偉大な伝統によれば、一角の哲学者、才能ある錬金術師、熟練した医師、文学をよく研究した学生、注目される音楽家など、グンフーを修得した人は、すなわち自分自身を修めた人とされる〉(『ブルース・リーノーツ』)

ブルース・リーと陰陽の理論

 世界にアジア人俳優の存在を知らしめた武道家ブルース・リーが32歳の若さで亡くなってから、今年(2023年)7月で50年が経つ。
 ブルース・リーは1940年11月27日にサンフランシスコで生まれた。広東演劇の役者だった父李海泉は中国系、母何愛瑜は白人と中国人のハーフ。彼は生後まもなく、イギリス植民地下の香港に帰国し、子役を務めるようになる。ところが、喧嘩に明け暮れるブルース・リーに手を焼いていた父の意向で、18歳のときにアメリカに渡る。
ブルース・リー

 21歳になった1961年、ブルース・リーはワシントン大学哲学科に進学し、勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始めた。1963年にブルース・リーは『基本中国拳法』を出版し、截拳道(Jeet Kune Do/ジークンドー)を創始している。
 そして、1971年に主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットとなった。そして、第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)、第3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)によって不動のトップスターの地位を築く。
 わが国でも、ブルース・リー主演映画の影響でカンフー・ブームが巻き起こった。筆者も小学生時代にヌンチャクで格闘ごっこをしたことを記憶している。
 ここで筆者が注目するのは、アジア人のアイデンティティにも基づいたブルース・リーの反植民地主義的な意識と、東洋哲学への深い理解である。
 ブルース・リーは『基本中国拳法』で、次のように書いている。
 「グンフーは、健康促進、精神鍛練、自己防衛の技術である。その哲学は、道教、禅、易経に基づくものであり、その理念とは、マイナスをプラスに変えることである。最小限の力で最大の効果を得ることを目標としており、そのためには敵の動きに調和し、無理せず相手に逆らわず適応することである。グンフーの技術は、力に頼るのではなく、エネルギーを最小限に抑え、陰あるいは陽のどちらか一方には偏らないということを目指している」(松宮康生訳)
陰陽
 「グンフーの基本的理念とは、陰陽の理論に基づくものである。このお互いに補足し合う力は、連続的であリ途切れることがない。この中国の思想は、あらゆる事柄に当てはめて応用することができるが、ここではグンフーのことに限って説明していくことにしよう。
 まず、円の中の黒い部分であるが、この部分は陰と呼ばれている。この陰と呼ばれる部分は、消極性、受動性、穏やかさ、空虚、女性、月、暗さ、夜などの意味を表している。それに対しもう片方の白い部分は、陽と呼ばれている。この部分は、積極性、能動性、堅固さ、実存性、男性、太陽、明るさ、昼などの意味を表している。
 よくある間違いは、この陰陽のマークを、二元論の太極のマークと混同することである。太極のマークでは、陰は陽に相反するものとだけ教えている。もし我々が陰陽の思想を この太極のマークの示すように2つあるものの一方に過ぎないという様に考えるなら、いつまでたっても真実を知ることはできないだろう。
 実際すべてのものは、補い合う部分というものを持っている。それは人間の心の中に、相反するものの中に存在しているのだというものの見方によるのである。太陽は月の正反対のものという考えは間違っているのである。それらは、お互い相関関係にあり、どちらか一方が欠けてもお互いが存在し得ない。同様に男性という存在は、単に女性という存在を補うだけのものではない。男性がいなくては、女性はこの地球上に存在し得ないのである。また、その逆もしかりである。 続きを読む ブルース・リーと陰陽の理論

闇斎が唐崎定信に与えた文天祥「忠孝」の二文字

 蘇峰は、唐崎赤斎顕彰碑撰文をきっかけに崎門学に傾倒していった。大きな転機となったのが、竹原を訪問し、崎門学と竹原のゆかりを目のあたりにしたことである。
 唐崎赤斎の祖先定信は礒宮八幡神社神官だった。定信は万治元(一六五八)年に、磯宮八幡宮を古宮山から現在の竹原市田ノ浦に移転建設した中興の祖と言われている。
 この定信こそ、竹原に垂加神道を広めた最初の人であつた。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだのである。定信が闇斎に宛てた誓文が残されている。
 一 神道御相伝の御事誠に有難き仕合せ恩義の至り忘れ申す間敷事
 一 以て其の人に非ざれば示すべからず堅守し此の訓を御許可無きに於いては猥りに口を開き人に伝へ申す間敷事
 一 畏国の道習合附会仕る間敷事
 右三ヶ条の旨相背くに於いては
 伊勢八幡愛宕白山牛頭天王、殊に伊豆箱根両所権現、惣て日本国中大小神祇の御罰相蒙る者也
  延宝三年乙卯十一月十九日
        柄崎隼人藤原定信
 山崎加右衛門様

 定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。木綿布に対する闇斎の礼状も残されている。
 「見事木綿壱疋御送給、遠路御懇意之到、過分二存候、我等弥無事可被心安下被」(見事な木綿壱疋御送り給い、遠路御懇意の到り、過分に存じ候、我等いよいよ無事、安心下さるべく候)
 金本正孝は、闇斎のこの書状(縦十四センチ・横三十センチ)は、延宝四年に書かれたものと推定してゐる(「世に知られざる唐崎士愛の生涯」『芸林』第四十五号第二号)。
闇斎が唐崎定信に送った礼状

尊皇斥覇の発火点─竹原の唐崎家と頼家

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。山崎闇斎を祖とする崎門の精神を体現した唐崎赤斎(常陸介)の魂を訪ねるためだ。もう一つの目的は、頼山陽の祖先の足跡を把握すること。
 寛政5(1793)年6月、赤斎の盟友・高山彦九郎が久留米で切腹。赤斎は彦九郎 の魂を受け継いで尊皇斥覇の運動を続けたが、大きな壁にぶつかったのだろう。寛政8(1796)年11月16日、長生寺を訪れ、先祖の墓前で切腹した。動機を尋ねられた赤斎は「聊か憤激のことあり」とのみ応え、絶命したという。 まず竹原駅から市立竹原書院図書館に向かい、崎門の金本正孝氏による赤斎研究書や『唐崎常陸介資料集』などを閲覧、複写。
 次に礒宮八幡神社に向かう。もともとは建久5(1194)年、鎌倉の幕臣後藤兵衛実元が、宇佐八幡宮の分霊を後藤家の守護神として勧請し、後藤家に鎮祭したのが始まり。後藤実元の没後、地元の人々により現在地(田ノ浦一丁目6-12)の南西方面の鳳伏山麗に社殿を建てて祀ったとされる。万治元(1658)年に現在地に遷座したのが、赤斎の高祖父・唐崎正信だ。正信の息子の定信は山崎闇斎の門人である。
 生前、赤齋は尊皇斥覇の精神を鼓舞するため、境内の千引岩に、文天祥の筆になる「忠孝」ニ文字を刻した。この「忠孝」の二文字こそ、定信が闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から授けられたものだった。
 礒宮八幡神社には赤斎唐崎先生碑が建っている。題額の四文字「首向宮闕」は赤斎の遺墨。碑文は徳富蘇峰、書は上田鳩桑。
 建立されたのは昭和28年8月10日。建設者として、後に総理を務める池田勇人ら七人の名前が刻まれているが、中心人物は竹原の長老吉井章五だ。吉井のほか、崎門の内田周平翁らが関わった、建立に至るドラマについては稿を改めたい。
 礒宮八幡神社を後にし、赤斎が切腹した長生寺に赴き、墓前で赤斎の無念に思いを馳せた。
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坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

■フィリピンの自主独立路線
 「米国と中国のどっちに味方する?」
 昨年シンガポールの研究機関が、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟十カ国で、研究者や政府機関の職員、ビジネスマンらを対象とした調査を実施し、そう質問した。この質問に対して、「米国に味方する」との回答が多かったのは、十カ国のうちシンガポール、フィリピン、ベトナムの三カ国だけだった。ラオス、ブルネイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシアの七カ国では、「中国に味方する」との回答の方が多かった。このうちラオスとブルネイでは約七割が「中国に味方する」と回答している。
 東南アジアの親中化は、中国の「札束外交」によってもたらされているとの主張がある。カネの力にモノを言わせて東南アジア諸国を靡かせているという見方だ。しかし、東南アジアの親中化は、それだけではとらえ切れない。そこを見誤ると、日本はアジアにおける影響力をさらに失うことになるのではなかろうか。筆者は今こそアジアの声に耳を澄ます必要があると考えている。
 八割以上が「米国に味方する」と回答したフィリピンにおいても、状況は激変しつつある。同国のドゥテルテ大統領は、二月十一日、「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)を破棄すると米政府に通知したのだ。この決定の直接的な引き金は、アメリカがドゥテルテ大統領の側近に対して入国ビザの発給を拒否したことだが、フィリピンの自主独立志向に注目すべきである。
 フィリピンは一六世紀後半からスペインによる支配を受けていたが、一八九八年に勃発した米西戦争の結果、アメリカの植民地となった。一九四六年に独立した後も、基本的に親米政権が続き、アメリカ支配から脱却することができなかった。日本と同様、フィリピンにもスービック海軍基地、クラーク空軍基地などの米軍基地が置かれていた。ただし、一九六六年に改定された米比軍事基地協定は米軍基地の駐留期限を一九九一年までと定めていた。そこで、米比両政府は、基地存続を可能とする米比友好協力安保条約に調印したが、一九九一年九月十六日 フィリピン上院は同条約批准を反対多数で否決したのである。この日、上院周辺は、まるで独立宣言を行ったかのような熱気に包まれた。こうして米軍はフィリピンから完全撤退したのである。ところが、一九九八年にVFAが結ばれ、米軍の駐留に道が再び開かれた。
 我々は、ドゥテルテ大統領が目指しているものが真の主権回復とアイデンティティティの確立であることに注意する必要がある。獨協大学教授の竹田いさみ氏が指摘しているように、ドゥテルテ大統領の対米自立路線の原点には、自らの体験がある。ドゥテルテ氏が大学時代、ガールフレンドがいるアメリカへ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。また、ドゥテルテ氏には、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ロサンジェルス空港で書類の不備を指摘され、空港係官に別室で尋問された経験がある。一方、アメリカ人はビザなしでフィリピンに自由に入国することができる。ドゥテルテ大統領は、こうした自らの体験から米比関係の不平等性を実感し、アメリカ優位の構造を変えなければならないと確信したのであろう。
 また、ドゥテルテ大統領は、「フィリピン」という国名が宗主国だったスペインのフェリペ国王に由来する名前だとして、国名変更に意欲を示している。国名の候補として「マハルリカ(高潔)」などが候補に挙がっている。ドゥテルテ大統領が共感するマルコス元大統領も、かつて「マハルリカ」を新たな国名に挙げたことがある。
 東西冷戦下で西側陣営に入った東南アジアの国は、概して親米的だった。しかし、植民地支配に喘いだ民族の記憶は容易には消えない。その記憶が自立志向に向かわせているのである。

■興亜論を共有した日本人とアジア諸民族
 かつて、日本人は欧米列強の植民地支配に苦しむアジア諸民族の解放に手を貸そうとした。少なくとも、在野のアジア主義者、興亜論者たちは、アジアの独立運動家を支援し、アジア諸民族の団結を目指した。例えば、興亜論の精神的支柱であった玄洋社の頭山満翁は、中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースだけではなく、東南アジアの志士たちを支援した。ベトナムのクォン・デ侯、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ビルマ(ミャンマー)の志士ウ・オッタマらである。一方、玄洋社出身の代議士中野正剛は一九四二年に『世界維新の嵐に立つ』を著し、次のように述べた。
 「帝国主義侵略は今日の人類世界では過去の迷夢である。日本は大東亜の新秩序を建設し、その指導者として、功労者として、永久の先行者として、大東亜全民族の幸福と栄誉の源泉とならねばならぬ。これこそ大和民族として生き甲斐のある存立を確保する所以である」
 かつて日本人は独立不羈の気概を持ち、植民地支配に苦しむアジア諸民族に共感していた。だからこそ、多くのアジアの志士たちが日本を頼り、日本との連携を模索したのだ。フィリピンの興亜論者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士もその一人である。彼は弁護士として活躍し、日本人との関係を強め、一九三二年に『比国独立と極東問題』を刊行して宗主国アメリカを震撼させた。一九四二年には『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』で、「幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さねばならぬ」と書いた。
 しかし、大東亜戦争に敗れたわが国はアメリカに占領され、興亜の理想はわが国においては封印されてしまった。だが、興亜の理想はアジア人の心に残されていた。一九五一年、サンフランシスコ対日講和会議で演説したスリランカのジャヤワルダナ大統領は「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」と語った。 続きを読む 坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯③

■木村武雄と周恩来の会見
 木村は早い時期から、日中の橋渡し役を演じていた。昭和三十九(一九六四)年十一月二十四日には久野忠治とともに訪中し、陳毅外交部長と会談している。そして、日中国交正常化の二年前の昭和四十五年にも北京を訪れ、周恩来首相と会談している。木村莞爾氏は、次のように振り返る。
 「日中国交正常化の影の主役は廖承志です。木村武雄は彼とも交流を温めてきました。昭和四十五年の訪中には私も同行しました。香港まで飛行機で行き、香港から広州へ鉄道で行き、広州から北京に飛びました。その時にアレンジしてくれたのが、当時香港副領事だった加藤紘一君です。
周恩来
 石原莞爾先生の思想を受け継いだ木村武雄は、「東亜大同」の夢を抱くとともに、我が国をどの国とも対等に話し合える国にしておかなければいけないとの考えから、日中国交回復を目指したのです。木村武雄は、それを進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村武雄は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです。実際、右翼は騒がなかったのです。
 東亜連盟には、アウトローから左翼まで共鳴していました。例えば、アウトローでは「東声会」を結成した町井久之。左翼では、市川房枝、佐々木更三、淡谷悠蔵といった人たちです」
 平澤光人氏によると、木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人「東亜連盟の理念と実践」『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』原書房)。木村莞爾氏も、「周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです」と語っている。木村は、中国が信頼する数少ない日本人の一人だった。
 木村は東條政権に盾突き、昭和十七年四月の翼賛選挙では非推薦で当選した。しかし、東條政権からの圧力が強まる中で、木村は同年九月に上海に逃れた。木村武雄は次のように振り返っている。
 〈私は太平洋戦争の四年間を、ほとんど中国で過ごした。……軍は思い上がった一部の指導者たちを先頭に南へ北へ戦線を拡大してしまっている。この戦いを〝聖戦〟と呼ぶことを完全に否定するものではないにしても、現実にはおよそ聖戦とはかけ離れた殺戮と蹂躙とが無限にくりひろげられている。私は、この小躯をもって可能なかぎりの正義を貫いてみたいと希った。
 私は活動の本拠を上海地区においた。上海は経済の中心地であり、したがってまた日本軍による掠奪行為の最も激しかった地域である。上海の滬西地豊路のチャイナタウンの一角に、私は木村公館なるものを創始した。……私が創始した木村公館は、紡績業者、本屋といった商人たちから会社や店の顧問になってくれとかあるいは略奪から護ってくれと依頼され、そのために日本内地から私の同志、部下たちを呼び寄せて発足させたものであった。いわば中国人のための萬相談所ともいうべき組織となり、お役所(軍)への陳情、公文書や商取引証書の作成、拘留、留置者の貰い下げといったことを業としたわけだが、料金はとらず、年中無休で働いた。……ところが上海在住一年にして、今度は現地陸軍部部長からの退去命令が私に突きつけられたのである。陸軍部の言い草は、「君は日本人でありながら日本人ではない。中国人からは受けがいいが、日本人は君をひどく嫌っている。したがって上海退去を命令する」というのであった〉(『自伝 米沢そんぴんの詩』)
 木村は帰国の準備を始めた。すると、第四課長となった辻政信が木村に面会を求めてきたのだ。辻は木村に上海に留まるよう求めた。その理由は二つあった。一つは、木村に日中両国人の間に入って諸々の問題の調整役を引受けてほしいということだった。もう一つの理由は、日本軍百万の将兵のために食糧、特に米を手に入れてほしいというものだった。木村は次のように述べている。
 「辻大佐は、私に出ている退去命令を何としても取消させる、という。どうしても私が必要なのである。中国商人にうんと言わせるためには私を上海にとどめておくしか方法がないことを、大佐は熟知していたのであった。大佐は陸軍の幕僚の中では切れ者で知られ、かつては東条軍閥を支持した主戦派の一人であったが、のちには石原思想に感化され、私たちの東亜連盟運動に深い理解をみせていた男である。私は彼のためにひと肌脱ぐことにやぶさかではなかったから、その申し出を引受けたのであった。
 私の呼びかけに応じて、上海のキャセイ・ホテルに八十数人の米穀業者が集まってきた。今や一人の米業者も不在だといわれた当時の上海で、である。米業者たちを動かしたのは私と関係の深かった紡績業者たちであった。その結果、私にとっても、ましてや当時の日本軍にとっても信じられぬほどの米、実に六十万トンが集められたのであった。自分たちの恩人である木村さんを助けよう、その木村さんの兄貴分が困っているのだから、敵も味方もない、何とか策を講じてやろうというのが彼らの考えなのだ」
 木村武雄自身はこのように書いているが、木村莞爾氏によると米穀業者の協力は汪兆銘の号令によって得られたのだという。

隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

 令和3年3月13日、嵐の中を大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、墨田区向島の隅田公園に赴きました。ここは、水戸藩の小梅藩邸(下屋敷)があった場所です。隅田公園には、水戸藩の尊皇思想を示すいくつかの碑が建っています。
 文政12(1829)年、徳川斉昭(烈公)が水戸藩第9代藩主に就任しました。烈公から絶大な信用を得ていた藤田東湖は、天保11(1840)年には側用人となり、藩政改革に当たりました。
 しかし、弘化元(1844)年5月、烈公は隠居謹慎処分を受け、東湖も失脚します。小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪されました。翌弘化2(1845)年2月には幽閉のまま小梅邸に移ったのです。この幽閉時代に東湖が作ったのが、漢詩「文天祥正気の歌に和す」(正気の歌)です。
 「正大の気、粋然として神州にあつまる。秀でては富士の獄となり、巍巍として千秋そびゆ。注ぎては大永の水となり、洋洋として八州をめぐる。発しては万朶(ばんだ)の桜となり衆芳ともにたぐいなし……」
 東湖は安政2(1855)年10月に発生した大地震に遭い亡くなりますが、正気の歌は幕末の志士を鼓舞し、明治維新の原動力となりました。

「天地正大気」の漢詩碑(隅田公園)
 水戸学の土台となったのは、徳川光圀(義公)以来の尊皇思想です。義公遺訓は、第6代藩主・治保(文公)から第7代藩主・治紀(武公)に伝えられ、さらに武公から烈公に伝えられ、さらに烈公から慶喜に伝えられました。義公遺訓は、慶喜の異母弟・徳川昭武にも伝えられていたと思われます。 続きを読む 隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

副島種臣『精神教育』③

蒼頡
 丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第五編以降を見ていく。
 〈第五編は「良知」である。「人の念々の動くのは多くは皆慣習であるものだから、忠孝の習慣の厚いものは常にその念が動き、又忠孝といふ者を常に思はぬものは其の念は決して動かぬ、そこが習相違である」「中庸に天命之謂性、率性之謂道(天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い)とある、率性とは即性のまゝといふことである、性のまゝなるが道なれば、道と性とは同一なるもので、差つたものでないといふことが分るであらう」「中庸にも君臣也。父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也とある通り畢竟五倫といふものより外に道といふものはない筈のものである」「伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が生れましたといふは、夫婦の義であらう、其れからだん〲と多くの神々が生れましたといふは、即、父子の義であらう、葦原千五百秋之瑞穂国是我子孫可王之地、宜爾皇孫就而治焉とあるは君の義であらう、臣下よりいふときには、臣の道が其れから生ずるものであるから、やはり君臣の意味である、庸佐夜芸互阿理祁理といふ場合からだん〲と万民が相輯睦するといふのは、即、朋友の交がそれから教へらるゝのである、それから先づ兄なる皇子より即位に即かせられて、次に弟の皇子に及ぶといふのが経である。間々その時によつて弟が先立たれたこともあるけれども、それは権である。これから長幼の道も明になつて居る、かやうに五倫の道といふものは決して支那から教へられたのでなく、自然に備てゐる」「すべて君父には不較といふて、何であらうが是非曲直を較ぶるといふことをせぬが、臣子たる者の道である」「道といふ字は首に辵すなはち首が走ると書てある、即、頂に来住める神が走るの意味であらう」「貴といふ字は一中が貝(タカラ)なりと書てある」「一文字を作つた蒼頡といふ男はなか〱えらいものであつた」など〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論