「『アジア英雄伝』」カテゴリーアーカイブ

『アジア英雄伝』前書き

一 アジアの黎明の時代

列強の植民地支配に対する民族的反抗
 本書で取り上げた二五人のアジア人(金玉均、康有為、ボニファシオ、ダルマパーラ、リカルテ、孫文、李容九、ガンジー、オーロビンド・ゴーシュ、イクバール、ウ・オッタマ、クォン・デ、宋教仁、ビハリ・ボース、プラタップ、クルバンガリー、ベニグノ・ラモス、チャンドラ・ボース、ピブーンソンクラーム、スカルノ、ハッタ、アウン・サン、スハルト、マハティール、ノンチック)は、民族の独立と興亜に人生を捧げた志士たちである。その多くが命がけで民族独立闘争に挺身し、志半ばで倒れている。かつて栄華を誇ったアジアは、ヨーロッパ列強による植民地となり、その輝きを失っていた。アジア諸民族は、支配から脱して独立を勝ち取り、主体的な国づくりに向かわねばならなかった。
 だが、列強の力は強大であり、幾度にもわたる反抗は空しくも抑えつけられていた。例えば、インドでは一八五七年から一八五九年に、セポイの乱と呼ばれる民族的反抗運動が試みられたが、結局鎮圧されている。また、一八八八年には、ジャワ島西端のバンテン地方で反オランダ農民反乱が起こったが、三〇日で鎮圧されている。
 アジアが欧米の支配下に置かれ始めたのは、およそ五〇〇年前のことである。アジアへの進出で先んじたのは、スペインとポルトガルである。両国は、イベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動(レコンキスタ)を達成するや、大航海時代の先頭を切って、海外への進出を開始した。一四九四年には、ローマ教皇アレクサンドル六世がトルデシリャス条約を定め、大西洋上に西経四六度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットを訪れたのを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部に拠点を築いていく。ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、一五一一年にマラッカを征服、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点を築く。マレーシアのマハティール前首相は、この五〇〇年前の歴史を忘れてはいない。一方、スペイン艦隊は太平洋を横断し、東方からアジアに進出した。マゼランは、一五二一年にフィリピンに到達、徐々に勢力を広げ、一五七一年にはマニラ市を含む諸島の大部分を征服した。この間、スペインとポルトガルによる勢力は日本にも及んできたが、信長、秀吉らの努力によってそれを阻止している。
 スペイン、ポルトガルに次いでアジアへ進出してきたのが、オランダである。オランダは、一六〇二年には東インド会社を設立、一六一九年にはバタビア(現ジャカルタ)に要塞を築き、首府とした。やがて一七世紀中ごろには、ポルトガルとイギリスの勢力を駆逐し、インドネシア全体を植民地とした。
 では、イギリスの進出はどうだったのか。同国は、一八世紀半ばに南部インドの支配権をめぐってフランスと三次にわたって戦争し、最終的に勝利する。さらにインド土着軍を制圧し、インドにおける支配権を固める。一八二四年には、マレー半島を勢力下に収め、イギリス領海峡植民地が成立する。一八八六年には、ビルマがイギリス領インドに併合されている。さらに、イギリスは一八九八年に香港を獲得、清への勢力を拡大していった。この間、イギリスが清に持ち込んだ大量のアヘンによって、多くの中毒者が生み出された。
 フランスは、一九世紀になって仏領インドシナなどの植民地化に成功した。
 アメリカは、一八九八年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったフィリピンを植民地化する。
 また、シベリア制圧を終えたロシアは、進路は南へとり、中央アジアの多くの汗国を植民地化し、清の弱体化につけこみ満州のアムール川以北と沿海州を植民地化した。これが、欧米列強によるアジア植民地化の歴史である。アジア諸国は政治的独立を失うとともに、富を略奪されていたのである。
 本書で取り上げた志士たちは、この状況を打開するために立ち上がったのである。

西洋近代思想への抵抗
『アジア英雄伝─日本人なら知っておきたい25人の志士たち』(展転社)

 アジア諸国は、植民地化の過程で伝統文化を無残に破壊されていた。劣等感を植え付けられたアジア諸民族は、独自の文化への誇りを失い、人間中心主義、物質至上主義といった西洋近代の価値観を受容していった。こうして、自らの伝統文化、宗教の中の普遍性は忘却させられたのである。
 植民地解放闘争の過程で再発見された伝統文化、宗教は、西洋近代文明を超克し得る文明的な意味を持っていた。やがて、第一次世界大戦が勃発すると、欧米の内側から、近代文明に対する懐疑的な見方が唱えられるようになる。シュペングラーの『西洋の没落』もその一つである。
 本書で取り上げたアジアの志士たちの多くも、伝統文化と宗教の価値を普遍的なものとして信奉し、近代西洋文明を乗り越えようという志を持っていたのである。例えば、マハトマ・ガンジーは、「近代文明に対する厳しい弾劾の書」と評される『ヒンドゥー・スワラージ』において、「私たちの祖先は、機械のつくりかたを知らなかったわけではない。ただそんなものを欲したら徳性を失うだろうということも知っていた。だから熟考したうえで、できる限りのことを、手と足で行うべきであると決めた」と書いている。パキスタンのムハンマド・イクバールは、独自のイスラーム思想に基づいて、鋭い近代批判を展開した。セイロンのアナガーリカ・ダルマパーラは、「今世紀は一転して眠れる亜細亜を覚醒せざるべからず。而して欧州一流の文明よりも更に完全なる世界的文明を作らざるべからず」と語っていた。インドのビハリ・ボースは、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明転換を目指していた。ベトナムのクォン・デもまた、近代主義に批判的なカオダイ教との連携を模索した。
 後述するように、普遍的価値に基づいたアジア文明の復興というビジョンは、多くの場合、それぞれの民族思想とともに、宗教思想に裏付けられていたのである。
 独立の維持を果たしたという点において、明治以来の近代化に一定の評価を与えつつも、文明転換の視点を失わなかった日本の興亜陣営と、本書で取り上げたアジアの志士たちとは、文明史的課題をも共有していたのである。
 やがて、大東亜共栄圏構想が盛んに語られるに至って、西洋近代に対する批判論も、ある種の総括のときを迎える。戦時期に展開された「近代の超克」論がそれだ。昭和一七(一九四二)年七月には、小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎らが参加して「近代の超克」の座談会が開かれた。これらの参加者は、京都学派の哲学者、日本浪漫派の文学者、『文学界』同人の三グループからなる。京都学派の高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治は、ほぼ同時期の『中央公論』においても、座談会「世界史的立場と日本」を行っている。
 ただし、後述する通り、列強の勢力に抗して、独立維持のために富国強兵を急いだ明治以降において、西洋近代に背を向けることは困難であった。だからこそ、竹内好は「『近代の超克』は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、……一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった」と指摘したのである。
 近代の超克という課題は、すでに解決済なのだろうか。地球環境問題の深刻化、精神的な価値の喪失感が進む中で、いよいよ大きな課題として、人類全体に突きつけられているといっても良い。
 では、植民地解放という課題はどうなのか。形の上では、アジア諸国は一応は独立を果たした。しかし、中国では、チベット、内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)などで、民族固有の文化、宗教が制約されているとの見方もある。
 その一方で、アメリカが主導するグローバリズムを新しい形の植民地主義ととらえる見方もある。一九九七年のアジア通貨危機によって、タイ、インドネシア、韓国が相次いで国際通貨基金(IMF)の金融支援を仰ぐことになった。この際、各国の主体的な経済運営が否定されたことから、マハティール首相は、新植民地主義だと激しく批判している。 続きを読む 『アジア英雄伝』前書き

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論

「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

 大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
 皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
 2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
 大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
 「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
 吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 続きを読む 「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

文麿に引き継がれた興亜思想
 「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
 昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
 興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
 『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 続きを読む 近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

大倉邦彦と東亜同文書院

 大倉邦彦が県立佐賀中学校在学中の明治三十四年十月、上海の東亜同文書院の院長・根津一が来校して講演、清国情勢と我が国の政策について述べた。根津は、荒尾精の盟友として活躍した興亜思想の先駆者である。
 邦彦はこの根津の講演を聞き、興亜の志を抱き、東亜同文書院に進学することを決意する。
 ところが、母ヱツは「そんな遠いところに行かなくても」と、泣いて引き留めようとした。邦彦は、「単に東京の名に憧れて都の学校に入って職にありつくよりも、シナへ行って今に総督の顧問になる方が私に適っています」と母を説得、明治三十六年九月上海に赴き、東亜同文書院商務科に進んだのだった。
 上海での体験は、若き邦彦に強い影響を与えた。晩年の邦彦と交流した、平泉澄門下の村尾次郎は、邦彦が上海などで目撃した光景について、次のように書いている。
 「上海あるいは天津におります時分に、大倉邦彦は非常に深い悩みに閉ざされていたのです。当時の清国は列強の侵食するところとなっており、上海も天津も、大きな港は列強の利権の場所となっていました。(中略)大倉邦彦青年が散歩しながらつくづくと思ったのは、公園の入口に『犬と支那人は入るべからず』と書いてある、何と情けないことだ、自分の国の人間が犬以下に扱われるという清国の窮状、それはアジア全体の窮状であると思われました」(村尾次郎「創立者大倉邦彦の人と思想」『大倉邦彦と精神文化研究所』平成十四年、三十九頁)。

東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

 平成25年末の安倍首相の靖国参拝以来、東京裁判批判を許さないというアメリカの意志が明確になってきた。もはや、戦後レジームからの脱却を目指すためには、アメリカとの思想闘争は避けられなくなった。
 以下、『アジア英雄伝』の「はじめに」の関係箇所を引用する。

〈占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
 この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。 続きを読む 東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

政府の外交と在野の興亜論者

興亜思想と世界皇化
 興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」 続きを読む 政府の外交と在野の興亜論者

興亜思想で結ばれた志士のネットワーク

筆者が『アジア英雄伝』で取り上げた二五人の志士たちの多くは、日本に亡命するか、日本が設立した訓練機関などに所属し、興亜の理想を日本人と共有していた。

彼らが信頼した日本人とは、頭山満に代表される、列強の植民地支配に抵抗し、アジア諸民族の独立に手を貸そうとした興亜陣営であった。以下、アジアの志士たちと興亜陣営の結びつきを列挙してみたい。

朝鮮開化派のリーダー金玉均が来日する前年の明治一四(一八八一)年、朝鮮から派遣され視察団の一員として日本に来た魚允中は、副島種臣に招かれて興亜会の宴に列し、アジアの興隆を志す副島に刺激を受けていた。金玉均は、魚允中から副島の興亜思想を伝え聞いたに違いない。金は、訪日直後に興亜会主催の会合に参加し、日本、清、朝鮮三国間の平和、協力を目指した三和主義に基づく「興亜之意見」を発表していた。 続きを読む 興亜思想で結ばれた志士のネットワーク