「外国人」カテゴリーアーカイブ

長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評

以下、『月刊日本』2012年9月号に書いた、長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評です。


昭和七年の五・一五事件で三上卓らとともに決起した古賀清志は、翌八年三月十日、横須賀海軍刑務所における訊問調書で決起に至る自らの思想形成過程を次のように語った。
海軍兵学校第三学年の時、同じ佐賀中学を卒業した藤井斉から白色人種の横暴を説明され、将来日本が盟主となって亜細亜民族の大同団結を図り、白色人種と有色人種を対等にしなければならないという「大亜細亜主義」の説明を聞き、その実現のためには日本国家の改造を要すると力説された。そして、大正四年冬の休暇中に、藤井の勧めで東京市内宮城旧本丸内にあった「大学寮」に起居し、満川亀太郎、大川周明、安岡正篤らに会い、現代日本の行き詰まった情勢を聴いた。
大正八年に維新と興亜を目指す「猶存社」が設立され、大川と満川は北一輝とともに「猶存社」三尊と呼ばれるようになった。彼らは大正十三年以降、「行地社」を拠点に活発な維新運動を展開していくが、本書には北、大川の書簡も多数収められており、北、大川、満川三者の関係の変遷も読み取ることができる。
「大亜細亜主義実現のための国家改造」という満川ら興亜思想家の考え方が古賀清志らに与えていた影響の大きさを、本書に収められた書簡は如実に物語る。例えば、昭和二年一月十二日に古賀が満川に宛てて書いた書簡には、次のように書かれていた。
「多難であった大正の御代も去り新しく昭和の御代となりました。私等道に志す者の為すべき御代ではないでせうか。建実なる日本と亜細亜の確立、道義の世界。私はいつもあせりがちでいけません。事を為す迄には其だけの否より以上の基礎が必要ですが、其迄の修養や努力は一般の人とは大差がなければならないと思ひます。私も出来るだけ識見と謄力を養ふべく努力してゐます」(102、103頁)
編者のクリストファー・スピルマン博士が指摘しているように、古賀の書簡には「我等も時と場所とにより悪に対して天誄を加へることもあります」とも書かれており、国家改造のためにはテロも辞さないという覚悟が、五・一五事件の五年前から芽生えていたことを窺わせる。 続きを読む 長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評

星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ

以下、『アジア英雄伝』に収録した、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテの評伝です。


「星条旗の下には帰らぬ」
フィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、長期間日本に潜伏し、普遍的思想としての皇道を深く理解し、独自のフィリピン国家像を描いた人物であった。その壮絶な反米闘争は、急進的政治結社のカティプーナンの精神を実現しようという姿勢で貫かれていた。
リカルテは、一八六六年一〇月二〇日、ルソン島最北端のバタックで生まれた。父エステバンは、義侠心に富み、親分肌の人で、常に公益のために私財を投じ、近隣の人々から厚い信望を集めていた。母は敬虔なカトリック教徒で、朝夕厳粛な祈りを捧げることを日課としていた。両親ともに、教育には極めて熱心であった(太田兼四郎『鬼哭』フィリピン協会、一九七二年、八頁)。リカルテは、一八八四年サン・ファン・デ・レスラン学院に入学、その五年後には文学士の学位を取得して卒業、ただちに名門校サント・トーマス大学に入学、一八九〇年に卒業している。
当時、独立運動の先駆者ホセ・リサールに刺激された有能な青年たちはスペイン留学を望んだが、リカルテはスペインに留学することは結局植民地主義者によって洗脳されることになると信じて祖国に止まり、一生を民族主義教育に捧げる決心をした。こうして彼は、カビテ州のサンフランシスコ・デ・マラボンの小中学校の校長になった。 続きを読む 星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ

アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー

 アマンの日本での存在感が急速に大きくなってきた。2014年に「アマン東京」を開業、さらに2015年には「アマン東京」の別棟として、カフェ「ザ・カフェ byアマン」をオープン。大手町タワーの麓に広がる「大手町の森」の中のカフェだ。「大手町の森」には、アラカシ、コナラなどの高木、ヤマツツジなどの低木をはじめ、81種類、56000本の植物が植えられている。さらに、2016年3月には、サミット開催地の伊勢志摩に「アマネム」がオープン。
 アマンリゾーツの創設者エイドリアン・ゼッカーは、1932年にインドネシア人の母とオランダ人の父の間に生まれた。スカルノ時代の1965年、土地国有化政策に直面したゼッカーはシンガポールへ逃れ、ジャーナリストとしてマレーシアやシンガポールで仕事をするようになる。
 5年後の1970年、彼はホテル業界に入った。就いたポストはリージェント香港の財務担当兼副社長であった。1986年以降、リージェントの経営パートナーのラファエル氏と共に共同創設者として、ラファエルホテルズの経営にも乗り出している。

http://www.amanresorts.com/より
 やがて、彼はプーケットに立派な別荘を設けた。ところが、自分が別荘に居ない間の管理の問題に直面した。そこで、彼は1987年、アマンリゾーツを設立、プーケットの別荘を「アマンプリ」というプライベートヴィラに改造することを決意、翌1988年、リゾートホテル第一号として「アマンプリ」がオープンした。以来、タヒチ・ボラボラ島、インドネシア・バリ島、同・モヨ島、フィリピン・バリマカン島等に順調に高級リゾートホテルを設けた。きめ細かいサービスを重視するとともに、贅沢なスペースを確保した。高い宿泊料金は業界の常識を覆すほどであった。その中でも、バリ島のアマンキラはインド洋を眺める水の宮殿をイメージして建てられた。3段階棚田形式のプール(3-tiered pool)は伝説的存在である。 続きを読む アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー

伊藤貫著『自滅するアメリカ帝国』の書評



恐らくそうなのだろうと考えていたことを、ズバリと言ってくれた。そんな爽快感を与えてくれる一冊である。著者の伊藤貫氏はアメリカ在住の戦略家で、アメリカ国務省や国防総省の官僚から入手した情報に基づいて重大な事実を暴露していく。
一九八九年の冷戦終結に合わせて、ジェームズ・ファローズは「日本封じ込め」と題した論文を発表していた。当時、日本異質論者などと呼ばれた彼らの主張は日本でも注目されたが、アメリカ政府の考え方とは一線を画する異端者の論説として扱われていたように思う。
ところが、伊藤氏は一九九〇年にブッシュ(父)政権のホワイトハウス国家安全保障会議が「冷戦後の日本を、国際政治におけるアメリカの潜在的な敵性国と定義し、今後、日本に対して封じ込めを実施する」という政策を決定していた事実を明らかにした。この事実を伊藤氏は、国務省と国防総省のアジア政策担当官、連邦議会の外交政策スタッフから聞いていたという。また、ペンタゴン付属の教育機関であるナショナル・ウォー・カレッジ(国立戦争大学)のポール・ゴドウィン副学長も、伊藤氏に「アメリカ政府は、日本を封じ込める政策を採用している」と明かしたという(57、58頁)。 続きを読む 伊藤貫著『自滅するアメリカ帝国』の書評

アジア通貨危機報道・15年目の真実─読売新聞・林田裕章記者の報道を振り返る

いまから15年前の1997年、タイのバーツ下落に端を発したアジア通貨危機によって、マレーシア経済も苦境に陥った。このときマハティール首相は、通貨下落の引き金を引いたヘッジファンドなど投機家筋を厳しく批判するだけではなく、通貨取引規制を断行し、自国経済を死守した。後年、マハティール首相の採った政策は、世界のエコノミストの間でも評価された。
ところが当時、投機家筋サイドに立った欧米のメディアだけではなく、日本のマスメディアもその尻馬に乗って、マハティール首相を執拗に攻撃していた。特に顕著だった読売新聞シンガポール特派員の林田裕章記者の報道を振り返り、その意図について改めて考察する材料としたい。

①マレーシア孤立の危機 欧米敵視の株価策裏目 ASEM巡り東南アに亀裂
『読売新聞』1997年9月5日付朝刊、6面
【シンガポール4日=林田裕章】マレーシアが外交・経済両面で孤立の危機に陥っている。欧米の投機筋を締め出すための株式市場規制策が裏目に出て、株価下落に歯止めがかからないほか、来年四月のアジア欧州会議(ASEM)へのミャンマー参加問題をめぐっても、他の東南アジア諸国連合(ASEAN)各国との亀裂が表面化した。
七月のタイ・バーツ暴落をきっかけにした東南アジアの経済不安が続く中、マハティール首相は三日、株価の急落に対抗するため、優先的に国内投資家から株式を買い入れる目的で、六百億マレーシア・ドル(約二兆四千七百億円)にも上る基金を設置する方針を明らかにしたが、この際、「外国からの資金に頼る必要はない。問題はわれわれの力で解決できる」と述べ、欧米への敵意をあらわにした。
しかし、この基金設置政策については、欧米の機関投資家の間から、「マレーシアの国際市場での信用を落とすだけだろう」との反応が続出しているほか、フィリピンのデオカンポ蔵相も三日、「マレーシアの政策は害はあっても益はない。外国からの投資の冷え込みが長期間にわたることさえあろう」と語った。
実際、四日のクアラルンプール株式市場は一時一〇%近くの暴落となり、三日に外国投資への規制緩和など、マレーシアと反対の経済政策を発表したインドネシア・ジャカルタ市場と、明暗を分けた。
一方、ロンドンで開かれるASEM第二回首脳会議へのミャンマー参加をめぐって、クック英外相が一日、訪問先のシンガポールで「人権侵害の続くミャンマーの参加は認められない」と述べたことに対し、マハティール首相は、「ミャンマーへの差別はASEANへの差別だ。ミャンマーの参加が認められなければ、ASEANは首脳会議をボイコットすることになりかねない」と語った。
しかし、英国がミャンマーを拒否するだろうことは、ASEANにとっては織り込み済みで、インドネシアのアラタス外相は三日、「ASEMへの参加は国家単位のものであって、欧州連合(EU)との会合ではない」と指摘、先走るマレーシアにクギを差した。 続きを読む アジア通貨危機報道・15年目の真実─読売新聞・林田裕章記者の報道を振り返る

格差社会アメリカの現状:Coming Apart: The State of White America, 1960-2010

 チャールズ・マレー(Charles Murray)氏が1月に刊行した『Coming Apart: The State of White America, 1960-2010(分断:アメリカ白人社会の状況─1960~2010年)』が注目を集めている。
マレー氏が同書で示す統計は、格差社会アメリカの驚くべき姿をはっきり示している。彼は「1960年に、30~49歳のブルーカラー層の84%が結婚していたが、2010年に48%に低下している」「1970年に、高卒の白人女性でシングルマザーである比率は6%に止まっていたが、2008年には44%に急上昇した」といった事実をつきつける。
名門大学の学位を取得した、弁護士、医師、エンジニア、教授、メディアのプロデューサーといった高度スキルのホワイトカラー層が、富を独占している。エリート層は、彼らだけでコミュニティを築いている。エリート層は特定の地域に集中して住むようになっている。エリートだけが特定の郵便番号に住めることになる。マレー氏は、それを「スーパージップ(SuperZIPs)」と呼ぶ。

同書のエッセンスは、彼が1月21日付のWSJに書いた「The New American Divide(アメリカ社会の新たな断層)」に示されている。
わが国でも、新自由主義の導入によって格差が拡大しつつある。いまこそ、アメリカ社会の現状を直視し、彼らがこのような状況に陥った原因を改めて考える必要がありそうだ。

自然と儀式と音楽の関係

フィリピンの作曲家で、民族音楽学者のホセ・マセダ氏は、東南アジア音楽の特徴である「音の連続性の概念」と密接に関わる東南アジアの時間論について、次のように述べている。
「東南アジアの大部分では、一日の時間は時計の時間では測られない。太陽年は知られてはいるが、それは一年ずつ加算することはしない。惑星や恒星の動きとは別に、時間は鳥の渡りや、植物の開花、乾季の虫の声といった自然事象で測られる」(『ドローンとメロディー』新宿書房、1989年、14頁)
この自然事象で測られる時間概念こそ、リズムや反復の用法、音楽形式の長さやその終わり方、終止形に反映しているというのだ。つまり彼は、アジアにおける人間と自然の関係に注目しているのである。 続きを読む 自然と儀式と音楽の関係

「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

一口にアジアの舞踊といっても、極めて多様である。ジャワやバリのみならず、それぞれの地域で伝統的舞踊は様々な形で発展を遂げてきた。それでも、東南アジア、アジアの舞踊には、一つの重要な特徴が見られる。それは、神と人との交感の手段という側面にほかならない。
東南アジア史の権威アンソニー・リード氏は、「インドの影響がなかった地域でも舞踏は精霊や神々と交信し祭への参加を誘う手段であった。…ジャワの人間が王の前に出る場合またはそこを退出する場合、ブギス人が誓いを立てる場合、戦争が布告される場合、アモク(amok)をかける場合などには踊りが伴った。これらから見れば、舞踏はおそらく感情を高め、エネルギーを集中し、日ごろ劇場で表現されているような神々や精霊の力を身につける手段と見なされていたと考えられる」と指摘している(Anthony Reid著、平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で』法政大学出版局、平成14年、273頁)。 続きを読む 「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊