以下、『アジア英雄伝』に収録した、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテの評伝です。
「星条旗の下には帰らぬ」
フィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、長期間日本に潜伏し、普遍的思想としての皇道を深く理解し、独自のフィリピン国家像を描いた人物であった。その壮絶な反米闘争は、急進的政治結社のカティプーナンの精神を実現しようという姿勢で貫かれていた。
リカルテは、一八六六年一〇月二〇日、ルソン島最北端のバタックで生まれた。父エステバンは、義侠心に富み、親分肌の人で、常に公益のために私財を投じ、近隣の人々から厚い信望を集めていた。母は敬虔なカトリック教徒で、朝夕厳粛な祈りを捧げることを日課としていた。両親ともに、教育には極めて熱心であった(太田兼四郎『鬼哭』フィリピン協会、一九七二年、八頁)。リカルテは、一八八四年サン・ファン・デ・レスラン学院に入学、その五年後には文学士の学位を取得して卒業、ただちに名門校サント・トーマス大学に入学、一八九〇年に卒業している。
当時、独立運動の先駆者ホセ・リサールに刺激された有能な青年たちはスペイン留学を望んだが、リカルテはスペインに留学することは結局植民地主義者によって洗脳されることになると信じて祖国に止まり、一生を民族主義教育に捧げる決心をした。こうして彼は、カビテ州のサンフランシスコ・デ・マラボンの小中学校の校長になった。
一方、リサールによる穏健な政治運動に代わる急進的運動を目指し、一八九二年七月七日に、ボニファシオによってカティプーナンが設立されていた。リカルテは、ボニファシオに見込まれて、一八九六年にカティプーナンに参加、革命軍総司令官としてスペインとの戦いを指揮する。一八九八年四月、アメリカはスペインに宣戦布告、スペイン艦隊を撃破した。スペインはフィリピンを手放したが、それはアメリカによる支配の始まりを意味したに過ぎなかった。
アメリカは、一八九八年一二月にフィリピン領有を宣言したが、リカルテは戦闘をやめなかった。一九〇〇年六月、リカルテは特殊工作部隊を自ら指揮して、米軍本陣に斬り込んだ。だが、翌七月、マニラ市バコ橋上で、米軍に逮捕され、スパイ行為として即刻死刑の判決を受けた。やがて、死刑は免れたものの、九〇人の同志とともに、グアム島に流刑される。ここは、スペイン統治時代にラドロネス群島(盗賊島)と呼ばれていた島の一つである。コレラやマラリアなどの風土病によって、九〇人の同志は、流刑三年目には二八名に減ってしまった。
一九〇三年一月、アメリカはリカルテら二十数名に対して、アメリカに忠誠を誓えば祖国へ送還するとの条件を出してきた。リカルテを含む二八名の囚人が、船でマニラ湾まで連れて来られた。アメリカの懐柔に屈し、同志の者たちは、一人一人忠誠を誓う誓約書にサインをし、上陸していった。しかし、リカルテとアポリアノ・マビーニだけは、サインを迫る米軍法務官に「星条旗の下には帰りたくない」として、拒否したのだった。
アメリカに屈することなく、彼は次のチャンスを待った。一九〇四年には日露戦争が勃発、日本の勝利に勇気づけられたリカルテは、再び行動を起こす。同年一二月、脱走したリカルテはカトリック僧に扮してマニラに潜入したのである。
東亜の志士の拠点となった榕樹島
かつての同志アギナルドとの共闘は実現できなかったが、リカルテは屈しなかった。バターン半島に聳えるマリベレス山を独立革命の砦とし、蜂起の準備を進めたのである。しかし、賞金目当ての裏切り者の密告によって、一九〇五年五月二四日に逮捕された(田中正明『アジア独立への道』展転社、一九九一年、一五八~一五九頁)。裁判の結果、彼は六年の求刑を受け、重罪犯を入れるビリピット監獄に投獄された。
この監獄で、一冊の本も、一片の紙も与えられず、外部の世界と完全に遮断されたが、彼は長い地獄の日々を耐え抜いた。この時代の孤独な日々が、彼にさらなる不屈の精神力を与えたに違いない。六年の歳月が経ち、独立の志士たちの面影も次第に国民の脳裏から薄らぎ、リカルテの名も忘れ去られたかに見えた。刑期を終えて、法廷に立ったリカルテに対して、裁判長は「刑期を終えて自由の身となるが、貴下はアメリカの領地民として忠誠誓書に署名する義務がある」と宣言した。これに対して、リカルテは「即座には署名できない、最低四〇時間の猶予が必要だ」と述べ、署名を拒否した。これにより、即日国外追放と決定、香港の東北にある榕樹島(ラマ島)に放逐されたのだった。
そこは、ほぼ無人島で、中国人海賊の根拠地だった。アメリカは、インド兵二、三十人をつけてリカルテを監視させた。ところが、そのインド兵たちはリカルテの人格と識見に敬服してしまい、やがて監視するどころか、彼の同志となってしまった(中山忠直『ボースとリカルテ』一九四二年、一二一頁)。中国人海賊たちも、リカルテの噂を聞きつけて、彼との交流を求めてきた。こうして、リカルテは、榕樹島の王様格となり、フィリピン独立の志士はもちろん、中国やインド等、目的を共有するアジアの志士たちが各国からリカルテのもとに馳せ参じた。
だが、インド独立の志士との連帯を懸念したイギリス官憲は、一九一四年にリカルテを上海へ追放する。さらに、アメリカの官憲らによって上海から香港へ強制送還された。それから、再び上海へ追放されている。だが、一九一五年、ついに上海の未決監を脱獄し、日本に逃れたのである。ときに、リカルテ四九歳。
ビハリ・ボースや、一九世紀末以来、関係を築いてきた玄洋社を中心とする日本の興亜陣営がリカルテ亡命を支援したと推測される。また、上海からの脱出を手引きしたのは、恋人のアゲタであった。リカルテは一八九二年に別の女性と一度結婚していたが、挙兵を控えた一八九七年、家庭を捨て、独立運動に人生をかけることを決めた。そのリカルテを慕い、看護師として志願して付き従ってきたのが、アゲタであった。やがて彼女は、弾薬運搬や諜報等、身の危険を顧みず、果敢に行動するようになっていた。榕樹島時代には、同志の協力でささやかな結婚式を挙げている(『鬼哭』七九頁)。
だが、興亜陣営の支援で日本に逃れたものの、安心して生活できる状態ではなかった。韓国併合の交換条件としてアメリカのフィリピン領有を黙認していた日本政府としては、フィリピン独立運動のリーダーを匿うわけにはいかなかったからである。そこで、しばらくリカルテは南彦介の変名を使い、名古屋市瀬戸町で土工となって世をしのんでいた。
皇道との出会いと伝統への回帰
大正一〇(一九二一)年になると、ビハリ・ボースは頭山満らと相談して、リカルテの上京を促した。そして、彼は厳しい官憲の眼を避けて、駒場の民家に移ったのである。駒場には、土佐の崎山比佐衛の海外殖民学校があり、後藤新平の紹介でスペイン語の教師に就いている(前掲書八七頁)。ちなみに、南彦介と命名したのも後藤である。
大正一二(一九二三)年には横浜に移り、山下町南京街の一角にカリハンという小さなフィリピン・レストランを設けた。中山忠直は、カリハンに集うリカルテの同胞たちを次のように描写している。
「人々は争つて将軍の亡命の心をなぐさめるためにやつて来て、将軍の健かな顔をとりまひて、過去の追憶や、現在の祖国の悲運や、悲観すべき未来のことなどを語りあふのだ。涙多き青年は、そこでフィリピンの独立の歌を唄ひ、慷慨悲憤の士は、拳で机を叩きながら叫ぶのだ」(『ボースとリカルテ』九〇頁)
リカルテは、清貧に甘んじ、富貴に淫せず、権勢におもねず、フィリピン独立の日に備えた。一部のアメリカの歴史学者には、リカルテが部下の猟官運動に多額の収賄行為をしたなどと誹謗する者もいるが、ここでは、海外殖民学校の教え子で、リカルテと最後まで行動をともにしていた太田兼四郎の説に従っておきたい。
太田によれば、リカルテは「名もいらず、金もいらず、命もいらない東洋志士の面影があって、清濁併せ呑む太っ腹で、部下思いで、正義のためには身命を賭すことも恐れなかった」人物であり、どことなく西郷南洲を彷彿とさせるものすらあった(『鬼哭』二三六頁)。
事実、日本亡命中、彼は自分の洋服を一度も新調したことはない。靴一足を買うこともなく、横浜に立ち寄る船員たちが寄贈した古着、古靴で通していたという。酒もタバコもやらず、一切の賭け事にも興味を示さなかった。
愛犬を連れて山下公園を散歩するのが彼の日課であり、屋内では読書に多くの時間を費やしていた。彼は、日露戦争に勝利した日本の力の源泉を知ろうと日本の歴史研究にいそしんでいたのである。まず、武士道に示された日本人の生き方に傾倒した。後に、『日本武士道を訊く』と題するタガログ語の単行本(一九四三年)を刊行しているほどである。
また、日本での見聞は、日本人の信仰心と祖先崇拝の伝統の重要性を再確認する機会を与えた。例えば、昭和四(一九二九)年五月に書いた書簡には、海外殖民学校の教え子たちとともに高尾山に遠足に行き、大正天皇が葬られている神社を参拝し、日本史の英雄が生き続けていることに感動を覚えたと書かれている。そして、フィリピン人もボニファシオら民族の英雄を丁重に葬るべきだと訴えている(荒哲「リカルテ将軍のフィリピン独立構想」『Bulletin of Sakura no Seibo Junior College』二〇〇〇年、九九、一〇〇頁)。彼は、フィリピンがアメリカから独立するために養うべき力が何かを日々考え、同時に独立フィリピンが目指すべき国の形を思い描いていたのである。彼の原点はあくまで、スペインの支配下に入る以前に存在した「完全に満ち足りた、至福の状態」への復帰というカティプーナンのビジョンであった(池端雪浦『フィリピン革命とカトリシズム』勁草書房、一九八七年、一一三頁)。
彼は、アメリカ流の個人主義を批判し、民族の伝統への回帰を主張した。『青少年訓』では、「米国統治時代、米国人が私たちに教えたことは、すべての民衆のための善行に注目することよりも、各自それぞれが自己中心的に快適さのみに注意を喚起するというような価値観を与える考え方であった」と批判し、「全てのための善行」こそが、古くから存在するフィリピン人の良き習慣のひとつであり、西洋流の民主主義には見られない文化であることを強調した。
彼にとって、皇道の普遍性は自らの伝統社会の理想にほかならなかった。彼は、「八紘一宇」=「Kapairang Pandaigdig」(世界兄弟会)が、日本古来の信仰に基づいた思想であり、「物欲や世界征服欲が強く、世界を我が物にせんとするアングロサクソン族の考えとは、なんと比べ物にならない崇高なものがあるではないか」と述べている。
このように、「リカルテのナショナリズムは、フィリピンの伝統文化の復活を主張するカティプーナンの基本精神と日本の伝統文化をオーバーラップさせながら形成されてきた」のである(「リカルテ将軍のフィリピン独立構想」一〇六頁)。
さて、リカルテが日本に亡命しておよそ二〇年後の一九三四年、アメリカ議会はタイディングス・マクダフィー法により、一〇年後のフィリピン独立を承認、翌一九三五年にフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)が発足した。コモンウェルス初代大統領に就いたのは、リカルテのかつての部下ケソンであった。
一九四〇年になると、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち寄り、リカルテに対し栄誉ある勲章と、終身年金を申し入れて、帰国を促した。しかし、ケソンの説得に対して、リカルテは次のように答えた。
「わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る日は、祖国が完全に独立し、昔我々が立てたあの革命旗が、堂々と誰はばかることなく立てられる日だ」
リカルテが表舞台に再び上がるのは、その一年後の一九四一年一二月のことである。日米開戦の一〇日後の一二月一八日、リカルテは太田兼四郎を副官に従えて、祖国フィリピンに戻った。年が明けて一月二日夕刻、日本軍(第一四軍)はマニラに入城、一月三日アメリカによる占領の終焉と戒厳令の実施を布告した。参謀本部の一部には、リカルテを首班にしようという考えもあった(池端雪浦「フィリピンにおける日本軍政の一考察」『アジア研究』一九七五年七月、四八頁)が、すでに彼は七五歳の高齢となっていた。結局、親日派が起用されることはなく、首班には、ケソンの秘書、官房長官を務めたホルヘ・バルガスが就いた。
それほど、フィリピンのエリート層は親米派・反日派で占められていたのである。中島慎三郎氏は、「賢くて強い日本が、アジアの植民地諸国に、智恵を貸したり、武力を貸したら、植民地諸国が一斉に独立運動を始めるだろうから、諸国民が日本を嫌うように洗脳するに限る、という魂胆が期せずして欧米列強に働いた」、「フィリピンについて言えば、アメリカ的教養を持つマスコミ人はこぞって反日的と言ってもよいくらいです」と書いている(『アジアに生きる大東亜戦争』展転社、一九八八年、五九頁)。
しかも、日本軍はフィリピンで幾多の過ちを起こし、さらに離反を招いてしまった。一部日本軍の蛮行をリカルテは傍観していたわけではない。彼は、教会、学校、病院等を絶対に軍服で荒らさないこと、ビンタ、婦女子暴行等について、口を酸っぱくして軍に申し入れていた。何より、昭和一七(一九四二)年四月に日本軍が国旗掲揚禁止令を出したことは、リカルテを落胆させた。彼は即座に自ら出頭し、本間雅晴司令官に禁止令の解除を懇請している。
望月重信中尉への協力
リカルテにとっての救いは、高い人格を備えたある日本人が、文字通りのアジア共栄の理想を体現しようとしていたことである。第一四軍宣伝班に加わっていた望月重信中尉である(望月中尉については、望月信雄編『比島の國柱』一九八〇年。日本兵の肯定的側面全般については、アルフォンソ・P・サントス著、瓜谷みよ子訳『フィリピン戦線の日本兵』パンリサーチインスティテュート、一九八八年を参照)。
望月は昭和一七(一九四二)年末には、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。早朝からラジオ体操、駆け足、禊の行を行い、日本語、日本史、日本文化、軍事教練、体育、農作業等の授業科目を用意した。彼は、フィリピン青年の愛国心を喚起させた。すると、本音の部分では真の独立につながるような思想教育を望まない軍上層部は、フィリピン人を「甘やかしている」と批判してきた。これに対して、望月は「大御心を実践しているのであります」と応え、上官を辟易させたという。
望月は理想を語るだけではなかった。報道部発行の陣中新聞『南十字星』に寄せた「聖戦一年を顧みて」(一九四二年一二月)で、些細なことでビンタを食らわした日本兵や、日本軍政の威を借りて暴利を貪る日本人を痛烈に批判、さらに「大マニラ市の紅灯のもと、夜毎に美酒に酔い痴れ、売色女の媚に現を抜かしているのは、一体何処の国民であろうか?」と痛烈に軍上層部を批判している。
もともと、リカルテは望月が属する報道部に対して、宣伝活動における重要なアドバイスを度々与えていたという(荒哲「フィリピンのリカルテ将軍に関する一考察」『国際政治』一九九九年二月、二二八頁)。そして、タガイタイ教育隊ができると、そこをしばしば訪れては、青年たちを激励していた。
一九四三年一〇月一四日、日本軍の軍政が撤廃され、正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えた。式典には、黒龍会の葛生能久が参列している。
翌一九四四年二月、一旦日本に戻ったリカルテは、建国記念日に合わせて頭山満の自宅を訪れ、懐旧談に花を咲かせている。頭山が「アジアから白鬼を追い払わにあならん」と言うと、リカルテは「先生の大理想アジアは一家族主義、わしも同感です」と応じていた(『慟哭』一四六頁)。確かに両者は、興亜の理想を共有していたように見える。その後、リカルテはフィリピンに再び戻った。しかし、アメリカの反撃は強まる一方であった。
「墓は祖国と日本に」
昭和二〇(一九四五)年三月、山下奉文大将はリカルテをラウレル大統領とともに日本に亡命させようとした。すでに八〇歳、決して無理のきく身体ではなかったはずだ。しかし、「わしはフィリピン人であり、米比戦争で未だ降伏していない唯一の将軍だ。同胞が塗炭の苦しみをしているときに、どうしてわしがおめおめと日本に亡命できるであろうか」、「わしはあくまで祖国に止まって、最後の一人の同胞とでもいいから死生を共にし、完全独立を見とどけるまでは祖国を一歩も出ぬ」と言い放った(前掲書一七三~一七四頁)。
四月下旬、バギオはアメリカ軍の手に落ち、リカルテは日本軍とともに敗走した。六月には、ルソン島北部にあるヌエバビスカヤ州の州都バヨンボンを経て、ジャングルに移動した。すでに、食糧は欠乏し、野草や昆虫を食べてしのぐ状況であった。ついに、老齢のリカルテはイフガオ州・フンドゥアンでマラリアに侵され動けなくなった。太田は、次のように振り返っている。
「生きて恥を晒すよりも武士として最後を飾らせることこそ私の使命であろうし将軍自身暗黙の中にそれを期待して例の拳銃を私に托したに違いない。自刃することは将軍の信仰上罪悪であった。然しこのまま米軍の捕虜となることはそれにもまして将軍の嫌悪するところである。生死の関頭に立って私の思考は混濁した」(前掲書二〇三~二〇四頁)
七月三〇日、リカルテは最後の力を振絞って太田に話しかけた。すでに、呂律は廻らず、言葉にはならなかったが、太田が凝視すると、彼は次のように語りかけていたのがわかった。
「もう舌が痺れて来た、明朝までは生きまい、貴下は若いのだから生きのびてくれ、出来たら孫のビスを日本に留学させること、わしの墓を祖国と第二の故郷である日本に建てて欲しい。これがわしの遺言として貴下の胸中に刻んでもらいたい」
これが最後の言葉であった。翌三一日、安らかな温顔で眠るように亡くなっていた。太田は遺言通り、遺骨の一部として薬指を日本に持ち帰り、多摩の霊園に納めた。
一九四五年一〇月、山下大将を裁くマニラ裁判が開廷した。同年一二月、山下は死刑を宣告され、翌年二月に絞首刑に処されている。このマニラ裁判において、山下弁護のために敢えて証言台に立ったのは、南彦一郎の名で横浜の国民学校に通っていた、リカルテの孫ビスであった。
「君の祖父は山下大将がフィリピン人虐殺の命令を出したというようなことを君にもらしたことがあるか」という質問に、ビスはきれいな日本語で次のように答えた。
「そういうことは聞いたことがありません。そして、誰かがそういうことを言ったとするならば、スペイン支配以来、フィリピンの自由のために働いて来た祖父として、このフィリピンの土地で、同じ皮膚の色のフィリピン人が皆殺しにされると聞かされたとして、祖父がそれに賛成するはずがありません。それに、祖父がフィリピン人が殺されるということを知っていながら、私をマニラに残して行ったということは、筋が通りません」(A・フランク・リール著、下島連訳『山下裁判 上』日本教文社、一九五二年、一九〇頁)
日本人の興亜の志に対するリカルテの支持と感謝の気持ちは、孫ビスにも引継がれていたのかもしれない。