2020年までに「東アジア経済共同体」は設立されるのだろうか。
2012年11月にカンボジアで開催されたASEAN+3(APT)首脳会議に提出された「東アジア・ビジョン・グループⅡ」(EAVGⅡ)の最終報告書は、「2020年までに東アジア経済共同体を実現する(Realising an East Asia Economic Community by 2020)」と謳ったのだ。
日中、日韓が政治的な対立を抱えつつも、こうした構想が着々と進行しているのは、APTが長年にわたって積み上げてきた実績があるからである。
EAVGⅡは、韓国の李明博大統領の提案により2010年のAPT首脳会議において設立された。1999年に金大中大統領の提案で設立されたEAVGⅠが10年経過し、再組織されたもの。EAVGⅡは、APT首脳会議の要請を受けて、東アジア地域統合のあるべき姿について検討を進めてきた
EAVGⅡ日本代表である田中明彦氏の報告によると、東アジア経済共同体実現のため、『EAVGⅡ最終報告書』では、(a)単一市場と経済基盤、(b)金融の安定、食料・エネルギー安全保障、(c)公平で持続可能な発展、(d)グローバル経済への積極的な関与、という4つの柱を提示し、またそれらを具体的に推し進める方策として、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)締結への支援、「東アジア通貨基金」設立への研究、などを提案することとした。
「ASEAN+3」カテゴリーアーカイブ
マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負
マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負
『日馬プレス』269号、2004年3月1日
欧米のブロック化を牽制
1990年12月10日、マハティール首相はマレーシアを訪問した中国の李鵬首相の歓迎晩餐会で演説し、次のように述べた。
「欧米経済のブロック化という不健全な傾向が強まっている。それが公正で自由な貿易を妨げようとしている。私は、出来ることならそうしたくはないのだが、欧米の経済ブロックに対抗するために、アジアも自分たちの経済ブロックを組織して、経済的結びつきを強めなければならないと考えるようになった。そこで中国は重要な役割を演じるべきだと信じている」
当時、欧州共同体(EC、1993年に欧州連合=EUに改称)は経済統合を推進し、一方アメリカはECのブロック化を牽制しつつ、着々と北米自由貿易協定(NAFTA)へ向けて動いていた。アメリカは、1988年1月にカナダと米加自由貿易協定に調印、1990年8月にはメキシコと自由貿易協定締結交渉の開始で合意した。その後、1992年8月にアメリカ、カナダ、メキシコはNAFTAの協定案に合意している。 続きを読む マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負
マハティール元首相 A Doctor in the House コンテンツ
ASEAN+3への道①─EAEC不参加密約
1990年12月10日、マハティール首相は東アジア経済グループ(EAEG)構想を提唱した[後に東アジア経済協議体(EAEC)に改称、両者の概念は若干異なるが、以下ここでは、引用部分を除いてすべてEAECと表記する]。経済問題について、より密接に討議する場を作ろうというのが提案の趣旨だった。当面のメンバー国は、ASEANと日本、韓国、中国である。
欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)が矛盾しないように、EAECと日米安保は矛盾するものではない。いわんや、EUが反米を目的とした機構ではないように、EAECは反米を目的とした機構ではない。同時に、EAECは特定の大国が主導するものではなく、対等、相互尊重の原則に基づいて東アジア各国が主体的に参加する場である。
EAECには、真に対等、相互尊重、相互利益の原則による共栄圏を東アジアにつくり、国際社会にその原則を示して、世界を支配する価値観の修正を促す、という企てさえを読みとることができる。
1994年5月23日からクアラルンプールで開かれた太平洋経済委員会(Pacific Basin Economic Council=PBEC)第27回総会の基調演説で、マハティール首相は自らの太平洋協力構想を明確に示した。彼は、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違いについてふれた後、次のように続けた。
「私たちが建設しなければならないのは、太平洋ゲマインシャフトです。太平洋は、人工的な国家関係ではなく、村・家族・友人のような関係として結び付くグループを建設しなければならないのです」と。彼は、パックス・シニカ(中国による平和)もパックス・ニッポニカもパックス・アメリカーナも拒否し、平等、相互尊重、相互利益の原則に基づいた太平洋コミュニティーをつくりたいと訴えたのである(Dr. Mahathir’s Speech,”Building an Egalitarian Pacific community”,ISIS FOCUS ,April 1994, pp.43-48.)。
ところが残念なことに、アメリカはEAECに反対した。そこには、アジアの秩序を自らの手で構築したいというアメリカの驕りがあったのではなかろうか。
EAEC実現阻止のために、アメリカはASEANの分断を狙ったかに見える。しかし、結局ASEANは自らの意思でEAEC支持の立場を固めた。ところが、日本政府は「EAECに乗るな」というアメリカの圧力に屈して、EAECを支持することができなかったのである。 続きを読む ASEAN+3への道①─EAEC不参加密約
東アジア経済グループ(EAEG)構想関連文献
雑誌論文・記事
著者 | タイトル | 雑誌名 | 発行日 |
---|---|---|---|
鈴木 隆 | 「日本外交における東アジア共同体論の位置─EAEC構想を手がかりに」 | 『国際関係学研究』』 | 2007 |
金子 芳樹 | 「マハティールの政治哲学とEAEC構想」 | 『国際比較政治研究』 | 2006.3. |
山下 英次 | 「小泉首相の「東アジア外交政策演説」(2002年シンガポール演説)とその評価 : アジア統合論者の視点から」 | 『經濟學雜誌』 | 2004.9 |
鈴木 隆 | 「グローバリゼーションと東アジア地域システム─EAECの展開過程に見る日本外交の役割」 | 『作新学院大学人間文化学部紀要』 | 2004.03. |
塩谷 さやか | 「東アジア経済グループ(EAEG)構想に見る「マハティール主義」─1980年代のマハティールの諸政策とEAEG構想の関連性に関する一考察」 | 『アジア太平洋研究科論集』 | 2003.9. |
櫻谷 勝美 | 「「東アジア経済圏」を阻むアメリカと東アジア諸国の反応─頓挫したEAEC構想をてがかりとして」 | 『季刊経済研究』 | 2003.3. 続きを読む 東アジア経済グループ(EAEG)構想関連文献 |
古川栄一、「いよいよEAEC発足へ」と
マハティール元首相が提唱したEAEC(東アジア経済会議)構想の実現に尽力した古川栄一は、日本国際戦略センターを主宰し、シンポジウムや交流会など、あらゆる機会を捉えてEAEC実現のための啓蒙活動を展開した。
1997年12月に第一回の「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催されることになった。この会議を控えた11月、古川はニュースレターで「いよいよEAEC発足へ」と書いた。
実際、産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じた。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」
ASEAN+3への道②─APECとEAEC
アメリカとの戦い
マハティール首相の構想は歪曲して伝えられてきた。特に、アジア太平洋という枠組みで、自らの主導圏確保を目指すアメリカは、EAECは危険な構想だとしてそれを葬り去ることに全力を傾けた。アメリカのアジア問題の権威、ロバート・スカラピーノ・カリフォルニア大学名誉教授は、EAECについて「白人立ち入り禁止の看板を掲げたようなもの」と断じた。
そして、ベーカー国務長官は、「太平洋に線を引こうとする危険な構想だ」「日米分断につながる構想だ」とくり返し批判した。
アメリカの反発に対してマハティール首相は強く反論しなければならなかった。
マハティール首相は1991年4月27日、海部首相を迎えた歓迎晩餐会のあいさつでEAECに触れ「太平洋の東側沿岸諸国が排他的グループを形成する一方で、西側沿岸諸国が協議の場すら設けてはいけないというのは非論理的だ」とアメリカを批判した。
マハティール首相は、各国の支持を得ようと必死の説得を試みたのだった。1991年4月、彼はラフィダ・アジズ貿易産業相を日本に送り込んだ。4月4日、ラフィダは外務省で中山外相と会談、EAECについて「排他的なブロック経済圏を目指すものではない」と説明した。ラフィダは会談で、「この構想は、ウルグアイ・ラウンドの成功を目指して、東アジアの諸国で協議の場を作ろうという趣旨だ」としたうえで、APECと共存できることを強調している。
ラフィダ大臣は、1991年5月には、シンガポールで開いた太平洋経済協力会議(PECC)総会で、EAECの狙いを説明した。アメリカやオーストラリア、カナダなどの代表団からは次々に批判や疑問の声が上がったが、ラフィダはこのすべてに反論、「排除などと言ったことはない。同じ地域の国が話し合いの場をもとうというだけ」と頑張った。
1991年7月のASEAN外相会議では、マハティール首相自らEAEC説得につとめた。
「貿易ブロックではなく東アジア諸国のゆるやかなフォーラムだ。自由で開かれた多国間貿易を守るためにこそ考えた」。
1991年9月の国連総会演説では次のように語っている。
「アメリカがカナダ、メキシコとNAFTA作りを進めていながら、一方でEAEGに反対するのは、背景に人種差別的な偏見がある」。マハティール首相は刺激的な言葉を使ってアメリカを批判した。
マハティール首相は必死に、EAECが保護主義に対抗するものであることを強調した。彼はEAECが自由貿易を維持する目的に適うことを繰り返し強調し、警戒感を解こうとしたのだ。
彼は、EAEC反対論を緩和させるため、1991年10月のASEAN経済閣僚会議で、わざわざ経済グループ(ECONOMIC GROUP)を意味するEAEGを経済問題を随時に話し合う経済協議体(ECONOMIC CAUCUS)を意味するEAECに改称までし、アメリカの警戒感を解こうとした。
APECとEAEC
EAEC提案の背景には、APECだけではASEANの利益を確保できないという認識がある。
もともとAPECは1989年末にキャンベラでスタートした。ECのブロック化に反対し、開かれた地域機構として動き出し、域内の多角的自由貿易体制の強化・拡充を図ることを目的としてきた。1991年11月にソウルで開かれた第3回会合も、「自由貿易の原則に即し開かれた地域主義の見本となるべきであり、多角的自由貿易体制を補完し強化する」と誇らしげに謳った。
マハティール首相がECのブロック化反対を主眼とするなら、APECで良かったはずだ。だが彼は、EAECというAPECとは別のものを構想した。EAECにはAPECに参加しているアメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの4カ国が除外されている。
それは、マハティール首相が先進国主導のAPECに不信感をもっていたからである。アメリカなどの先進国の都合のいいように組織が運営されては途上国の利益を擁護することはできないとマハティール首相は考えていたのである。
こうした懸念はマハティール首相だけのものではなかった。APECスタート時のASEANの論議を振り返ってみるとそれがよく理解される。
1989年7月ASEAN拡大外相会議で、インドネシアのアラタス外相がAPECの問題点をはっきりと指摘している。アラタスはASEAN経済閣僚会議との関係、地域組織としての参加国の資格の設定のあり方などでさらに検討の余地が多いと述べたのである。アラタスの顧問のユサフ・ワナンディは、「この地域協力の主役はASEANである」と述べ、アメリカが主役ではないのだとくぎを刺した。
ASEAN各国はみな、APECが先進国や大国に支配されることを警戒し、ASEANがあくまで主役として利益を得られるものでなければ参加できないという立場にたっていた。先進国はこうしたASEANの警戒感を巧みにとき、ようやく1989年11月6日に第1回のAPECがスタートしたという経緯があるのだ。
その会議初日の6日、議長役のエバンス・オーストラリア外務貿易相がまとめた議長総括の原案が示された。 ところが、そこにはASEANに触れたくだりがまったくなかった。アラタスは激怒した。実は会議前日、ASEAN6カ国の参加閣僚は、長時間の作戦会議を開いて「ASEANペーパー」を作成していたのだった。ASEANの主体性の維持をはっきり打ち出すASEAN共通の方針をまとめたものである。エバンス原案はASEANペーパーに反するものだったのである。
翌7日、討議がスタートされるやいなやアラタスは、発言をもとめた。「APECは既存のASEANの機構を活用し、ASEAN事務局が調整役となるべきだ」。
やむなくエバンスは「今後の高級事務レベル協議にASEAN事務局代表を加える」などの内容を盛り込んで原案を全面的に書き直した。このときオーストラリアやアメリカの高官の間では「ASEANは図に乗っている」という声さえ出たのだった。
ともかくAPECが回を重ね、インドネシアなどASEAN諸国が参加をつづけてきたのは、ある程度ASEANの意向が反映され、ASEANのメリットになるプログラムが動いていたからである。だが、マハティール首相はそれをアメリカ、オーストラリアなど先進国の一時的譲歩と見ていたのかもしれない。彼は、途上国や小国の意見が無視されるだけでなく、先進国に都合のいい組織となり、協力機構としての意味がなくなってしまうという警戒感を持ちつづけていた。だからこそ、彼はEAECを提案したのである。
マレーシアのリム・ケンエク第一次産業相は、マハティール首相の心情をこう代弁した。
「アジア以外のアメリカやカナダ、オーストラリアなど主要先進国を入れれば、発展途上国の意見は排除されるだろう。これがAPECがあるにもかかわらずEAECを提案する理由である」と。
マハティール首相は、アジアの途上国の利益が確保されるアジア・太平洋の協力をもとめているだけなのである。
アメリカの反対に抗して
アメリカのASEAN分断工作を乗り越え、1993年7月24日、ついにASEANは定期外相会議において、公式にEAEC支持を決定した。
奇妙なことに当初、スハルト大統領は「APECこそASEANの利益を促進し、世界のブロック化に対決することができる」と述べ、EAECに慎重姿勢をとっていたのだ。このインドネシアの立場はちょっと奇異に感じられる。APEC結成の際にあれほどアジアの主体性を訴えたはずのインドネシアが、「EAECよりもAPECで」というのはとにかく不自然に見えた。いったいどうしたことか。
インドネシアの消極的姿勢には、マハティール首相が十分な相談なくEAECをぶち上げ、ASEANの盟主としてのプライドを傷つけられたことへの反発があるとも指摘されている。だが、何よりもアメリカのEAEC反対論が影響したのではなかろうか。
しかし、1993年7月17日にスハルト大統領はマレーシアのランカウィ島でマハティール首相と会談、ようやくEAEC支持を表明したのだ。
インドネシアとともに、当初消極姿勢をとっていたのは韓国である。1991年11月12日、盧泰愚大統領は「アジア・太平洋地域の協力は決して東アジアと米大陸の競争関係を招くものであってはならない」と強調、EAECを牽制した。しかし、その立場も金泳三政権になって次第に変化していった。ベルナマ通信によると、1993年4月19日、韓国の韓昇洲外相は、アバドラ・バダウィ外相と会談し、「EAECを極めて前向きに検討している。構想がASEAN内で具体化すれば、参加したい」と語っているのだ。そしてASEANでのEAEC支持合意直後の1993年7月27日、韓昇洲外相は武藤外相との会談で「ASEANの動きはEAEC実現に向け積極的一歩と考えている。日本とよく連絡して対応したい」と述べるようになった。
ASEAN合意から実質的な会合へ
マハティール首相はクリントン政権のEAECに対する態度の変化をにらみながら、まずASEANでの合意に向かって邁進したのだ。この結果、ASEANは1993年7月9、10の両日、ジャカルタで外相会議の準備会合を開き「アジア太平洋地域の既存組織の枠組みを活用し、その一機構にEAECを位置づける」ことで合意した。ただ、どの既存組織を活用するかで、合意がなかなか得られなかった。インドネシアは、EAECをAPECの付属機関とすることを提唱した。これに対して、マハティール首相はASEAN経済閣僚会議の付属機関にするよう主張した。ここで決着はつかず、7月19日からの高級事務レベル協議で再び協議されたのだ。
そして1993年7月23日、ついにEAECはASEAN外相会議で合意された。「APECの中の協議の場」として位置づけつつ、「ASEAN経済閣僚会議が支持し指導する」という玉虫色の決着だが、とにかく妥協が成立したのである。
1994年3月24日にクアラルンプールで開かれたPECC総会でも、ASEAN各国は大国主導を拒否したASEAN主体の「独自の共同体」づくりを強調し、実質的にEAEC推進を確認している。
そして1994年4月下旬に開いたASEAN経済閣僚の会合で、EAECをアメリカに提案し、設立に理解を求める方針を確認、1994年5月9、10日にワシントンで開かれたASEANとアメリカの定期協議で、ASEAN側は、アメリカにEAECの設立方針を正式に文書で提案している。
ここに至っても、日本はEAEC支持に踏み切れなかったのである。1994年7月4日、河野洋平外相はASEANのアジット・シン事務局長、東南アジア各国の駐日大使と意見交換した。ここで、シン事務局長は、EAECについて、「APECの枠内の一つの協議体と位置づけており、APECの原則と両立する」と説明して、日本の協力を求めた。ところが、河野外相は「アメリカを含む関係国の理解と協力を得ていくことが大切だ」と述べ、慎重な立場を崩さなかったのである。
これに対して、ASEAN側は、1994年7月25日にバンコクで開催されるASEAN地域フォーラムの前に「EAEC非公式外相会合」を開催するという方針を決めた。河野外相は、非公式の会合との立場で、ようやく出席を決めた。
その翌日の『日本経済新聞』は次のように報じている。
「EAECへの参加に慎重な日本を含む初会合がひとまず次の会合に結び付き、ASEANはEAEC始動に一歩近付いた。一方、EAECへの反対姿勢を強めていた米国は押し切られた格好で、今年11月のAPEC首脳会議に向け米の出方が焦点になってきた」
この時点で、EAECとは呼ばれないが、EAECメンバー国による会合はすでに実現したのである。
しかし河野外相は、翌26日にタルボット国務副長官と会談し、「EAECの性急な結成はASEAN、米国双方や日本にとって好ましくない」とEAECにブレーキをかけたと弁明している。
1994年8月27日には、村山首相がマレーシアを訪問、マハティール首相と会談した。しかし、ここでも村山首相は「関係諸国の理解と支持を得ることが必要」と述べて慎重姿勢を崩さなかった。1995年4月には、EAECメンバー国の経済閣僚会議がタイのプーケット島で開催されることになった。ところが、通産省は、会合に参加する条件として、オーストラリア、ニュージーランドの出席を求めたのである。ASEAN側には受け入れがたい条件である。こうして、日本は会議への欠席を決めてしまったのである。ASEAN側は、日本の態度に落胆。タイのスパチャイ副首相は、日本の態度を激しく批判した。
だが、1995年11月に大阪で開催されたAPEC閣僚・首脳会議の際に、実質的なEAECメンバー国の経済閣僚会議が開催されているのである。むろん、日本政府はアメリカに配慮してEAECとは呼べなかった。
毎日新聞社の大野俊記者は、次のように振りかえる。
「大阪でのAPEC閣僚・首脳会議。その合間にASEANと日中韓の経済閣僚は昼食会という形で会合を持った。その際、日本政府は『EAEC会議』と見なされるのを恐れてか、広報もせずこっそり開こうとした。
この会合予定を事前に私に耳打ちしてくれたのは、知り合いの若手官僚である。『初のEAEC会合なのに、どうして報じられないのか』と言いながら。翌朝、1面トップで「初のEAEC候補国経済閣僚級会合」と報じた新聞記事を見て、日本政府高官は『来年のアジア欧州会議について話し合うだけで、EAECとは関係ない』とおかんむり。しかし、くだんの若手官僚は『あの記事の通りだよ』と言ってくれた」(『毎日新聞』2000年5月22日付朝刊)。
ASEAN側は、EAECという名を使わずに、実質的なEAEC会合を重ねるという方針をとらざるを得なかったのである。
東アジア経済グループ(EAEG)への道
飛び上がるように驚いた池田外相
1996年3月、アジアとEU首脳との第1回アジア欧州首脳会議(ASEM)が開催されることになり、その議題や運営方法などを事前に話し合う目的で「ASEANプラス日中韓」という枠組みの閣僚会議が開催された。
1997年12月には、「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催された。このときも、日本は消極的姿勢を示していたが、ASEAN側が日本が不参加ならば、中国、韓国だけと会談を開催するとの立場をとったために、参加に踏み切ったとされている。
古川栄一は、「日本はEAECに参加しないから、EAECは自然死すると豪語した。アセアン側は、そこで日本抜きで、しかも中国(および韓国)の参加のみでEAECの首脳会議を開催することにした。そうして日本の池田外相は、跳び上がるようにして驚いて、日本は首脳会議に参加した」と書いている(古川栄一「アジアの平和をどう築きあげるか」(歴史教育者協議会編『歴史教育・社会科教育年報〈2001年版〉二一世紀の課題と歴史教育』三省堂、2001年、24頁)。
産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じている。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」 続きを読む 東アジア経済グループ(EAEG)への道
EAECを支持した古川栄一
元外務官僚の古川栄一は、『貿易と関税』、『世界週報』、『諸君!』等を舞台に、1990年にマハティール首相が提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想を支持する言論活動を展開し、志半ばで斃れた。古川は、1953年外務省入省、在タイ大使館参事官を経て、国連アジア太平洋開発センター副所長を務め、1991年に日本国際戦略センターを設立した。
1997年12月に「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催された際の日本政府の混乱について、古川は次のように書いている。 続きを読む EAECを支持した古川栄一
第10回ASEAN+3首脳会議議長声明 (2007年1月14日)
Chairman’s Statement of the Tenth ASEAN Plus Three Summit Cebu, Philippines, 14 January 2007
1. The ASEAN Plus Three (APT) Summit chaired by President Gloria Macapagal Arroyo, President of the Republic of the Philippines, was held successfully on 14 January 2007 in Cebu, Philippines. The Heads of State/Government of ASEAN Member Countries had a productive meeting with the Heads of State/Government of the People’s Republic of China, Japan and the Republic of Korea.
2. We recalled the adoption of the Kuala Lumpur Declaration on the ASEAN Plus Three Summit in December 2005, which reaffirmed our commitment to ASEAN Plus Three cooperation as the main vehicle in achieving a long-term goal of realizing an East Asia community, with ASEAN as the driving force, and with the active participation of the Plus Three countries.
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