アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー

 アマンの日本での存在感が急速に大きくなってきた。2014年に「アマン東京」を開業、さらに2015年には「アマン東京」の別棟として、カフェ「ザ・カフェ byアマン」をオープン。大手町タワーの麓に広がる「大手町の森」の中のカフェだ。「大手町の森」には、アラカシ、コナラなどの高木、ヤマツツジなどの低木をはじめ、81種類、56000本の植物が植えられている。さらに、2016年3月には、サミット開催地の伊勢志摩に「アマネム」がオープン。
 アマンリゾーツの創設者エイドリアン・ゼッカーは、1932年にインドネシア人の母とオランダ人の父の間に生まれた。スカルノ時代の1965年、土地国有化政策に直面したゼッカーはシンガポールへ逃れ、ジャーナリストとしてマレーシアやシンガポールで仕事をするようになる。
 5年後の1970年、彼はホテル業界に入った。就いたポストはリージェント香港の財務担当兼副社長であった。1986年以降、リージェントの経営パートナーのラファエル氏と共に共同創設者として、ラファエルホテルズの経営にも乗り出している。

http://www.amanresorts.com/より
 やがて、彼はプーケットに立派な別荘を設けた。ところが、自分が別荘に居ない間の管理の問題に直面した。そこで、彼は1987年、アマンリゾーツを設立、プーケットの別荘を「アマンプリ」というプライベートヴィラに改造することを決意、翌1988年、リゾートホテル第一号として「アマンプリ」がオープンした。以来、タヒチ・ボラボラ島、インドネシア・バリ島、同・モヨ島、フィリピン・バリマカン島等に順調に高級リゾートホテルを設けた。きめ細かいサービスを重視するとともに、贅沢なスペースを確保した。高い宿泊料金は業界の常識を覆すほどであった。その中でも、バリ島のアマンキラはインド洋を眺める水の宮殿をイメージして建てられた。3段階棚田形式のプール(3-tiered pool)は伝説的存在である。

 順調に経営を拡大していたものの、1997年の東南アジア通貨危機の影響で業績が急速に悪化、大株主のアメリカの不動産投資信託会社のコロニー・キャピタル社に経営権を握われてしまう。この結果、経営方針が転換され、ゼッカーはアマンを去った。ところが、2000年10月に急転直下、ゼッカーの友人である、シュローダー・キャピタル・パートナーズ会長のアニル・タダニがコロニー・キャピタルから株を買い戻し、再びゼッカーをアマンに迎え入れることを決めた(詳しくは、http://indonesia.blog12.fc2.com/blog-entry-747.html)。こうして、ゼッカーは復活した。

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「アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー」への1件のフィードバック

  1. 現在、アマン・ジャンキーの上級者を目指しています。
    とにかくアマンは最高ですね!発案者、制作者の意図や存在さえ
    超えているオーラすら感じらる存在!
    特に、2000年以前にオープンしたものが良いですね。

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