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高山彦九郎と久留米④─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●即似庵継承の精神
 『高山彦九郎』(三上卓先生)は、久留米藩国老・有馬主膳の茶室「即似庵」を「九州の望楠軒」と称した。同書には、即似庵遺跡の写真を掲載し、以下のような説明を付している。
 「高山、唐崎両先生が久留米の同志と密談した即似庵遺跡は久留米市東櫛原町久留米商業学校裏手にある。附近一帯の老樟欝蒼たる地は国老有馬主膳の別邸跡にして、即似庵なる茶室は左端の家屋(現住者は久留米新勤王党の同志の一人たる林田瀬兵衛守隆の子息峰次氏)の位置にありしも、維新後市内篠山町中学明善校裏門附近に移され、稲次亥三郎翁居住さる。翁は真木和泉守門下の高足たる稲次因幡の後嗣、因幡は佐幕派の弾圧に逢ひて憤死せし勤王家なり」
 林田守隆は、慶応4(1868)年正月、小河真文ら勤皇派の同志とともに、親幕派の参政不破美作暗殺に参加。久留米藩で組織された「応変隊」の小隊長として戊辰戦争に従軍し、箱館戦争で功を立てた人物である。
 明治4(1871)年の久留米藩難に際しては、藩知事有馬頼咸の命を受け、本庄一行とともに東京から久留米に派遣され、水野正名や小河真文らと交渉し、事態の収拾にあたった。晩年は真木保臣先生顕彰会会長などに推戴された。

[続く]

高山彦九郎と久留米③─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
 久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
 唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
 即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
 唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
 有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
 唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
 百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
 さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。

☞[続く]

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。

●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。

●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 続きを読む 合原窓南の門人①

藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

 明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
 〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 続きを読む 藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

古松簡二②─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 篠原正一氏の『久留米人物誌』は、古松簡二の人物録を以下のように続ける。

●丸山作楽・岡崎恭助らと連携
 〈明治三年、東京に出て有志と交わり、島原の丸山作楽・土佐の岡崎恭助らと連結して政府転覆を謀って、故郷溝口村に帰って来ていた時、豊後鶴崎(肥後藩領)の高田源兵衛に身を寄せていた大楽源太郎(長州奇兵隊の指導者で、その解隊反対の反乱に失敗して長州藩に追れていた)らの隠匿を高田から頼まれ、小河真文にはかって大楽一行を隠匿した。大楽隠匿は、旧藩主の身をも危くする明治四年藩難の辛未事件と展開した。古松は事件の中心人物として捕えられ「其方儀、曽而攘夷の宿志ある迚、同藩小河真文と窃に同志を募り、血盟を致し、或は岡崎恭助・堀内誠之進・高田源兵衛等申会、旧山口藩暴動之奇兵隊に応じ、当時之緒藩を煽動し、其上、丸山作楽等倶に朝鮮国へ暴発襲撃を為さんと企る。右科除族の上斬罪申付べき処、特旨を以死一等を減ぜられ懲役終身申付る」の終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。獄中にては囚人に人倫の道を説いてその教誨に当り、「愛国正議」「神教弁」等数十部の著書を書いた。明治十五年、獄中にコレラが流行した。このコレラ患者を看護中、自らも感染して明治十五年(一八八二)六月十日没。享年四八。墓は東京麻布東光寺。〉

古松簡二①─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、明治四年の久留米藩難事件の全貌に迫っていく。小河真文に続いて古松簡二の人物録を引く。

●筑波山挙兵に参加
 〈古松簡二(清水真郷)
 上妻郡(八女郡)溝口村の医師清水濳龍の次男、母は儒者今村竹堂の長女。初めは清水真郷と称し、文久三年三月脱藩上京して後に古松簡二と称した。名は淵臣、宇は子滋、蕉牕と号し、また紫隠・終隠等の別号がある。高橋嘉遯の塾「会補堂」に学ぶこと数年、その名声は郡中に高くなり、安政元年十月、米藩が俊秀の士二十名を選んで、藩校明善堂の居寮生とした時、それら藩士に伍して、田舎医の子すなわち庶民から唯一人、真郷が選ばれた。時に二十歳。当時、士庶の区分が厳しかった事もあり、間もなく辞して父の命により肥後の村井洞雲の塾に入って医を学んだ。つづいて友人樋口真幸と江戸に出て、安井息軒の塾に入り、三ヵ年経学を学んだ。文久二年、帰郷して兄濳庵(後ち寿老)と医業に従った。真郷はかねがね勤王の志を抱いてひそかに勤王有志と交を結んでいたが、天下いよいよ騒しく成ると座し居るに堪えず、文久三年三月、池尻岳等と脱藩上京し、国事に奔走した。水戸の武田耕雲斎の筑波山挙兵に参加して敗れ危地を脱しのがれ、九十九里浜の漁家に身をよせた。漁業に従うこと一年の後、京都に潜伏し、姓名を古松簡二と改めた。慶応二年徳川幕府が長州を討つ時、密かに長州に入ろうとして広島にて幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。明治元年、王政復古と共に赦されて京都に出た。時に大久保利通の大阪遷都論の出た折りで、古松はこれに反対し木戸孝允と激論し、大久保・木戸らの政府要人に不満を抱いて同二年に帰国した。米藩は古松を中小性格に登庸して藩校明善堂の教官に任用した。古松の講義は章句にとらわれず、気節を尚ぶべきを説き、その論は人の意表に出たが、生徒はすべて古松の気慨に心服した。政府要人に対する不満の心は政府転覆の思想にいつしか凝まり、小河真文と密議をなして、その計画をめぐらすに至った。〉

[続く]

小河真文⑦─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 引き続き、篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、小河真文関係の記録を紹介する。以下、若干の重複を含むが、同書人物録より引く。

●不破美作殺害により藩政を一変
〈小河吉右衛門(真文)
 嘉永元年(弘化四年二月改元、一八四八)八月十九日、小河新吾の長男として城内(しろうち、篠山町)に出生。初め常之丞、後ち吉右衛門と改む。十六歳の時、父没して家督相続、家禄三百石。通称は吉右衛門。佐々金平と肝胆相照らす仲で、「文武」を分け、吉右衛門は真文、金平は真武と名乗った。後ち池田八束の変名を用いた。早くより勤王
心を抱き、文久三年八月には長州攘夷の応援として豊前大里に行った。時に藩政は国老有馬監物(河内)・参政不破美作らの佐幕開港派が握り、勤王攘夷派に対して強い圧迫を加えた。これを恐れた吉右衛門は五卿に随従して太辛府に在った水野正名を訪れ、一藩佐幕説に傾き、勤王派の身に危険が迫り来ている藩の形勢を告げた。水野正名は佐幕派の首たる者を斃して藩論を一変させるより外はないと語った。この内意を含み、吉右衛門は佐々金平・島田荘太部などと、有馬監物・不破美作殺害の計画を起した。監物は国老で、殺害後の面倒を恐れ、殺害目標を不破美作一人として慶応四年(明治元年〉一月二十六日夜、同志二十四人で、下城の美作を襲うて殺し、ついに藩政を一変させた。殺害の罪は問われず、四月上坂を命ぜられ、大坂で藩主の近侍となった。九月には上京し公務人助役となり、十月に納戸格に進み公用人となったが、十一月病にかかって帰藩療養した。病癒えないため、明治二年六月、弟邦彦に家督を譲った。病も癒え、明治三年正月、応変隊参謀となり、応変隊の実権は吉右衛門が掌握した。同年八月、軍務局出任。明治三年十二月十九日、応変隊解兵され、常備隊と改まると常備隊四番大隊参謀兼務を命ぜられた。
 これより前、明治三年四月、山口藩乱の脱徒、奇兵隊巨魁の大楽源太郎が領内に潜入すると古松簡二より大楽の隠匿擁護を頼まれた。同年七月、大楽を久留米に隠匿し、寺崎三矢吉や旧応変隊幹部と共に大楽源太郎を中にして、政府転覆の挙兵計画を企てた。この新政府に対する謀反の嫌疑と大楽隠匿探索のため、同四年三月、四条隆謌少将は巡察使となり、参謀井田譲・太田黒惟信を伴い、山口・熊本の二藩の兵を率いて日田に駐屯し、領内に兵を進めて久留米を包囲した。すなわち明治四年(一八七一)辛未の藩難事件が起きた。この結果は三月十三日、まず大参事水野正名・沢之高・小河真文が捕われて日田に護送された。翌十四日には太田要蔵・横枕覚助・寺崎三矢吉等十人が日田に護送され、次々と捕縛されて連座する者は百余人に及んだ。四月十七日、水野正名・小河真文ら十人は、東京へ護送され、真文は十二月三日、除族斬罪に処せられた。享年二五。墓は京町梅林寺。〉

小河真文⑥─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 以下、小河真文口上書の抜粋である。

●七生隊の血盟─攘夷の貫徹
 〈私儀、山口藩脱徒へ関係致し候始末、御吟味御座候。此段、私儀者同藩士族小河新吾倅にて、父之跡相続いたし候処、病気に付、去々巳年八月中退勤いたし、弟邦彦へ相譲、厄介相成罷在、然処、一体私儀、兼々尊攘之意を貫通致し度存居候処、御維新以来、追々御政体之変革より、外国御交際被仰出、遂に洋癖に被化、断髪脱刀の形勢に押移り候に付ては、私多年の宿志も空敷相成、甚遺憾に付、時機も有之候はゞ、攘夷恢復之儀を謀度、窃に存居、去々己年中、私並士族古松簡二申合、新規有志之者を募り、七生隊を取立、旧習を去り、藩力を盛隆にいたし度趣中合、同志之者を語り合、別に盟主は無之候へ共、私儀盟主に代り、同藩小川源之丞・田島清太郎・村井滝弥・妹尾末之進初め重立候者三拾人許、外に同志之者百人程出来致し、四箇条程之規則を立、大意は尊攘之意を主張いたし、士気を振興し、風俗を厚きに返し、在来之兵隊と競ひ合候は宜敷候へ共、猥りに争ひ候儀は難相成、仮令、艱難之場合に至り候共、聊志を変ず間敷趣等箇条を立、銘々血盟連判致し候上、右重立候者之内三拾人許、藩内寺院へ屯集いたし、右七生隊是非取立相成様致し度趣申立、藩庁へ迫り、同時に卒のもの共三拾人程別寺院へ屯集いたし、同様之儀を強而申立候処、藩庁より説得有之、追々離散いたし、右血盟之手続は、私並古松簡二宅において取計ひ候へ共、私儀重立引受候儀に付、血盟書は私所持いたし居候処、其後引裂き取捨申候。〉

[続く]

小河真文④─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●大楽源太郎を殺害
 越えて十六日、反政府挙兵の陰謀が大楽源太郎の口から洩れては藩主の身に禍が及ぶとして、捕縛をまだのがれていた島田荘太郎・川島澄之助以下十四人は、大楽源太郎と弟・門人・従者の四人を殺害した。この大楽殺害者もすべて捕縛され、続々と関係者は投獄され、明治四年十二月にはそれぞれ判決が下された。小河真文は斬首、元大参事水野正名二・元権大参事吉田博文は終身禁獄、それに古松簡二は死一等を減じて終身禁獄、寺崎三矢吉も終身禁獄となった。十ヵ年禁獄の島田荘太郎以下、それぞれ処罰され、ここで明治維新に功績あった久留米の人材、その多くを失ってしまった。
 小河真文一生の二大事は、美作暗殺害と新政府転覆運動であった。前者は成功して身の栄達をえ、後者は失敗して身を亡ぼした。人生二十五年の小河真文のこの明暗二つの姿を知るために、前者の姿として、寺崎三矢吉手記の「小河真文」を付記し、また後者の姿として、読解困難のきらいはあるが、弾正台取調べの小河真文口上書を付記しておこう。なお、口上書は大正三年「同郷会誌」(旧有馬家修史所発行)に収録されたものである。明治二年帰国後の古松と小河との関係がよく理解できる記録であると同時に、大楽事件及び反政府運動の根本史料である首謀者の口供であるため、事件の概要・本質が真正面から叙述されており、「藩難記」・「勤王党事蹟」によって細部を補えば、右事件の全体的把握は容易である。
[続く]

小河真文②─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●「西洋心酔の政府を倒壊せん」
 明治三年四月五日、山口藩反乱の脱徒、奇兵隊の首魁大楽源太郎は古松簡二を頼って久留米藩領内に潜入した。古松は小河真文にその潜匿擁護を頼んだ。そして大楽を隠匿擁護している中に、政府転覆の挙兵計画が企てはじめられた。明治四年二月十三日、府中町(現・御井町)の宮川宅で小河真文・立石正介・大楽源太郎・寺崎三矢吉の四者会合の大密議が行われた。当時二十一歳だった寺崎三矢吉は、その密議の様子を次のように手記(「明治勤王党事蹟」48頁)している。
 「立石は京都有志者惣代の資格を以て久留米脱藩人鹿毛松次・笠林太郎(註、旧七生隊員で明治三年四月二十九日、鹿毛・笠松・吉田藤太三人で、奸商の名のある米屋町の富商茣座屋庄助宅に乱入して番頭を切り、脱藩上京して国事尽力。後ち捕縛されて明治四年十二月三日、吉田・鹿毛は死刑に処せられ、笠は獄死)と同伴久留米に来たりしものにて、中島文蔵(小河の旧臣)が案内して宮川宅に入り、大楽源太郎(当時田中隆吉宅に潜伏なりと思ふ)は、石橋六郎・柳瀬三郎・田中隆吉等の案内にて宮川宅に入り、余は約束に依り府中町入口の三井寺の門前道の南側畑中の櫨木に馬を繋ぎ、水野大参事と談話しおそくなれりと言ひ、小河が今日の如く緊張せられたることは末だ嘗て見ざりしなり。而して余を伴ひて宮川宅に入り、小河・立石・大楽、及余の四人が密議数刻に及び、京都同志が青蓮院宮を奉じ久留米に下向して義兵を挙げ、西洋心酔の政府を倒壊せんと決議せり(此時は古松は不在中なり)」
[続く]