小河真文⑦─篠原正一氏『久留米人物誌』より

引き続き、篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、小河真文関係の記録を紹介する。以下、若干の重複を含むが、同書人物録より引く。

●不破美作殺害により藩政を一変
〈小河吉右衛門(真文)
嘉永元年(弘化四年二月改元、一八四八)八月十九日、小河新吾の長男として城内(しろうち、篠山町)に出生。初め常之丞、後ち吉右衛門と改む。十六歳の時、父没して家督相続、家禄三百石。通称は吉右衛門。佐々金平と肝胆相照らす仲で、「文武」を分け、吉右衛門は真文、金平は真武と名乗った。後ち池田八束の変名を用いた。早くより勤王
心を抱き、文久三年八月には長州攘夷の応援として豊前大里に行った。時に藩政は国老有馬監物(河内)・参政不破美作らの佐幕開港派が握り、勤王攘夷派に対して強い圧迫を加えた。これを恐れた吉右衛門は五卿に随従して太辛府に在った水野正名を訪れ、一藩佐幕説に傾き、勤王派の身に危険が迫り来ている藩の形勢を告げた。水野正名は佐幕派の首たる者を斃して藩論を一変させるより外はないと語った。この内意を含み、吉右衛門は佐々金平・島田荘太部などと、有馬監物・不破美作殺害の計画を起した。監物は国老で、殺害後の面倒を恐れ、殺害目標を不破美作一人として慶応四年(明治元年〉一月二十六日夜、同志二十四人で、下城の美作を襲うて殺し、ついに藩政を一変させた。殺害の罪は問われず、四月上坂を命ぜられ、大坂で藩主の近侍となった。九月には上京し公務人助役となり、十月に納戸格に進み公用人となったが、十一月病にかかって帰藩療養した。病癒えないため、明治二年六月、弟邦彦に家督を譲った。病も癒え、明治三年正月、応変隊参謀となり、応変隊の実権は吉右衛門が掌握した。同年八月、軍務局出任。明治三年十二月十九日、応変隊解兵され、常備隊と改まると常備隊四番大隊参謀兼務を命ぜられた。
これより前、明治三年四月、山口藩乱の脱徒、奇兵隊巨魁の大楽源太郎が領内に潜入すると古松簡二より大楽の隠匿擁護を頼まれた。同年七月、大楽を久留米に隠匿し、寺崎三矢吉や旧応変隊幹部と共に大楽源太郎を中にして、政府転覆の挙兵計画を企てた。この新政府に対する謀反の嫌疑と大楽隠匿探索のため、同四年三月、四条隆謌少将は巡察使となり、参謀井田譲・太田黒惟信を伴い、山口・熊本の二藩の兵を率いて日田に駐屯し、領内に兵を進めて久留米を包囲した。すなわち明治四年(一八七一)辛未の藩難事件が起きた。この結果は三月十三日、まず大参事水野正名・沢之高・小河真文が捕われて日田に護送された。翌十四日には太田要蔵・横枕覚助・寺崎三矢吉等十人が日田に護送され、次々と捕縛されて連座する者は百余人に及んだ。四月十七日、水野正名・小河真文ら十人は、東京へ護送され、真文は十二月三日、除族斬罪に処せられた。享年二五。墓は京町梅林寺。〉

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