昭和15年に刊行された神宮皇学館惟神道場『日本精神』(惟神叢書 第5編)の目次を紹介する。崎門系あるいは崎門の影響を受けた著書には★。
一 天神の詔命(古事記)
二 伊邪那岐命の詔命(古事記)
三 三種の神器と天孫降臨の神勅(日本書紀)
四 神武天皇帝都の御経営(日本書紀)
五 調伊企儺の勇武(日本書紀)
六 文武天皇即位の宣命(続日本紀)
七 大伴家持の長歌並に短歌(万葉集)
八 火長今奉部与曽布の歌(万葉集)
九 大伴家持の歌(万葉集)
一〇 蟻通し明神の故事(清少納言枕草子)
一一 藤原光頼の意見(保元物語)
一二 平重盛の諌言(平家物語)
一三 朝敵素懐を遂げず(平家物語)
一四 夙夜忠(宴曲抄)
一五 大日本は神国なり(神皇正統記)
一六 日本と印度・支那との比較(神皇正統記)
一七 楠木正成の奉答(太平記)
一八 楠木正行最後の参内(太平記)
一九 承久変に対する批判(増鏡)
二〇 日本記(舞の本)
二一 白楽天(謡曲)
二二 鷺(謡曲)
二三 弓箭とりの心得(竹馬抄)
二四 君に仕へたてまつる事(竹馬抄)
二五 中朝事実著述の由縁(中朝事実)
★二六 山崎闇斎と門人との問答(先哲叢談前編)
★二七 方孝孺の精忠(靖献遺言)
二八 源親房伝賛(大日本史賛薮)
★二九 正名論(柳子新論)
★三〇 神州は太陽の出づる所(新論)
三一 本居宣長の長歌(鈴屋集)
★三二 楠氏論(日本外史)
★三三 筑後河を下る(山陽詩鈔)
★三四 封冊を裂く(日本楽府)
三五 侠客伝著述の主旨(開巻驚奇侠客伝)
三六 皇国が万国に優れる理由(大道或問)
★三七 國體の尊厳(弘道館述義)
崎門学・水戸学の展開を考える際、北畠親房─栗山潜鋒─蒲生君平・藤田幽谷─藤田東湖という思想継承に注目する必要がある。著書で示せば、『神皇正統記』─『保建大記』─『山陵志』・『正名論』─『弘道館記述義』という継承の流れである。
拙著『GHQが恐れた崎門学』でも指摘したように、万世一系の天皇を戴く國體の尊厳、三種の神器に基づく正統論、名分論という点における継承・発展が重要である。また、謚停止の重大性の指摘においても、『神皇正統記』、『保建大記』、『山陵志』には、著しい共通点がある。
「此御門(冷泉院)より天皇の号を申さず。又宇多より後、諡をたてまつらず。遺詔ありて国忌、山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとどめらるることは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或は出家の君も諡をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の義なれども心をえぬことに侍なり」(『神皇正統記』)
「宇多帝諡を停め、朱雀帝皇号を停めてより…大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房の以て臣子の道に非がと為すは当れり」(『保建大記』)
「宇多より以降、謚を停む。しかして朱雀以降は、院を尊号に代えて天皇と曰わざること、けだし此に原る。後世、その阼を終える者、また崩ずれば院と曰う。後一条を始めとなす。(中略)それ謚を停むるに説あり。かならず、臣は敢て君を議せず、子は敢て父を議せずと曰い、諱む所ありと謂わば、似たり、天子の尊をもって、天皇と曰わず。これ果たして何の意ぞや。ああ、大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房、もって臣子の道に非ずとなす。その言当たれり、後世謚を奉り、崇徳と曰い、安徳と曰い、順徳と曰うは、廑々これのみ」(『山陵志』)
哲学者の山崎行太郎先生に、ブログ『毒蛇山荘日記』(平成28年12月13日、15日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。
平成28年12月13日
〈江戸時代は「天皇親政」=「国体思想」は、反体制的革命思想だった。ーー『GHQが恐れた崎門学』(坪内隆彦著)を読む。
坪内隆彦さんの新著をいただいたので、今、読んでいる。坪内さんには、『アジア英雄伝』という名著があり、私にとっては、たびたび読み返す愛読書の一つになっている。今回の新著は、テーマがテーマだけに、あまり期待していなかったが、予想外に面白い。江戸時代の尊王=国体思想というものが、よく分かった 。
今、「尊皇思想」=「天皇親政」=「国体思想」というと、体制擁護、権力迎合の政治思想のように思いがちだが、少なくとも、江戸時代においては反体制的革命思想だった。「反体制的革命思想」で故に、江戸幕府によって逮捕、投獄され、多くの人が死んでいる。江戸幕府という権力によって殺されたのである。
崎門学(きもんがく)とは、山崎闇斎が創始した尊皇思想を基盤とした反体制的な政治哲学である。崎門学は、万世一系の天皇による親政を理想とし、闇斎は「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら「垂加神道」を打ち建てる。
崎門学は、明治維新を実現するのに貢献した尊皇思想の中心学派であった。崎門学の系譜に連なる梅田雲浜(うめだ・うんぴん)という思想家(イデオローグ)が、逮捕、投獄されるところから、本書は始まっている。 続きを読む 『GHQが恐れた崎門学』書評8(平成28年12月13日、15日) →
米橋清治氏が拙著『GHQが恐れた崎門学』のアマゾン・レビュー(平成28年12月2日)を書いてくれた。心より感謝申し上げます。
〈この崎門学は、朱子学の一流派であるが、大義(とりわけ尊王)を実に重んじている流派である。
それは確かに、激変する時代においては、その原動力となり得たものであるのもうなづける。
しかし、「太平の世」はもとより、これから国を築いていこうというとき、この思想はむしろ、刃となって権力者に向かってくる要素を持っていると言えよう。
確かに利害得失で動く者は多い。
ただ、それだけではないこともまた一面の真理ではある。
明治維新を導くまでの間、長年の雌伏の時を経て、崎門学はついに、陽の目を見たかと思いきや、近代化に進む明治政府にとってそれはもはや、軸となる思想足り得るどころか、足かせになるものでしかなかったかのようである。
とはいえ、あまりに私利私欲が目に付くきょうびの世の中、このような大義というものについて、少しは考えてみる必要もあるのではなかろうか。
そんな思いで、本書を一気に読み終えた次第。
巻末の補論で、原田伊織氏と大宅壮一氏の歴史観を批判しているのは、なかなか読みごたえがあった。
崎門学の思想は、どんな世俗権力にとっても、「鬼門」なのかもしれない。〉
皇學館大学教授の松本丘先生に『神社新報』(平成28年12月5日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。
受け継がれる崎門学 現代的な意義も詳述
崎門学、すなはち江戸前期の儒学者で、垂加神道を唱へた山崎闇斎の学問と、GHQといふ取合せに、やや意外の感を受ける向きもあるかも知れないが、本書を読み進んでゆけば、すぐにその理由が理解されるであらう。それほどにわが国の歴史における崎門学の存在感が大きいといふことである。
著者の坪内氏は、これまで『月刊日本』誌上にて、近代志土たちの評伝や、明治維新の先駆となった先哲たちについての記事を長く連載され、また、崎門学研究会を開いてその顧問を務め、崎門重要書の精読を続けられてゐる。
さて本書では、「志士の魂を揺さぶった五冊」として、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』が取り上げられてゐる。それぞれの内容はもとよりであるが、これらの書に崎門学が如何に滲透してゐるのかが明快に説かれてゐる。その記述には、高山彦九郎、真木和泉、吉田松陰をはじめとする勤王家はもちろん、近代の高場乱、権藤成卿といった人物まで登場してをり、明治の王政復古は、崎門学無くしては成らなかったことを改めて認識させられる。
これは、著者が説かれるやうに「君臣の大義の貫徹に支えられるわが國體が、自らの覚悟と実践に宿る」と信ずる崎門学徒の辛苦の営みによってもたらされたものであった。
著者は、本書にて強調せんとしたことを「大義によって時代が切り開かれた歴史であり、先人の行為を高みに立って批評家として論うのではなく、その尊さを仰ぎ見る謙虚な姿勢、さらに言えば國體護持に挺身した先人に自ら連なるうとする日本人としての自覚です」と纏められてゐる。かうした著者の真摯なる筆致からは、崎門の学脈が現代にも確乎として受け継がれてゐることを確信することができる。
なほ、補論では大宅壮一氏や最近の原田伊織氏の明治維新観が俎上に上げられ、痛烈な批判が展開されてゐる。さらに、著者と共に崎門学を研究されてゐる崎門学研究会代表の折本龍則氏による「いま何故、崎門学なのか」も附載されてゐて、崎門学の現代的意義も述べられてゐる。
本書の発刊に同学の一人として敬意を表すると共に、多くの有志によって繙れんことを祈る次第である。
京都市では、「大政奉還150周年記念プロジェクト」が始動しました。いまこそ、明治維新の意味を日本人が見つめ直すときです。
ところが最近、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歴史観が流布されています。その代表的な著書が、原田伊織氏の『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』、『官賊と幕臣たち―列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート』、『大西郷という虚像』 です。
これまでも、「薩長による天皇の利用」や「薩長とイギリスの協力」という側面については、多くの論者が指摘してきたところであり、「薩長の権力奪取」という問題は、さらに探究されるべきテーマだとは思います。ただし、明治維新そのものを、大義なき権力奪取の物語として描こうとする史観が持て囃されることは大きな問題です。しかも、「七百年に及ぶ幕府支配を終わらせ、皇政復古を実現した」という明治維新最大の意義を無視した明治維新論が広がることは誠に憂うるべきことです。
水戸義公の『大日本史』編纂事業は、國體思想発展に重要な役割を果たしました。その過程で、『保建大記』を著した栗山潜鋒が義公に招かれて水戸藩に出仕し、崎門学の真髄が水戸学に導入されました。『保建大記』に象徴される、皇政復古を目指す潜鋒の國體思想は、藤田幽谷に継承され、やがて東湖へと引き継がれ、水戸学発展を牽引しました。そしてこの水戸学から、多くの幕末の志士たちが強い影響を受けました。
ところが、原田氏は水戸学を冒涜して憚りません。例えば、『明治維新という過ち』では、〈長州テロリストたちがテロリズムを正当化する論拠とした「水戸学」とは、実は「学」というような代物ではなかった。空疎な観念論を積み重ね、それに反する「生身の人間の史実」を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの〝檄文〟程度のものと考えて差し支えない〉と書いています。
さらに、〈『大日本史』という「こうあらねばならない」という観念論による虚妄の歴史書編纂に血道を上げた。その元凶ともいうべき存在が水戸光圀…〉、〈水戸の攘夷論の特徴は、誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如に尽きる〉などと、言いたい放題のことを言っています。
原田氏の吉田松陰に対する批判は、引用するのも憚られるほど酷いものです。
〈ひと言でいえば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。若造といえばいいだろうか。今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。…思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち挙げた虚像である〉
松陰は水戸学によって國體思想に開眼し、さらに浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする広範な書物を読破するなど、獄中にあっても精進し続けました。
原田氏の暴論は、國體思想に対する彼の無理解からくるのでしょうが、國體を守るために挺身した先人に対する畏敬の念の欠如を恐ろしく感じます。
不断の実践によって國體が維持されてきた歴史を歪めるこうした原田氏のような言説が流布することは看過できません。(さらに詳しくは『GHQが恐れた崎門学』)
明治維新の本義について書いた、拙著『GHQが恐れた崎門学』のまえがきの一部を紹介する。
〈崎門学に連なる志士たちは、このわが国本来の姿が容易には実現されないことを理解していました。多くの先覚者たちが天皇親政の理想に目覚め、その理想の実現を志したものの、それを阻まれ失意のうちに斃れたことに深い思いを抱いていました。
遡れば、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、楠正成らの忠臣、徳川幕府全盛時代に弾圧された竹内式部や山県大弐らの先覚者──。困難な状況において孤高の戦いを挑み、敗れてもなお、その志だけは歴史に留めようとしたこれらの先覚者に、自らも連なろうとしたのです。この思いこそが、幕末の志士たちの鉄のような意志を支えていたのです。本書では、この意志の継承の具体的事例を描きます。巻末に掲載した年表からも、斃れてもなお遺志を継がんとする志士たちの魂のリレーの歴史が浮かび上がってくると思います。
例えば、崎門に連なる高山彦九郎の魂を継ごうとする強烈な思いこそが、蒲生君平の『山陵志』だけではなく、頼山陽の『日本外史』執筆の原動力となっていたようです。
残念ながらいま、「天皇親政こそがわが国のあるべき姿だ」という認識は失われています。敗戦後、「天皇親政はわが国の歴史の例外だ」という主張が幅を利かせてきたからです。津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』(昭和二十一年四月)以来、「天皇不親政論」が流布し、石井良助氏らの研究によってさらに強化されていきました。これに対して、平泉澄は、昭和二十九年の講演において次のように語っています。
「藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。(中略)従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)
この立場に立たなければ、明治維新の意義を正しく理解することは到底できません〉(6~7頁)
拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。
②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。
③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。
⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。
作家・書評家の浦辺登氏に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の「hontoレビュー」(平成28年10月28日)を書いていただいた。以下、転載させていただく。
崎門学とはなんぞや。
なぜ、GHQが恐れるのか。
唯一、「明治維新を導いた国体思想とは何か」という副題に、明治維新に影響を与えた「何か」ということが理解できる。
読了後、最も強い印象に残ったのは『靖献遺言』という浅見絅齋が著わした書物である。「あとがき」にも記されているが、頭山満、杉浦重剛、来島恒喜、荒尾精は崎門学の影響を受け、『靖献遺言』を読んでいたという。
玄洋社生みの母と呼ばれる高場乱は『靖献遺言』を熱情込めて人参畑塾で講義したという。それを頭山や来島、平岡浩太郎、月成功太郎(元首相廣田弘毅の岳父)、進藤喜平太、奈良原至ら、玄洋社の主だった青年たちが受講していた。
さらには、ご一新前、太宰府天満宮の延寿王院におよそ三年、三條実美を始めとする五卿が滞在した。この五卿警護のために土佐脱藩浪士、水戸脱藩浪士、久留米脱藩浪士などが従ったが、その警護役の志士たちは、毎月三日、『靖献遺言』の講義を受けていた。まさに薩長同盟、明治維新を画策した延寿王院において国体思想の『靖献遺言』が読まれていたことは感慨を新たにする。
この五卿警護には久留米水天宮宮司であった真木和泉の子息、真木外記も含まれていた。さらに、この五卿の住居である延寿王院に近い場所には、真木和泉の弟が養子に行った小野家があった。今も、太宰府天満宮境内に小野家の邸跡には「定遠館」が残っているので、容易に場所を特定できる。
本書でさらに驚くのは、239ページに登場した岡次郎である。同ページにも記述があるが、岡は上海に荒尾精が開いた日清貿易研究所に学び、日清戦争では通訳官として従軍もしている。この岡の師匠は長崎・平戸藩の楠本碩水だが、平戸藩からは岡の他に浦敬一、岡幸七郎という若者が荒尾のもとに結集した。いわば、崎門学つながりであり、『靖献遺言』つながりである。
蛇足を承知で記せば、日清貿易研究所に学んだ鐘崎三郎の父は太宰府天満宮の社僧であり、平戸藩主お抱えの絵師でもあった。鐘崎も太宰府天満宮の小野家とは縁戚関係にあり、真木和泉との関係性も薄からぬものがある。
ここに、ひとつの大きな流れが見えてくる。
崎門学、『靖献遺言』というキーワードでありながら、西郷隆盛が目指した「東洋経綸」にすら行き着くのである。玄洋社の平岡浩太郎が西南戦争勃発の報に、急ぎ薩軍陣地に向かったのも頷ける。
果たして、「征韓論」とは何だったのか。
話が大きく飛躍していると思われるが、歴史というものは百年、千年のスパンで俯瞰しなければ見えてこないものがある。その一本の支柱ともいうべきものは思想しかない。その原典が崎門学であり、『靖献遺言』であるということが本書を読み進みながら見えてきた。
明治維新百五十年とマスコミは持て囃すが、私たちは何か、本当に重要な「何か」を見落として現代ににまで至ったのではないか。
そう内省させる一書だった。
願わくば、巻末に人名録があれば人間相関図を描くのに便利と思った。
日本国体学会機関雑誌『国体文化』平成28年11月号(11月1日発行)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただいた。原田伊織・大宅壮一の両氏を批判した補論について、以下のように評していただいたことが、特にありがたい。
〈…「近代日本が道を誤った根本原因は、明治維新だった」と書き連ねる原田伊織の『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』といった一連の著作がブームのようだ。「長州テロリスト」と「徳川テクノクラート」の対決図式に基づき、倒幕勢力の暴力・残虐性を殊更に強調したあげく、明治維新を「大義なき権力奪取」と全否定する。
近代化の歩みには批判すべき点もあるが、原田は何故かくも「日本」の正統を恢復しようとした先人を敵視し、悪しざまに罵るのか。〈原田伊織『明治維新という過ち』批判序説〉を〈補論〉として掲げた著者は、原田と『実録・天皇記』の筆者である大宅壮一の心理を重ね合わせ、原田伊織を「大宅壮一の亡霊」と位置づけている。今後も出て来るであろう「原田伊織的なるもの」に対する根本的な批判にもなり得る。…〉
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート