「水戸学」カテゴリーアーカイブ

尾張藩の明倫堂と崎門学①

 斎藤悳太郎『二十六大藩の藩学と士風』(全国書房、昭和19年)は、尾張藩の明倫堂について、以下のように書いている。
〈嘉永六年、尾張徳川家十四代の君主慶勝は、藩学明倫堂における文武修業について、藩士に対しこれを激励する九箇条の直書を発したが、武技稽古場に貼り出されたものは次のごときものであつた。
一、方今皇国の形勢不容易厄運に当り日々切迫に趨り不安之時節に候。然ば当家之儀は随一の親藩として諸藩の標的共可相成国柄に候処、昇平年久しく殊更四通八達之地故に自然之習士林之風気
柔情に移り易く、義勇発奮之武断は却而諸藩に謨候様相成侯而は、皇武祖先に奉対、忠孝之瑕瑾、万世不磨之恥辱と可相成誠以国家之苦心此事に止り候。就夫学校は一国士風之亀鑑に付先是より流弊一新之源を可開申存念侯間、何も此主意を身に体し発奮可有之事。
一、尾籍国校学生たる者、天下に押出して、夫程の人体に無之侯ては、可恥之至也。以来は文武之嗜、其格に叶侯者ならでは、学生は取立間敷侯。―─
時に明倫堂の督学は阿部松園であつたが、前年江戸に出て水戸の弘道館総裁となつた。前年督学正木梅谷の頃から校運やや振はず、一藩の士風また因循して進取の気を欠くものがあるので、慶勝座視するに忍びず、つひに直書を下して藩学を督励し、士気を鼓舞せんとしたものである〉
同書はまた、外国船が日本に頻繁に来るようになった文化年間(一八〇四~一八一八年)の明倫堂について、次のように書いている。
〈近年外国の艦鉛が来航して以来、物情騒然人心沸騰、天下漸やく事有んとする形勢になつたので、一藩の士人はいふに及ばず、学内の生員でも、すでに壮年以上のもの、また心ある教師らもひそかに『靖献遺言』や『新論』を読まざるものなきにいたつた

「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)

平成30年4月、久留米水天宮内の真木和泉守記念館を見学、真木自筆の原稿や遺品などから、改めて楠公精神を体現した真木の生涯を思い起こした。
 
湊川神社社報『あゝ楠公さん』第10号巻頭に掲載していただいた拙稿「楠公精神を体現した真木和泉」の一部を引く。
〈真木は、文化十(一八一三)年に久留米水天宮祠官、真木旋臣の子として生まれ、若き日に宮原南陸の子桑州に師事した。南陸は絅斎門人の合原窓南に学んだ人である。
 郵政大学校副校長を務めた小川常人は、真木の学問には絅斎、強斎の思想が流れていたと推測されると書いている。真木が、絵本楠公記を読み、強く楠公に心服していったのも、若き日に崎門の学にふれていたからであろう。
 むろん、真木の学問の中心をなしたものは水戸学である。弘化元(一八四四)年に水戸遊学を許され、真木は四度にわたり会沢正志斎を訪ねている。真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めようとはしなかった。
 その十三年前の天保五(一八三四)年、正志斎は国民が祀るべき祭日を挙げ、その意義を解説した『草偃和言』を著していた。そこで楠公湊川戦死の日である「五月二十五日」を挙げ、次のように書いていたのである。
 「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵て義に死し、命を塵芥よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る……されば貴賤となく、此日に遇うては、殊に同志の友をも求めて、相共に義を励し、其身の時所位に隨て、国家に忠を尽さん事を、談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」
 真木が楠公祭を開始した直接的な理由は、この正志斎の言葉にあったのかもしれない。 続きを読む 「楠公精神を体現した真木和泉」(『あゝ楠公さん』第10号)

久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

真木と高山を繋ぐ宮原南陸
 
 平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
 やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
 真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
 文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
 一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
 石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
 天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

 幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎だった。天保12(1841)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当った。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉である。
 真木は木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、水戸遊学への思いを募らせ、弘化元(1844)年7月に水戸に赴いた。 実は、真木に先立つ天保13(1842)年に水戸に学んだ久留米藩士がいた。それが、村上量弘(守太郎)である。木村、村上、真木の三人は天保学の三尊とも称せられていた。ところが、村上と真木は対立するに至り、嘉永5(1852)年には久留米の水戸学派は弾圧されるにいたる。いったいに何が起こったのか。
 『久留米人物誌』の「村上量弘」の項を引く。 続きを読む 久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

大楽源太郎の私塾「西山書屋」規則、授業内容

 大楽源太郎は慶応二年に私塾「西山書屋」(敬神堂)を開設した。塾規則、授業の日割は以下の通り。

●西山塾規則
一、第一君公の御主意を相守り、寮中親睦致し、練武学文懈怠なく勉強肝要之事
一、喧嘩口論高声堅く禁止之事付而俗曲同断之事
一、猥に外出堅く禁止の事但し難容用事之れ有候節は頭役座元へ相届外出致すべく侯
一、朔日十の日休日の事
一、朝六ツ時より五ツ時まで撃剣稽古の事
一、六ツ時より七ツ時まで読書稽古の事
一、暮六ツ時より四ツ時まで同断の事
一、二四六九日銃陣稽古のこと、但し四九日は九ツ時より七ツ時迄の事 其の余は諸稽古勝手次第の事
   正月    敬神堂
 右の条々堅相守侯事

●授業の日割
 朔 日 休業
 ニノ日 会読(論語、弘道館記述義)
 三ノ日 同(外史)
 四ノ日 同(靖献遺言、新論)
 五ノ日 同(論語、弘道館記述義)
 六ノ日 同(弘道館記述義)
 七ノ日 同(外史)
 八ノ日 同(靖献遺言)
 九ノ日 同(弘道館記述義、新論)
 十ノ日 休業
 十一日/二十一日 詩文国詩随意 

西海の勤皇志士・松浦八郎と蒲生君平①

 『西海忠士小伝』や『稿本八女郡史』に収録された勤皇志士・松浦八郎は、元治元年7月21日、真木和泉とともに自刃し、天王山の露と消えた人物である。彼が蒲生君平の孤高の戦いを継ぐかのように、山陵荒廃について警鐘を鳴らしていた事実は、君平の精神が水戸─宇都宮─久留米で共有されていたことを物語っているようだ。松浦が大橋訥庵に師事していた事実が注目される。
 以下、拙著『GHQが恐れた崎門学』に書いた大橋訥庵に関わる一節を引く。

●崎門派と共鳴した大橋訥庵の尊皇攘夷論
 天保十二(一八四一)年の烈公による建白からおよそ二十年後の文久二(一八六二)年、君平の出身地である宇都宮藩によって再び山陵修補事業が建白されます。(中略)
 嘉永三(一八五〇)年に宇都宮藩四代藩主忠温の招きにより、江戸藩邸において儒学を教授するようになったのが大橋訥庵です。彼は、『言志四録』で知られる佐藤一斎に師事し、天保十二(一八四一)年に日本橋で思誠塾を開き、子弟に儒学を指導していました。
 訥庵の学問は朱子学と陽明学の折衷でしたが、嘉永五(一八五二)年頃には、朱子学一本に定まります。『大橋訥庵先生伝』を著した寺田剛は、訥庵が到達した朱子学は林羅山の朱子学とは異なり、むしろ崎門派に酷似していると評しています。寺田はまた、訥庵が特に闇斎を尊敬していたことは、諸所に見えていると指摘しています。実際、秋山寒緑、楠本端山・碩水、小笠原敬斎等、訥庵に入門した崎門の士、訥庵の門から出て崎門に入った者も少なくありません。
 訥庵は安政六年には、養子の陶庵を肥後に送り、崎門派の月田蒙斎に学ばせています。蒙斎の家は、代々、熊本の野原八幡宮の宮司の家系で、京都で千手旭山から崎門の学を学んでいました。
 訥庵が高山彦九郎に傾倒し、『山陵志』に込められた君平の志に思いを寄せたことは自然のなりゆきでした。もともと訥庵の実父清水赤城は、君平とともに『武備筌蹄』という兵学書を著そうとしたほど君平と親しい関係にあったのです。
 ペリー来航以来、訥庵は尊皇攘夷論を鮮明にしていきます。安政四(一八五七)年には『闢邪小言』を刊行し、激しい尊皇攘夷論を唱えました。『日本外史』を著した頼山陽の三男で、安政の大獄において処刑された頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、南千住にあった小塚原刑場まで行き、遺体を棺に納め埋葬しています。
 そして尊皇攘夷を目指した訥庵は、君平と幽谷の盟友関係を再現するかのように、水戸の尊攘派との関係を深めていくのです。
 安政七(一八六〇)年の桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中安藤信正は老中久世広周と共に幕閣を主導します。安藤・久世は、井伊の開国路線を継承する一方、公武合体によって幕政の統制を図ろうとします。そこで、皇女・和宮降嫁を実行に移すべきと判断し、朝廷に対して、和宮降嫁を願い出たのです。しかし、和宮の兄・孝明天皇は、降嫁を要請する幕府に対し、断固として断り続けていました。
 尊攘派の志士達は安藤に対する反発を強めていきました。水戸藩の西丸帯刀は、万延元(一八六〇)年七月、長州藩の桂小五郎らと連帯して行動する密約を結びます。これに基づき安藤の暗殺や横浜での外国人襲撃といった計画が立てられました。しかし、この頃長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となります。そこで、水戸の尊攘派志士らは、訥庵一派と連携して、安藤の暗殺計画を進めたのです。
続きを読む 西海の勤皇志士・松浦八郎と蒲生君平①

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』

 平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
 〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
 新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
 その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
  君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉

高須芳次郎の会沢正志斎評

 高須芳次郎は『近世日本儒学史』(越後屋書房、昭和18年)において、会沢正志斎について次のように評している。
 〈就中「新論」は……日本國體の尊厳を理論の上から詳しく説いた最初の書であつた。それと共に農本主義を叫んで、士民の経済的行詰りを打開し、忠孝一本主義を唱へて、国民の思想的立場を強力ならしめることにつとめた。その国防論の如きも、軍事科学の知識を本にして、詳しく陸海軍の新設備を論じ、頗る当時に適切だつた。
 それ故天下の志士、国士を以て任ずる人々は争うて「新論」を読んだのである。真木和泉、平野次郎、安達清風らはいづれも「新論」から少からぬ感銘を得た。その他、薩長と土肥諸藩の人々のうちには「新論」愛読者が多かつたのである。かうして「新論」一篇は正志斎の名を全日本に伝へ、彼の風采を想望して水戸へくる有為の青年がなかなか多かつた。吉田松陰も亦正志斎を崇拝してその教へを受け「会沢先生は、人中の虎だ」と感嘆した。
(中略)
 正志斉はまた文章に長じ、精力に富んで頭脳が明快であつたから、水戸学精神を世に普及するために年々著述を出した。中にも「下学遺言」「及門遺範」の二書は、水戸政教学の本旨をよく伝へ、後人を感奮せしめる力が強い〉

真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 続きを読む 真木和泉の真髄①