真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」

 真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めませんでした。常に「櫻井の決別」を期していた真木は、楠公祭に一家一族を出席させ「たらちねの父を恨むることあらば 楠の木蔭の草つみて見よ」と、口誦さんでいたといいます。楠公一族を慕う真木の魂は、その家族の心に浸みわたっていたのです。
(中略)
 勅命によって入京を禁じられている真木が挙兵上京を策することは、謀反となる危険性がありました。しかし、真木は、弘化三(一八四六)年に初めて海防厳戒の勅が幕府に下されて以来、大和行幸の発令に到るまで、孝明天皇の意志は常に攘夷にあったはずだと信じていました。そして、八月十八日以後の勅令は、中川宮を中心に会津・長州両藩が天皇の真の意志を遮り、矯めた結果なのであり、一刻も早く君側の奸を払わなければならないと考えたのです。
 郵政大学校副校長・教授を務めた小川常人は、真木が謀反と呼ばれるのを免れないと考えたからこそ、自らの信ずる尊皇の行為に対する正邪の弁別を後世の歴史に待つべく、上京前すでに死を覚悟し、「躊躇なき見事な死を以て己の志操を立証」しようとしたと書いています。これこそ、君を動かせなければ自らが責任を負うという真の忠です。……七月十九日、ついに真木らは堺町御門を目指して進軍しました。しかし、福井藩兵などに阻まれて敗北(禁門の変)、久坂と来島は自決しました。
 真木は、天王山へ退却したものの、長州へ敗走することを拒否し、七月二十一日、同志十六名とともに自刃、天王山の露と消えたのです。彼の一族の男子は、まさに楠氏一族のように、挙って維新の大業に殉じようとしました。そして、彼らのほとんどが、真木と前後して皇事に斃れたのです。天朝に命を捧げることが、真木一族全体の志だったのです。
 平泉門下の鳥巣通明は、「和泉守が、楠公に仰ぎ見たのは、その赫々たる勲功よりは、むしろその至純の忠誠であり、事の成敗を超越し、一族をあげて皇統護持の業に殉じて、毫もかへりみなかつた点であつた」ととらえ、この小棹の言葉(とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく)によって、真木が身をもって書こうと願った楠子論は、見事に完成したのだと称えています〉
 真木を貶める言説と闘うことは、日本人の生き方を守ることだと信じている。

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