愛国交親社と杉田定一

 愛国交親社は、杉田定一とも関係を有していた。飯塚一幸氏は「自由党成立後の杉田定一」において、次のように書いている。
 〈杉田と林包明はすでに(明治一五年)一〇月中には東京を出ており、一一月二日か三日には四日市から汽船に投じて三河国碧海郡上重原村の内藤魯一の許へと向かっていたのである。内藤は杉田・林よりも早く帰郷しており、その後の東京の模様について杉田・林より詳しく聞き取り打合せを行ったものと推察される。この路程で杉田は尾張の庄林一正にも会談した。杉田は、庄林が中心となって急激に農民の組織化に成功しつつあった愛国交親社に強い関心を抱き、同社社則の提供を依頼した。明治一五年七月、愛国交親社は指導組織の改編を行い、郡ごとに幹事長・副幹事長各一名の他、書記・出納係・剣術取締・機械係などを任命し、その下部組織として社員五〇名ごとに「組」を編成して幹事・同補助を置き、さらにその下部に末端組織として社員一〇名ごとに「伍」を編成して伍長を任命した。庄林は、恐らくこの際の改正社則を、杉田の依頼に応じて一一月二七日付の書簡に同封して送っている。残念ながら杉田定一関係文書中には社則は見当からないが、同年九月の「愛国交親社行列之図」が残されている。杉田は、南越自由党の発展を策すに当たり、愛国交親社の経験を何らかの形で生かそうと考えたのではないか。また、杉田と内藤魯一・庄林一正との接触は、板垣洋行問題後の自由党の会議において話題となった、愛知県での実力行使と関連性があるのかも知れない」

玄洋社路線を主導した庄林一正

 愛国交親社には、当初から玄洋社路線に接近する思想的萌芽があった。それを主導していたのが、庄林一正である。
 長谷川昇氏は「変革期における庶民エネルギーの源泉─博徒─草莽隊─『愛国交親社』の系譜に探る─」(『思想』1979年9月号)において、『岐阜日日新聞』の記事に基づいて、愛国交親社の性格を次のように整理する。
 〈一、この組織は、その「社則」に定められている如く「政談演舌会」や「其の筋への建言」を目的とする明らかな「政治結社」であった。
 二、しかし、この組織は実際には「政談演舌会」などを通じて理論的に庶民を組織化してゆくのではなくて「社則」にも定められていない〝撃剣指導〟を通じて村毎に道場を設けることによって驚異的な組織率(例えば東春日井郡の村々では金戸数の六〇─七〇%の参加数を示す)をあげていく。
 三、この組織は、「大野仕合」・「撃剣大会」・「社長の上京送迎」などの際に大規模(数千人に及ぶ)な大衆動員を行い、社号の入った高張提灯を先頭に一種の示戚行進のようなことを挙行する。
 四、この組織は、社長直属の本部幹部の他に、各郡毎に郡幹事長・副幹事長及び剣術取締・同補助・機械係などを置き、更に各村毎に幹事(百人頭)・幹事補(五〇人頭)及び剣術取締・機械係などを任命し、末端組織は一〇名毎に伍に組織されて伍長(一〇人頭)を置くという、「講」もしくは「細胞」に類する様な組織に編成されている。そして役職に任ぜられた者にはその末端に至るまで、大げさな「辞令」が発行されている。
 五、この組織に民衆を加盟させるための「組織者」(これは、本部直属の者、又は郡幹事長に付属する者で弁の達者な者が当てられた)は、次の様な言葉を並べて農民を説得して歩いた。そしてこの「組織者」の説く処が、とりもなおさず「愛国交親社」の主義・主張を表示するものとなっている。新聞の報ずるところによればそれは次の様なものである(いずれも「岐阜日日新聞」より引用)。
 a、「我社に加入する者は何人に限らず其筋より二人扶持の俸米を宛はれ、尚腕力ある者には帯刀を許さるべし」
 b、「明治二十三年に至らば、我政府は国会を開設せられ、社会の財産は一般人民の頭数に平等に分賦せらるれば、此の時に及びては愛国交親社員たるもの苗字帯刀御免となり加ふるに八石二人口を賜る」
 c、「本社に入れば徴兵を免ぜられ、……但しは士族に取立てられる」
 d、「我政府は明治二十三年後は必ず外国と戦争を開く事あるべし、故に我々は今日よりあらかじめ戦争の準備をなさゞる可らすぜとて頻りに撃剣をなし、……又此程発布になりし商標条例は……如何にも苛酷の収歛なれば……我々愛国交親社たるものは必ず……此条例を廃止する様嘆願する〉

 長谷川氏が注目するのは、内藤魯一と庄林一正の路線の違いである。長谷川氏は「愛国交親社創立趣意書」が内藤魯一を領袖とする「三河交親社」の趣意書と末尾の数行を除いて同文のものだと指摘した上で、次のように書いている。
 〈筆者の内藤が民権政社たる性格を方向づけるために最も力を込めて書いたと思われる「開明文化ノ実ヲ挙ゲ……人民所有ノ権理(利)ヲ伸張シ、一身一家ノ幸福ヲ保チ」という一節を、庄林一正は自らの筆で故意に抹殺して、「欧米強国ト対峙シ、国権ヲ挽回スルノ外他志アラザルナリ、夫レ苟モ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食を食スル者ニシテ誰カ斯ノ志ヲ同クセザル者アランヤ」と書き換えている。これは明らかに〝西欧型自由・平等思想〟への抵抗の姿勢を示している。庄林はのちに「愛親社」(明治二十一年に結成された「愛国交親社」の後身)を率いて、頭山満の「玄洋社」・遠藤秀景の「盈進社」と共に対外硬の路線を明確にしてゆく。その右傾化の道を辿る原点はすでに「愛国交親社」の中に用意されていたのである〉

坪内家と愛国交親社①

 『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』(322、323頁)には、自由民権運動と坪内家の関わりを示す資料(少林寺文書の中にある「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」)が引かれている。

〈一 同十三庚申 旧二月廿六日 新四月五日、尾州愛国交親社ニ入社、其後美濃幹事長也、社員凡二千五百人ナリ、同十七甲申 旧二月三日 新二月廿九日 ヨリ本部尾州愛知郡名古屋社長庄林一正自由党ト喧嘩一件ニ付名古屋裁判所ニ呼出シ、後トケイ(徒刑)人ト成ル、又 旧閏五月廿七日 新七月十八日、名古屋警察署ヨリ廃止ニ相成候本社愛国交親社ヨリ 旧閏五月廿九日 新七月廿日 到着、尤即刻出ナリ、美濃国厚見郡加納町六町目[ママ]浄土宗西方寺ニ於テ取締所明治十四辛巳年 旧五月廿五日 新六月廿一日 初会日也、尤三日以前ニ御届済也、毎月届跡ニテ撃剣也、毎月新暦一日十一日ハ撃剣計リ也、是ハ初ニ届置申候テ一々不届也
同年 旧九月卅日 新十二月廿一日 迄ニテ、翌月ヨリ岐阜誓安寺エ転ズ、尤門前ニ大看板立ツ、愛国交親社ト書ス、□五尺五六寸 巾一尺二三寸位ナリ
同年 旧十月廿日 新十二月十五日ヨリ岐阜桜町 稲葉ナリ 壱番地浄土宗西山派誓安寺、俗ニ藤ノ寺ト云、今日ヨリ愛国交親社支店集会ノ始メ也、毎十五日跡ニテ剣術有之、毎月三日前ニ御届、表ニ高張大挑灯[ママ]交親社四半幟立、毎月五日廿五日ハ撃剣計リ、是ハ初ニ一度届置也
同十五壬午年 旧五月廿三日 新七月八日 端書ニテ岐阜警察署ヨリ村戸長ヨリ相違ス 旧五月廿九日付 新七月四日付 来ル六日午前第八時出頭之趣キ也、高国三州留守ニ付、帰邑後 旧五月廿三日 新七月八日 岐阜稲葉入口、北門警察署ニ出頭、柴田正直ニ面会、今般集会条例改正追加布告ニ付、条例ニ触ル廉往々有之候間、岐阜支社ノ儀、今明両日ノ中ニ解散取払可申上旨御受申上候也、前顕交親社之廃止ハ明治十七甲申年 旧閏五月廿日 新七月十二日 美濃組社中監督伊藤初治郎、東美濃ニ於テ暴動ノ叛デ在風聞、依テ新加納村交番所エ届、翌日名古屋エモ届ル、本社附東ミノニ魁首有之由右ニ付廃止ナリ、届ク捕縛ニ成ル、未ダ暴動ニハ不相成、併押カリ等アル由是本社ニ背キタル也〉

橘孝三郎『大東亜戦の本質』(昭和18年)

 大東亜戦争の本質とは何だったのか。大東亜共栄文明の創造を目指した橘孝三郎は、『大東亜戦の本質』(昭和18年)において、次のように書いていた。

 〈そこへゆくとアジアは全くヨーロツパと異つておる。特に漢民族と印度民族とは過去に於て光つておる。之等のアジア民族はいづれも共栄精神に一貫しておる。そして、共栄社会を歴史の過去に実現して来た民族である。それが、過去以上の状態を打開し得ず休眠的民族として、近世西洋唯物文明支配下に全く哀れむ可き状態に捨て置かれておる。たゞ、その共栄的アジア民族の中に在つて祖国日本のみは、驚異に値する方法に依つて、近世西洋唯物文明支配下に巧みに順応して、積極的活動に出で得るの素地を現実に養つて来たのである。かくて、この闘力時代を切りぬけて、アジア共栄精神に依つて、共栄文明を創造し得る中心主動者は之を祖国日本に求むる以外に全く他者在る事を知らない事実を発見し得るのである。問題は、かくて、当然、祖国日本の自己救済に在る。更に、自己救済以て大東亜に於て先づ大東亜共栄文明を創造しかく世界救済に値する世界共栄文明を導き出す主動者たり得るであらうかどうか。
(中略)
 …一面闘力体制を即刻整備し出さねばならん。それと同時に他面大東亜に全面一貫す可き共栄文明創造の基礎にて根幹をかためなさねばならんのである。
(中略)
 …国内米英体制を一掃して、真に日本的闘力体制を整備す可き事は、とりもなほさず、カバネ制の旧をとりもどす事であつて、国体の大本に立還る事に外ならんのである。尚、国体の大本を忘れて真の日本的闘力体制は絶対に実現不可能である。しかも亦、大東亜共栄文明創造而して世界救済の大道が貫通しておる。漢民族四憶万が何事を日本に期待しておるのであらうか。印度民族三億五千万が何事を日本に期待しておるであらうか。米英の本家を追ひとばして、それにとつて代へて日本的米英支配を下さん事のそれであらうか。とんでもない。漢民族が日本に期待し、印度民族が日本に期待する処のものは、唯漢民族本来、印度人本来の立場に於て解放救済されん事のそれであらねばならん。而して、それ等はいづれも共栄主義民族だつたのである。されば自明である。漢民族、印度人凡そ八億万大衆の日本に期待する所のものは、その本来の立場に再生復し得る一切の途を遮閉せる近世西洋唯物文明支配力を先づ粉砕撃滅一掃せんことのそれである。
(中略)
 されば大東亜戦は一面最も凄惨な撃滅戦であると共に、他面歴史に於て最も光栄ある救済文明創造戦である。大東亜戦の本質が茲に在る〉

「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

 在野の興亜論者たちは、アジア諸民族が対等の立場で協力するという理想を追求し続けた。「東亜連盟建設要綱」(改定版 昭和18年6月)にもそれは明確に示されている。同要綱は、次のような章立てとなっている。

 序篇 大東亜戦争と東亜連盟
 第一篇 東亜連盟の理念
  第一章 東亜連盟の名称
  第二章 東亜連盟の範囲
  第三章 連盟の指導原理
  第四章 連盟結成の基礎条件
   一、国防の共同 二、経済の一体化 三、政治の独立 四、文化の溝通
  第五章 連盟の統制
  第六章 東亜連盟の盟主
 第二篇 東亜連盟の各国家
  第一章 日本皇国
   一、国防の担任 二、経済建設の指導 三、国內に於ける民族問題
  第二章 満洲帝国
   一、満洲国独立の理由 二、満洲国の責務 三、独立の完成
  第三章 中華民国
   一、支那事変の処理及び中国の連盟加入 二、中国当面の国內問題 三、独立の完成
  第四章 南方諸国
   一、南方開発の根本方針 二、南方統治に就いて

 特に筆者は、「東亜連盟の盟主」の次の一節に注目している。

 明治維新は封建制度を打破して民族国家を完成するのが、その政治的目標であった。国内の諸問題については世界史上無比の輝かしき成果を挙げ得たのであるが、一面他民族、特に東亜諸民族に対しては、勢の赴くところ徒に軽侮の悪風潮を生じ、安価な優越感をふりまわし、台湾・朝鮮の統治および満州国の建設に於て、文化の急速なる発展に大なる寄与をなし、諸民族を幸福とせることは否定し難きに拘らず、東亜諸民族の民心把握はむしろ失敗し、今なお漢民族を挙げて抗日に動員せられている現状である。
 東亜連盟の結成をその中核問題とする昭和維新のため、我等は先ずこの事実を率直に認めることが第一の急務である。 続きを読む 「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

坪内利定の研究①

 筆者の祖先・坪内利定(1538~1609年)は、織田信長に仕え、美濃攻略の先鋒を務めた人物として知られる。
 『日本人名大辞典』には、「天文7年生まれ。美濃(岐阜県)松倉城主。織田信長につかえ、美濃攻略の先鋒をつとめる。のち徳川家康のもとで関ケ原の戦いに功をたて、美濃羽栗・各務郡で6500石をあたえられ、旗本となった。慶長14年2月13日死去。72歳。通称は喜太郎」とある。一方、「戦国大名探究」には次のように書かれている。
 「二男が利定で、信長に属して佐々木六角攻め、小谷城攻め、本願寺攻めなどに参陣して活躍している。さらに、利定は織田軍の鉄砲同心を率い、播磨国高倉城攻め、武田攻めのときには織田信忠に属して信濃高遠城攻めに配下を指揮して活躍、みずからも鉄砲をもって敵を討ち止めている。信長死後は豊臣秀吉に属したが、やがて秀吉と不和になり、長久手の戦に際しては森長可に属して出陣。この戦で長可が討死して森勢が退散するとき、追いかける家康軍に対して、馬上より鉄砲を討ち掛けて森勢の退却を援けた。
 天正十八年(1590)、徳川家康に召されて、上総国山口村などに二千石を与えられて以後徳川氏に仕えた。慶長五年の上杉征伐には、男子四人も引き連れて従い、下野小山に至った。関ヶ原の戦には、鉄砲隊五十人をあづけられ、井伊直政に属して活躍した。戦後、加増を受けてすべて六千五百三十余石を領した。家督は嫡男の家定が継ぎ、子孫は大身旗本として存続した」
 ここで、注目されるのが、利定と鉄砲の関係についてである。松田之利氏は「史料解説 旗本坪内氏の宗家と内分家」において、以下のように書いている。
 「…坪内氏は、美濃三川の運輸に深いかかわりがあったと想像されるのである。その点で信長に属した喜太郎(利定)が鉄砲を駆使していたということが注目されるのである。
 彼は永禄八年(一五六五)には信長から、天正九年(一五八一)には信忠(信長の嫡子)から「鉄砲にて鹿・鳥打候事」を許可する旨の判物を下付されているし、天正十年の武田勝頼との戦いでは、信州高遠の攻略に鉄砲隊を率いて参加したという(『各務原市史』以下ことわらない限り同市史による)。こうした事柄は、坪内氏が当時鉄砲の生産や流通の中心地であった堺と何らかの繋がりがあったこと、また根来や雑賀の鉄砲足軽を率いて活躍したということは、紀州と繋がりがあったということであるから、木曽川や長良川を通して、堺・紀伊半島・伊勢湾を結ぶ海上交通と結びついていたと想像してもおかしくない。そしてこうした坪内氏の交通の範囲と、当時の一向一揆のそれとほぼ重なっていたと考えられる。一向宗の門徒たちは、瀬戸内海の島々から大坂の本願寺、紀州(の根来や雑賀)から伊勢長島へ、そしてさらに河川を伝って内陸部と繋がりをもっていたことは周知の事実である。当然門徒には海川の運輸業者や商人・職人たちが多かったから、坪内氏はこうした人々と何らかの関係をもっていたものと推測される」

安倍首相に種子法復活を求める要望書を提出(平成30年7月26日)

 平成三十年七月二十六日午後、「安倍首相に種子法復活と併せて必要な施策を求める有志」とともに内閣府に赴き、安倍首相宛てに以下のような要望書を提出した。

「種子法(主要農作物種子法)廃止に抗議し、同法復活と併せて必要な施策を求める要望書」
 今年(平成三十年)四月、安倍内閣によって種子法(主要農作物種子法)が廃止された。この種子法は、米麦大豆などの主要農作物の種子の生産と普及を国と県が主体になって行うことを義務付けた法律である。この法律のもとで、これまで国が地方交付税等の予算措置を講じ、県が種子生産ほ場の指定、生産物審査、原種及び原原種の生産、優良品種の指定などを行うことによって、良質な農作物の安価で安定的な供給に寄与してきた。
 しかし、安倍首相は、この種子法が、民間企業の公正な競争を妨げているとの理由で、突如廃止を言い出し、国会での十分な審議も経ぬまま、昨年三月可決成立させてしまった。
 今後種子法廃止によって、外資を含む種子企業の参入が加速し、種子価格の高騰、品質の低下、遺伝子組み換え種子の流入による食物の安全性への不安、長年我が国が税金による研究開発で蓄積してきた種子技術の海外流出、県を主体にすることで維持されてきた種子の多様性や生態系、生物多様性への影響など、数多くの弊害が危惧されている。
こうした懸念を受けて、「種子法廃止法案」では、付帯決議として「種苗法に基づき、主要農作物の種子の生産等について適切な基準を定め、運用する」「主要農作物種子法の廃止に伴って都道府県の取組が後退することのないよう、・・・引き続き地方交付税措置を確保し、」「主要農作物種子が国外に流出することなく適正な価格で国内で生産されるよう努める」「消費者の多様な嗜好性、生産地の生産環境に対応した多様な種子の生産を確保すること。・・・特定の事業者による種子の独占によって弊害が生じることがないように努める」ことなどが記されているが、どれも努力義務で法的強制力はないばかりか、早くも政府は、この付帯決議の主旨に逆行する政策を推し進めている。 続きを読む 安倍首相に種子法復活を求める要望書を提出(平成30年7月26日)

日本人は「東洋人の東洋」道に徹せよ─金子定一「日本は今、何をしてゐるか」

 支那事変に直面した金子定一は、「日本は今、何をしてゐるか」(昭和12年12月)において、欧米列強の妨害工作を指摘するとともに、日本人は「東洋人の東洋」道に徹せよと説いた。
 〈日本は東洋を、日本の考へる様な機構に於て東洋人のものにしたい。それが為には先づ支那の理解と承諾とを必要とする。
 「東洋人の東洋」は、西洋人の支配に対して致命的な危険物だ。彼等は協力して日本を検束したい。海軍制限とか、不戦条約とか、皆其目的に出でたものであつた。又彼等としては煽動することによつて日本の意図を妨碍することも有力な手として、早くから企てられた。
 支那は、日本の指導によつて動くことは感情的に嫌忌を感ずる。そこに西洋から利を以て誘はれる連中が飛躍するのだから実に厄介である。
(中略)
 満洲事変は厄介な支那に対して日本が、「問答無用」の拳骨を振り上げたのであつた。支那は悲鳴を上げた、西洋人は総掛りで声援した、これは支那を助けるといふよりも、自ら救はんとする本能が動いたのだ。然し、日本はともかく敢然として拳骨の目的を達して仕舞つた。余勢の迸るところ、欧米が以て日本検束の金網とする海軍制限条約や国際連盟からまで離脱した。
 支那は到底、日本の拳骨の意味を解することが出来ない。昔からさうである如く、その味の分る様な英傑が指導して居ないのである。或はたとひ英傑が居るとも大乗的な指導をなし得ない環境に置かれてあるのだ。支那は感情的に嫌ひな日本から叩かれて、ヒステリーが昂じた。「西洋の奴隷になるとも、日本の友となるな」とは彼等の本音なのだ。少くとも表面さう見える。
 それは確かに西洋人の恩ふ壷だ、欧米の諸国、各々隙を窺つてゐるものゝ、「東洋人の東洋」に精進せんとする日本に関する限り、英米は愚か、英蘇すらも共同し得るのだ。
 かくして日支事変となつた。これこそは欧洲戦争によつて開幕された世界的革命運動の二幕目である。
 「東洋人の東洋」運動の指導者日本が、最も頑固な反対者支那を同志に引入れんが為に、闘ひ取らんが為にかくなつたのだ。さうはさせじと争ふものは、実はイギリスだ。ロシアだ。アメリカは都合によつてハラハラしつつも見物してゐる。フランスは英蘇のお相伴役に登場してゐる。
(中略) 続きを読む 日本人は「東洋人の東洋」道に徹せよ─金子定一「日本は今、何をしてゐるか」

なぜ日本と中国は手を結べなかったのか─元凶としての欧米心酔派

 アジア諸国が団結して欧米列強の支配から脱することを目標としてきた在野の興亜論者たちにとって、日中間の対立こそが最大の障害であった。昭和12年7月の盧溝橋事件を発端として志那事変が勃発すると、興亜論者の苦悩はさらに深まった。なぜ、日中は手を結ぶことができなかったのか。東亜連盟運動に参画した金子定一は、「新王道の黎明─協和」(昭和13年8月)において、次のように書いている。
 〈亜細亜果して劣弱か。東洋人は祖先の偉業を追懐しつつ永久に欧米人の奴隷となり了るか。茲に日本は敢然として起つた。日露戦争はその小手調べであつた。「小日本の黄色民族。ロシア大帝国に捷つ。」この一事は全世界の有色人をして驚喜せしめた。この秋を以て日支は直に結ぶべきであつた。そして新世紀の新面目を作るべきであつた。蓋し之は日支両国、東亜大民族が世界歴史に負へる使命であつたのだ。
 日本にも、支那にも、この使命を解する人があつた。然るに欧米に魅せられ、彼に心酔し、若しくは彼に屈する慣ひが性をなした人々の方が絶対に多数であり、非常な懸絶を以つて有力であつた。かくて日本も、支那も、各々異つた意志と形式とを以て欧米と結び、日支互に相剋した。又しかあるべき様に西力が日支両者を操縦した。
 日本は流石に支那より早く目醒めてゐた。そして百方支那の心を纜らんとは試みた。然し事ごとに失敗した。この失敗には、日本として自ら責めなければならぬ点も尠くない。日本は其非迄も西洋に学ぶことを已めなければいけない〉(『日本民族の大陸還元』122頁)。
 以上のように、金子は日中が結合を妨げた要因として、日本でも中国でも、欧米に心酔し、屈服する人たちが多数を占めていたことを挙げた。さらに、金子は日中結合の失敗の原因を満洲国統治による民族協和の遅れに見出す。
 〈独立以来七閲年、満洲国は慥に恥かしからざる進歩を邃げつゝある。然し若し、更に速やか真の民族協和の実を挙げ、日系と満系とが肝胆相照し得たならば、同民族の如くに隔てなきつきあひを敢てし得たならば、或は今次の支那事変も起らすに済んだのかも知れぬ〉(同126頁)。
 続けて金子は〈「九族を親和し、百姓を平章にし、万邦を協和せしめる。」といふことは、古代支那哲人の理想である。この理想は即ち我日本の肇国の理想と相通ずるものだ〉と民族協和の理想を唱え、満洲協和会の成長を次のように求めた。
 〈(協和会は)もっと成人しなければならぬ。/協和会の成人とは何ぞや。まづ民族協和の実が挙がることである。そしてこの民族協和の目的が少くも東亜三国、日満支団結の企図の前提であることが明かにせられなければならぬ。且つ日満支三国団結の真意義は、道義世界とその平和とを招来せんが為めでなければならぬ。かくして協和会は満洲国の五族協和から出発して、万邦協和にまで進展すべきその前途の光栄に輝き得るのである〉

金子定一「日本国の新認識から『民族社会』主義まで」

 戦前は「日本海湖水化」を提唱し、戦後もアジア主義思想を維持した金子定一が岩手を拠点に主催していたのが、雑誌『開発クラブ』である。同誌第7巻(昭和29年)8月号を入手した。
 巻頭に金子の「日本国の新認識から『民族社会』主義まで」が掲載されている。金子の肩書は岩手県護国同志会長となっている。
 8頁にわたる論文の構成は以下の通り。
  はしがき
  世界の変動と日本の変革
  国家至上主義の功罪とその追放─国家観念の幻滅
  維新廃藩と世界連邦論
  進化論的に日本を見る─民族の生成と建国と相伴う
  外物心酔摂取と消化、模倣と独創
  日本民族の欠陥も亦著しい
  固有日本の回顧
  いまの左傾は幕末の「勤王」の地位
  明治維新は開国思想で─日本の将来は民族主義で
  日本「民族社会」主義とアジア的日本
  結びの言葉

 「日本『民族社会』主義とアジア的日本」では以下のように主張している。
 「日本は、国の成り立ち、歴史、またアジア的貧困の境遇にある。その民族社会主義は、アジア的・日本的独特のものでなければならない。社会主義的政策はすでに日本の常識にとなつているので、これを『日本民族社会』として如何に体現すべきかは、何人にも一応見当がつくであろう。
 嘗ての、武者小路実篤の『新らしい村』は古いが、私は有志によつて、民族社会主義日本のモデルケースがどこかで創められていはしないかと思う。
 私は、欧米流知性人達の言説に触れる機会の多かろうところの人々を読者としてこの篇を綴つた。然し世界は欧米の外にもう一つある、それはいうまでもなく、アジア的貧困ということの外の意味でのアジアである。日本はアジアに国して、アジアの文化を悉く摂取し、消化して自分の血肉として今日に到つた。その、日本の本来的なものはこれである。『日本民族社会』も、その由来に於て、遠隔に於て、これに基くべきものが多大である。日本の国を再認識して『民族社会主義』を建てるためには、決してこの軌道を外れてはなるまい」