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渡辺佐一「坪内高国と愛国交親社 その一、二」①

 平成30年9月、岐阜県歴史資料保存協会事務局の協力を得て、渡辺佐一「坪内高国と愛国交親社 その一、二」が掲載された『濃飛史艸』23、24号(昭和57年1月25日、同年3月25日)を入手した。
 「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」に基づいて書かれており、『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』と並び、坪内高国と愛国交親社の関係を分析する上で貴重な論稿である。

坪内高国と愛国交親社②(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。

 〈坪内高国の日記に「明治一四已年冬、各務郡和合村禅宗黄檗派(宝蔵)寺ニテ、交親社の社中剣術アリ、夜ニ入リテ口談アリ」とあるように、農村組織にあっては、剣術指導がなされ、しきりに試合を行ない、撃剣会で剣術の訓練を受けた農民社員は、愛知県中島郡甚目寺(じもくじ)で、明治一六年(一八八三)八月二一日に行なわれた野仕合調練(「坪内高国日記」)のごとき、大規模な野仕合に動員された。その甚目寺村・甚目寺境内における模様を、坪内高国は次のように記している。
 (明治一六年)(旧七月十九日、新八月廿一日)尾州愛国交親社本部尾州中嶋郡甚目寺村甚目寺境内ニ於テ野試合調練也、門前町六丁目西東ノ寺ノ門前ニ寄合同所ヲ朝五ツ半過頃発足九ツ半頃着源平ニ分レ(赤白ノ袖印也、当家ハ白ナリ)、二度試合在リ(二度共赤方勝)、夕七ツ半頃引払(昼支度腰弁当寺ニ於テ)途中ヨリ挑燈ニテ夜五ツ時頃門前町へ帰ル、坪内高国前日名古屋へ出頭(支配下十人余ナリ)、高国馬上陣笠小手脚当陣羽織下ニ稽古着ヲ用ユ、四半ノ幟二間程ノ竹ニ附真先キ立テ行也
 この年(一八八三)の前年明治一五年(一八八二)三月、「改正集会条例」による条例違反のかどで、岐阜支社は解散を命ぜられ、廃止となっだが、活動は続けて行っている〉(762頁)

坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
 〈愛国交親社は、内藤魯一の指導下にあった自由民権結社の愛知県交親社から荒川定英の発起で「尾張組」が離脱して、創立されたのである。明治一三年(一八八〇)四月五日で、この日、平島村士族坪内高国も入社して美濃組幹事長となった。
(明治一三年)
 旧二月廿六日(新四月五日)坪内高国尾州愛知郡名古屋愛国交親社ヘ入社ス、交親社美濃組ノ幹事長(本部尾張国交親社、美濃組三河組合併)以上三ケ国也(尾州交親社ノ社長・尾張荒川弥五右衛門定英御一新ノ初年坪内三家ニ取成シ、東山道惣督府ヨリ本領安堵ノ御書付ヲ当国揖斐ニ於テ、家臣岩塚らい輔へ御渡シ被成候御方也、当今一名ニ付荒川定英ト云也、同副社長庄林一正元富永孫太夫忠良家来御一新ニ付士族ト成ル、初名松之助後森之助ト云、当今一名ニ付実名ヲ通称トス、日本国中惣名ヲ愛国社ト云、国ノ為ニ成ス故也、当時日本国中十四万四千余人、旧七月末ニ至テ凡七十五万人ト云、日本国中社名百五、六十社ト云)
 愛国交親社は、尾張国交親社に美濃組・三河組が合併したものであった(『坪内高国日記』)。愛国交親社の本部は、各古屋門前町天寧寺(のち同町大光院)に所在し、毎月一五日に同志のものが集会し、毎月三、八の日に撃剣会を催した。当時の愛国交親社の社長は荒川定英、副社長は庄林一正であった。
 愛国交親社は、人間の本来の義務を尽し、愛国主義を拡充して、国権を挽回することを目標としてかかげた民権政社である。主として尾張藩草莽隊員であった者の主導のもとに、都市細民、農村の貧農が参加している。
 松方正義の緊縮財政と増税政策によって民衆生活の窮乏化がはげしくなった明治一四年(一八八一)から明治一七年(一八八四)において、社員が増加して、明治一三年(一八八〇)一一月に、尾張九郡、美濃一〇郡、三河一郡で推定社員一〇〇〇名、明治一四年(一八八一)一一月、尾張・美濃・三河全で推定社員一万五〇〇〇人、明治一五~一六年(一八八二~一八八三)に、尾張・美濃・三河・飛騨・遠江・信濃・伊勢七か国で同二万八〇〇〇人であったという(博徒と自由民権)。坪内高国は彼の入社のころの社員は、二五〇〇人と記している。
(中略) 続きを読む 坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

坪内高国「勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」─『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』

 『岐南町史』(昭和五十九年)によると、慶應四年二月十日、坪内高国は大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 これらの内容は、『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』(平成6年2月)に収められている高国の文書で裏付けられる。

「坪内高国は勤王の志の厚い人であった」(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)に基づき、明治維新期の坪内高国の動きを整理しておく。
 高国は、慶応四年(明治元・一八六八)二月七日に、尾張藩主へ勤王の証書を差し出した。内容は以下の通り。
 〈一 岩倉殿並御家ヨリ御達相成居候、朝命之趣附遵奉仕、勤王之志興起仕候上は、仮令徳川庶人之指揮有之候共、御家え伺之上ナラテハ、其指揮ニ応シ中間敷事
浮萍之徒動乱ニ乗シ、紳縉家之命、或は御家之藩士ト偽リ、僈集ニ渡リ候所置有之候上、乱妨之次第ニ及候ハゝ、近傍勤王之諸侯ニ援兵ヲ請鎮静方取計可申候事
一 近隣ニ有之候、土着詰合之有司之領地、互ニ申合勤王可仕候事
 右之条々、誓て遵奉可仕候間、為後日証書如件〉
 高国は、二月十日には、大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 高国は、二月二十日には、名古屋城に登城し、尾張前大納言徳川慶勝に目見えて、この上一層勤王いたすよう励まされ、菓子一包(干菓子五品落雁等)、手綱五筋を与えられ、また元席で料理(酒・膳)にあずかり退出している。この御目見の時、第一番目は、加納城主永井肥前守尚服、第二番目は、表交代寄合の旗本兼尾張藩士四千四百石千村は靭負(可児郡久々利村)であり、第三番目が坪内高国であった。
 『岐南町史』は「坪内高国が尾張前大納言徳川慶勝に重要視されていたことがわかる」と記し
、さらに次のように書いている。
 〈明治元年(一八六八)九月十九日、坪内高国は、京都の非蔵人口へ出頭して、行政官より本領(高五百六十七石余)安堵の朱印状を受領し、上士席になった。明治二年(一八六九)十一月三十日、留守官より上士触頭の任命辞令を受領した。千石以下の上士で上士触頭(配下の上士・下士三十一名)となったのは破格の栄与であった。明治三年(一八七〇)四月、顧に依って致任し、美濃国羽栗郡平嶋村陣屋に住居することになった。致仕に際して格別職務に精励したがどで、京都府よりほう詞とともに金百八十両を下賜された。この間、明治二年(一八六九)十二月九日に采地を奉還している。以上のように、坪内高国は勤王の志の厚い人であった。〉(『岐南町史』271、272頁)

坪内高国の生い立ち(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)から、坪内高国の生い立ちに関する記述を引く。
 〈一二代坪内高国 美濃国羽粟郡平嶋村(現岐南町平島)坪内氏(旗本)十二代高国は旗本・新加納坪内氏九代定儀(明和八年五月生天保二年没)の嫡男定静(求馬之助・仲)の三男として、文政七年(一八二四)正月二十一日に、江戸市ヶ谷御門内三番町・新加納坪内氏の江戸屋敷で生まれ、金三郎(後定国・高国)といった。
(中略)
…坪内高国は、天保三年(一八三二)九月、同四年(一八三三)九月に、無役のものが勤める駿府加番を命ぜられた。幼年のため養祖父の定興(寿山・安永七年五月生・天保十一年、没)が後見して勤務を果たしている。
 維新の時、坪内高国の家臣は、譜代家来の用人役二名、抱席の家来七名で、家老職はない。ほかに、小者一名、召仕女三名であった。
 坪内高国は美濃国羽粟郡平嶋村大字本郷小字西崎居住。高六百石の旗本坪内佐左衛門定通の嫡女繁(文政四年十月二十日生・文久元年四月、没)聟養子となり、同年十二月十九日に家督を相続し、文致十二年(一八二九)九月二十七日、中山道を通行して平嶋村坪内家へ到着し、婚礼をすませた。その時教えの六歳であった(繁女八歳)。〉(『岐南町史』269、270頁)

坪内家と愛国交親社①

 『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』(322、323頁)には、自由民権運動と坪内家の関わりを示す資料(少林寺文書の中にある「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」)が引かれている。

〈一 同十三庚申 旧二月廿六日 新四月五日、尾州愛国交親社ニ入社、其後美濃幹事長也、社員凡二千五百人ナリ、同十七甲申 旧二月三日 新二月廿九日 ヨリ本部尾州愛知郡名古屋社長庄林一正自由党ト喧嘩一件ニ付名古屋裁判所ニ呼出シ、後トケイ(徒刑)人ト成ル、又 旧閏五月廿七日 新七月十八日、名古屋警察署ヨリ廃止ニ相成候本社愛国交親社ヨリ 旧閏五月廿九日 新七月廿日 到着、尤即刻出ナリ、美濃国厚見郡加納町六町目[ママ]浄土宗西方寺ニ於テ取締所明治十四辛巳年 旧五月廿五日 新六月廿一日 初会日也、尤三日以前ニ御届済也、毎月届跡ニテ撃剣也、毎月新暦一日十一日ハ撃剣計リ也、是ハ初ニ届置申候テ一々不届也
同年 旧九月卅日 新十二月廿一日 迄ニテ、翌月ヨリ岐阜誓安寺エ転ズ、尤門前ニ大看板立ツ、愛国交親社ト書ス、□五尺五六寸 巾一尺二三寸位ナリ
同年 旧十月廿日 新十二月十五日ヨリ岐阜桜町 稲葉ナリ 壱番地浄土宗西山派誓安寺、俗ニ藤ノ寺ト云、今日ヨリ愛国交親社支店集会ノ始メ也、毎十五日跡ニテ剣術有之、毎月三日前ニ御届、表ニ高張大挑灯[ママ]交親社四半幟立、毎月五日廿五日ハ撃剣計リ、是ハ初ニ一度届置也
同十五壬午年 旧五月廿三日 新七月八日 端書ニテ岐阜警察署ヨリ村戸長ヨリ相違ス 旧五月廿九日付 新七月四日付 来ル六日午前第八時出頭之趣キ也、高国三州留守ニ付、帰邑後 旧五月廿三日 新七月八日 岐阜稲葉入口、北門警察署ニ出頭、柴田正直ニ面会、今般集会条例改正追加布告ニ付、条例ニ触ル廉往々有之候間、岐阜支社ノ儀、今明両日ノ中ニ解散取払可申上旨御受申上候也、前顕交親社之廃止ハ明治十七甲申年 旧閏五月廿日 新七月十二日 美濃組社中監督伊藤初治郎、東美濃ニ於テ暴動ノ叛デ在風聞、依テ新加納村交番所エ届、翌日名古屋エモ届ル、本社附東ミノニ魁首有之由右ニ付廃止ナリ、届ク捕縛ニ成ル、未ダ暴動ニハ不相成、併押カリ等アル由是本社ニ背キタル也〉