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「人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず」─荒川定英についての『名古屋市史 人物編 第一』の記述

 昭和9年に刊行された『名古屋市史 人物編 第一』(川瀬書店)は、「名門」「侯族」「執政」「勤王」「僚吏」「武勇」「忠烈」などに分類して、功績のあった人物について簡潔にまとめている。
「勤王」には、田宮如雲など32人の人物を収録している。その中に、荒川定英も収められている。
「荒川定英、旧称に弥五衛(初め弥五右衛門、又、昇)羊山と号す。尾藩大番の士坪内繁三郎の弟にして、弥五八と称せり。安政三年、荒川氏を継ぎ大砲役並となる。後使番並・東方総管参謀・岐阜奉行等に歴任し、足高を合せて廩米二百五十俵を給はる。明治二年七月、監察となり、尋いで名古屋藩権少参事に任じ、民政権判事・市政商政懸りとなる。三年、藩庁懸りとなり、翌年、聴訟断獄・市井商政科を掌り、廃藩置県に至りて罷む。
定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり。然れども素不学なるを以て、維新の際、他藩の士と応接するに、貴藩といふべきを御弊藩といひ、当時藩中に笑話を遺せり。明治十一、二年の交、盛に民権自由の説を鼓吹し、後国会開設の請願に奔走し、愛国交親壮を起して庄林一正と共に之が牛耳を執れり。少より俳諧を嗜みしを以て、後黒田甫の門に入り、耳洗、軒羊山と号し、晩年世事を謝して専ら風月を友とす。明治三十九年一月九日歿す。享年七十八。常瑞寺に葬る」

坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
 〈愛国交親社は、内藤魯一の指導下にあった自由民権結社の愛知県交親社から荒川定英の発起で「尾張組」が離脱して、創立されたのである。明治一三年(一八八〇)四月五日で、この日、平島村士族坪内高国も入社して美濃組幹事長となった。
(明治一三年)
 旧二月廿六日(新四月五日)坪内高国尾州愛知郡名古屋愛国交親社ヘ入社ス、交親社美濃組ノ幹事長(本部尾張国交親社、美濃組三河組合併)以上三ケ国也(尾州交親社ノ社長・尾張荒川弥五右衛門定英御一新ノ初年坪内三家ニ取成シ、東山道惣督府ヨリ本領安堵ノ御書付ヲ当国揖斐ニ於テ、家臣岩塚らい輔へ御渡シ被成候御方也、当今一名ニ付荒川定英ト云也、同副社長庄林一正元富永孫太夫忠良家来御一新ニ付士族ト成ル、初名松之助後森之助ト云、当今一名ニ付実名ヲ通称トス、日本国中惣名ヲ愛国社ト云、国ノ為ニ成ス故也、当時日本国中十四万四千余人、旧七月末ニ至テ凡七十五万人ト云、日本国中社名百五、六十社ト云)
 愛国交親社は、尾張国交親社に美濃組・三河組が合併したものであった(『坪内高国日記』)。愛国交親社の本部は、各古屋門前町天寧寺(のち同町大光院)に所在し、毎月一五日に同志のものが集会し、毎月三、八の日に撃剣会を催した。当時の愛国交親社の社長は荒川定英、副社長は庄林一正であった。
 愛国交親社は、人間の本来の義務を尽し、愛国主義を拡充して、国権を挽回することを目標としてかかげた民権政社である。主として尾張藩草莽隊員であった者の主導のもとに、都市細民、農村の貧農が参加している。
 松方正義の緊縮財政と増税政策によって民衆生活の窮乏化がはげしくなった明治一四年(一八八一)から明治一七年(一八八四)において、社員が増加して、明治一三年(一八八〇)一一月に、尾張九郡、美濃一〇郡、三河一郡で推定社員一〇〇〇名、明治一四年(一八八一)一一月、尾張・美濃・三河全で推定社員一万五〇〇〇人、明治一五~一六年(一八八二~一八八三)に、尾張・美濃・三河・飛騨・遠江・信濃・伊勢七か国で同二万八〇〇〇人であったという(博徒と自由民権)。坪内高国は彼の入社のころの社員は、二五〇〇人と記している。
(中略) 続きを読む 坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

愛国交親社の設立経緯─庄林一正と興行撃剣グループ

以下、長谷川昇氏の『博徒と自由民権』に基づき、愛国交親社の動向を整理しておく。
 明治十二年三月、内藤魯一が中心となって、三河国碧海郡上重原村に「三河交親社」が結成された。内藤は、明治十三年三月に予定されている国会開設請願運動の母胎となるべく、愛知県有志の一本化を進めた。そのとき、内藤が頼りにしたのが庄林一正であった。内藤は庄林を仲介として興行撃剣組織に働きかけた。
 そして、明治十二年十一月十三日に名古屋大須の七ツ寺に有志を結集し、会談を開いた。集まったのは、庄林一正、荒川定英、近藤義九郎、西山蔵造、真貝虎雄、浜島重軌、太田当道、山内徳三郎、山田三平、浅井幸助ら十七名である。彼らは、興行撃剣の主導的メンバーであった。
 この会談の結果定められたのが、『御宸翰御誓文ニ基ク決議十七条」である。長谷川氏によると、決議の前文には、尾張・三河の有志が「結合親睦シテ文武会ヲ設クル」ことを決め、その主旨として「文武ハ車ノ両輪ニシテ国家ニ一日モ欠クベカラザル要具」であるのに、維新以来「人民武ヲ棄テテ之ヲ問ハザルニ至」ったのは「実ニ長大息ノ極ミ」である。だから「先ヅ第一着ニ武術ヲ開キ」それによって「愛国ノ主義」に達しなければならない。そして社員中に非常ノ災害ニ罹ったり「病死等ニテ家族ヲ養食スルニ術ナキ者」は社中で救助する、という主旨のものだった。
 武術の保存・振興による国力の伸張と武術家の相互扶助が目的として強調されているということである。
 この七ツ寺会議メンバーと「三河交親社」とを合体させて、「愛知県交親社」を作り、明治十三年三月の愛国社第四回大会に参加することになった。
 内藤家に保存されている「愛知県交親社(尾張組)人名簿」には百八名の人名が記載されている。長谷川は、以下のように指摘している。
 〈一、この一〇八名のなかには、明らかに興行撃剣に参加していたと思われる者が少なくとも七〇名はいる(私の手もとにある八枚の「興行撃剣番付」から拾い出すことができるものだけで)。
 二、この一〇八名のなかには、草莽隊出身者が約二〇名いる(もっとも多いのが磅礴隊の一〇名、ついで集義隊の五名、帰順正気隊の三名)。
 三、『壬申戸籍』で明治十二年現在の職業の判明する者三五名の内訳は、工(鼻緒職・指物職・桶職・綿打職など)一七名。商(菓子・焚味噌・煮売など)六名。雑業(人力挽・日雇渡世など)一二名。
 以上を総合してみれば、「愛知県交親社尾張組」は興行撃剣をその組織の末端にいたるまですっぽりと抱えこんだものと考えてよいと思われる。
 この「尾張組」 一〇八名のなかに、のちに名古屋事件の累連者になる者が七名いる。
 A、磅礴隊から興行撃剣に参加した山内徳三郎・安藤浅吉・鬼島貫一の三名。
 B、興行撃剣参加の都市細民層である鈴木松五郎・山内藤一郎・寺西住之助・加藤米三郎の四名。
 この七名は、興行撃剣を通じて庄林一正直系の輩下となり、その思想的影響下にあった分子と思われる〉

愛国交親社社則(抜粋)

 第一条 本社会議ハ政談、経済、文武、教育等ノ事ヲ討議シ精神ヲ研磨シ知識ヲ交換シ国家ノ利益ヲ計ルヘシ 但シ会議ノ期日ハ毎月十五日午後一時ニ始メ五時ニ終ル
 第九条 第一条政談経済文武教育等ノ題目ヲ設ケ演説シ又ハ新聞雑誌及ヒ古籍ノ講談ヲナスモノハ会席ノ上面ニ正立シ朗声ニ弁説スヘシ
 第十条 前条ノ場合ニ於テ会員ハ其論議又ハ講談ノ了解シ難キ処ハ丁寧ニ之ヲ質疑シ自己ノ意見ト差異スル事アラバ其ノ論説ヲ弁駁スヘシ
 第十一条 社中ノ議決ニヨリ実施アラン事糞望スル事項ニ限り成規ヲ履ミ其筋へ建言スル事アルヘシ
 第十二条 討論会ハ社外ノ者ト雖トモ集会条例ニ抵触セサル者ハ傍聴ヲ許ス、但シ、都合ニヨリ社長ヨリ之ヲ禁スル事アルヘシ

愛国交親社創立趣意書

 「夫レ人ノ世ニ在テ絶ツ能ハサル者ハ交際ナリ、欠クヘカラサル者ハ親愛ナリ、蓋交際親愛ハ人間ノ本性ニ出テ斉家治国ノ根柢ナリ、苟モ一家ニシテ父子夫婦兄弟ノ順序ヲ失ヒ相和セサル時ハ一日モ其幸福ヲ保ツヘカラス、一国亦然リ然則交際親愛ハ斉家治国ノ根柢ニシテ確然動スヘカラサルノ天制也、是ヲ以我明治天皇大統ヲ紹セ玉フ初ニ於テ御宸翰御誓文アリ、宣シク上下心ヲ一ニシ相互ニ盛ニ経綸交際親愛シ苦楽相倶ニ緩急相救ヒ以テ全国一致ノ体裁ヲナスヘシトアリ、然ルニ今日ノ勢ヒ大ニ慨歎已ム能ハサルナリ、今夫外ニシテハ欧米各国ヨリ圧倒ノ勢ヲ受ケ、対等ノ交際ヲナスコト能ハス、国権大ニ殺奪セラル、是真正ノ独立国ト称スヘケンヤ、内ニシテハ自治自衛ノ精神ニ乏シク、各人其方向ヲ異ニシ、支離分裂唯利惟走リ自国ヲ以他国視ナシ、毫モ痛悩感覚ナキカ如シ、国勢斯ノ如クニシテ独立ヲ維持シ同権ヲ皇張シ海外諸邦ト拮抗セントス、是猶木ニ縁テ魚ヲ求ムルカ如シ、如此ハ我明治天皇ノ御誓文モ画餅ニ属シ立憲政体ノ勅詔モ遂ニ施スヘキノ地ナキニ至ントス、豈悲マサルヘケナヤ、是ヲ以テ今回有志協議本社ヲ創立シテ『愛国交親社』ト称シ交際ノ道ヲ開キ親愛ノ情ヲ厚シ信義ヲ重シ廉恥ヲ崇ヒ意見ヲ交換シ志操ヲ粋励シ勉強耐忍永ク其交誼ヲ失セス『人間本分ノ義務ヲ尽シ愛国ノ主義ヲ拡充シ終ニ以テ我明治天皇ノ叡旨ニ答へ我帝国ノ元気ヲ振作シ欧米強国ト対峙シ国権ヲ挽回スルノ外他志アラサルナリ、夫苟モ我国ニ生シ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食ヲ食スル者ニシテ誰カ斯志ヲ同フセル者アランヤ、誠ニ斯志ヲ同フセハ相共ニ結合シ以テ此旨義ヲ達セサルヘカラス、今其旨義ヲ達センカ為メ此ノ社ヲ創立スト云爾尓』」

杉田定一と愛国交親社②

 家近良樹・飯塚一幸編『杉田定一関係文書史料集 第2巻』(大阪経済大学日本経済史研究所発行、平成25年)には、杉田定一と愛国交親社との関係を示す資料が収録されている。内藤魯一が杉田定一及び村枩才吉宛てに送った書簡「北陸七州有志懇親会欠席及び庄林一正・村松愛蔵へ出席」(明治16年2月5日)である。

 〈北陸懇親会ノ義ニ付御照会ノ趣ハ社会ノ為メ慶賀ノ至ニ候、然ルニ小生事ハ盟兄御承知ノ通り上京ノ都合ニも相成リ、殊ニ二月下旬三月上旬迄ニハ高知ゟ島地正存来訪ノ筈ニ有之、過日来態々中来候趣も有之、又且ツ三月上旬ニハ我地方ノ党員ハ岡崎ニ会シ候手筈ニ客年十一月中予テ申合有之、旁遺憾ナカラ此段御承知被下度、但シ庄林ハ是非ニ相拝候様申入置候、且ツ外ニ村枩愛蔵氏ニハ多分出席仕リ度旨拙者迄申越居候間、尚相勧可申候、実ハ過日当懇親会ニも遠路之気嫌も無ク御出会被下候、交義上ニ於テモ是非出会可仕筈ナレ共、如何セン前陳ノ通リニテ生義ハ繰合都合相兼候、御推察ヲ乞、尚御来会諸君ニ可然御通声是祈ル

追白、天下ノ事ハ只タニ表面上ノミノ働ニテハ遂ニ目的ヲ達ス可カラザル事ハ歴史ノ裁判ニ於テ明カナリ、故ニ以来ハ別テ御注意、神出鬼没兎角○○ノ意外ニ出テ秘々密々御計画アレ、嗚呼御互ノ任も亦大ナルカナ、書意ヲ尽サス否ナ尽サヽルニアラス、尽スコト能ハサレハ也〉

愛国交親社と杉田定一

 愛国交親社は、杉田定一とも関係を有していた。飯塚一幸氏は「自由党成立後の杉田定一」において、次のように書いている。
 〈杉田と林包明はすでに(明治一五年)一〇月中には東京を出ており、一一月二日か三日には四日市から汽船に投じて三河国碧海郡上重原村の内藤魯一の許へと向かっていたのである。内藤は杉田・林よりも早く帰郷しており、その後の東京の模様について杉田・林より詳しく聞き取り打合せを行ったものと推察される。この路程で杉田は尾張の庄林一正にも会談した。杉田は、庄林が中心となって急激に農民の組織化に成功しつつあった愛国交親社に強い関心を抱き、同社社則の提供を依頼した。明治一五年七月、愛国交親社は指導組織の改編を行い、郡ごとに幹事長・副幹事長各一名の他、書記・出納係・剣術取締・機械係などを任命し、その下部組織として社員五〇名ごとに「組」を編成して幹事・同補助を置き、さらにその下部に末端組織として社員一〇名ごとに「伍」を編成して伍長を任命した。庄林は、恐らくこの際の改正社則を、杉田の依頼に応じて一一月二七日付の書簡に同封して送っている。残念ながら杉田定一関係文書中には社則は見当からないが、同年九月の「愛国交親社行列之図」が残されている。杉田は、南越自由党の発展を策すに当たり、愛国交親社の経験を何らかの形で生かそうと考えたのではないか。また、杉田と内藤魯一・庄林一正との接触は、板垣洋行問題後の自由党の会議において話題となった、愛知県での実力行使と関連性があるのかも知れない」

玄洋社路線を主導した庄林一正

 愛国交親社には、当初から玄洋社路線に接近する思想的萌芽があった。それを主導していたのが、庄林一正である。
 長谷川昇氏は「変革期における庶民エネルギーの源泉─博徒─草莽隊─『愛国交親社』の系譜に探る─」(『思想』1979年9月号)において、『岐阜日日新聞』の記事に基づいて、愛国交親社の性格を次のように整理する。
 〈一、この組織は、その「社則」に定められている如く「政談演舌会」や「其の筋への建言」を目的とする明らかな「政治結社」であった。
 二、しかし、この組織は実際には「政談演舌会」などを通じて理論的に庶民を組織化してゆくのではなくて「社則」にも定められていない〝撃剣指導〟を通じて村毎に道場を設けることによって驚異的な組織率(例えば東春日井郡の村々では金戸数の六〇─七〇%の参加数を示す)をあげていく。
 三、この組織は、「大野仕合」・「撃剣大会」・「社長の上京送迎」などの際に大規模(数千人に及ぶ)な大衆動員を行い、社号の入った高張提灯を先頭に一種の示戚行進のようなことを挙行する。
 四、この組織は、社長直属の本部幹部の他に、各郡毎に郡幹事長・副幹事長及び剣術取締・同補助・機械係などを置き、更に各村毎に幹事(百人頭)・幹事補(五〇人頭)及び剣術取締・機械係などを任命し、末端組織は一〇名毎に伍に組織されて伍長(一〇人頭)を置くという、「講」もしくは「細胞」に類する様な組織に編成されている。そして役職に任ぜられた者にはその末端に至るまで、大げさな「辞令」が発行されている。
 五、この組織に民衆を加盟させるための「組織者」(これは、本部直属の者、又は郡幹事長に付属する者で弁の達者な者が当てられた)は、次の様な言葉を並べて農民を説得して歩いた。そしてこの「組織者」の説く処が、とりもなおさず「愛国交親社」の主義・主張を表示するものとなっている。新聞の報ずるところによればそれは次の様なものである(いずれも「岐阜日日新聞」より引用)。
 a、「我社に加入する者は何人に限らず其筋より二人扶持の俸米を宛はれ、尚腕力ある者には帯刀を許さるべし」
 b、「明治二十三年に至らば、我政府は国会を開設せられ、社会の財産は一般人民の頭数に平等に分賦せらるれば、此の時に及びては愛国交親社員たるもの苗字帯刀御免となり加ふるに八石二人口を賜る」
 c、「本社に入れば徴兵を免ぜられ、……但しは士族に取立てられる」
 d、「我政府は明治二十三年後は必ず外国と戦争を開く事あるべし、故に我々は今日よりあらかじめ戦争の準備をなさゞる可らすぜとて頻りに撃剣をなし、……又此程発布になりし商標条例は……如何にも苛酷の収歛なれば……我々愛国交親社たるものは必ず……此条例を廃止する様嘆願する〉

 長谷川氏が注目するのは、内藤魯一と庄林一正の路線の違いである。長谷川氏は「愛国交親社創立趣意書」が内藤魯一を領袖とする「三河交親社」の趣意書と末尾の数行を除いて同文のものだと指摘した上で、次のように書いている。
 〈筆者の内藤が民権政社たる性格を方向づけるために最も力を込めて書いたと思われる「開明文化ノ実ヲ挙ゲ……人民所有ノ権理(利)ヲ伸張シ、一身一家ノ幸福ヲ保チ」という一節を、庄林一正は自らの筆で故意に抹殺して、「欧米強国ト対峙シ、国権ヲ挽回スルノ外他志アラザルナリ、夫レ苟モ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食を食スル者ニシテ誰カ斯ノ志ヲ同クセザル者アランヤ」と書き換えている。これは明らかに〝西欧型自由・平等思想〟への抵抗の姿勢を示している。庄林はのちに「愛親社」(明治二十一年に結成された「愛国交親社」の後身)を率いて、頭山満の「玄洋社」・遠藤秀景の「盈進社」と共に対外硬の路線を明確にしてゆく。その右傾化の道を辿る原点はすでに「愛国交親社」の中に用意されていたのである〉