井尻千男氏は、『歴史にとって美とはなにか 宿命に殉じた者たち』において、醍醐天皇の土地政策について以下のように書いている。
〈醍醐帝の勅によって誕生した『古今和歌集』について語る前に、醍醐帝の土地政策について語らねばならない。なぜならば、日本史における土地政策の原型とも言うべきものが、この帝によってつくられたと思えるからである。それは延喜二年(九〇二)に出された「荘園整理令・勅旨開田および荒田・山野占有禁止令」と言われるものである。
土地所有に関する再検討は、わが国史において何度か行われているが、それはみな天皇の名によってこそ可能だったことであり、それこそが「天皇親政」の一大事業だったと言える。
醍醐帝は、その一大事業を即位して六年目に実行された。勅撰和歌集編纂とともに特筆大書されるべきことである。天皇陛下の「御製」というものが特別の意味を持つことと並んで、土地なかんずく農地に関する詔勅は、「大御宝」たる国民との太い絆だったと言える。つまり「大御心」と「大御宝」の信頼関係の再構築にほかならず、その意味において土地政策は「天皇親政」という政治形態の核心に位置づけなければならない。そしてこの「大御心」と「大御宝」の信頼関係は、わが国史において一貫して流れているものである。例えば時代がくだって明治維新の時の「版籍奉還」(明治二年)も錦の御旗あってのことであり、大東亜戦争後の被占領期における「農地解放」も、天皇陛下のご存続あってのことである。ついでに言えば国史に何度となく記されている「徳政令」も天皇の名のもとに行われてこそ意義があるのであって、その典型的事例が、後醍醐天皇が発した「徳政令」(建武元年、一三三四年)である。そして、この徳政令という形での世直しも、わが国独特のものである。
醍醐帝のこの世直しのための土地政策は、まさに「親政」の大号令と言ってよいだろう。先帝宇多は譲位直後に剃髪して上皇(法皇)になられておられるから、その土地政策にどこまで関与しているかは不明であるが、自ら抱いた「親政の夢」がここで大きく花ひらいたと、よろこばれたことは疑いようがない。そして後代の我々としては、宇多・醍醐両帝の理想主義の連続性におどろかされるのである。
その土地政策すなわち「延喜の荘園整理令」の骨子は次のようなものである。
①当代以降の勅旨田設置の全面禁止。すなわち皇室の私有地を増やしてはならない。
②諸国百姓の田地、舎宅の寄進および売与を禁止。つまり百姓からの寄進も受けてはいけない。
③院宮王臣家が閑地・山野などを占有することを禁止。閑地とは耕さずに荒れはてた農地のことだが、それすらも占有してはならないというのである。
④院宮王臣家が、百姓の私宅を荘家と号して稲穀を蓄積してはならない。すなわち宮の倉庫に納めるべきものを隠してはならない、ということ。脱税防止策にほかならない。
以上四点が「延喜荘園整理令」の骨子であるが、これを単なる徴税のための改革と見てはいけない。その整理令につづけて、「班田を十二年に一度とする」という令を出していることからして、かつての「班田収授法」(白雉三年・六五二年)の理想に戻ろうとしていると解釈せねばならない。つまり、「大化改新」(六四五)に始まり、大宝律令(七〇一)によってほぼ完成したところの、わが国における理想の土地政策を復元しようとしたのだと見なければならない。
そのように解釈してみると、表面的には土地政策ではあるが、その精神に内在するものは「復古革命」だったのではないか。そう解釈することによって、見えてくるものがある〉(119、120頁)
慶應四年八月二十七日、明治天皇のご即位式が行われ、以下の宣命が発布された。
「現神止大八洲国所知須、天皇我詔旨良万止宣布勅命乎、親王諸臣百官人等、天下公民衆聞食止宣布。掛畏伎平安宮爾、御宇須倭根子天皇我、宜布此天日嗣高座乃業乎、掛畏伎近江乃大津乃宮爾、御宇志、天皇乃初賜比定賜倍留法随爾、仕奉止仰賜比授賜比、恐美受賜倍留御代々々乃御定有可上爾、方今天下乃大政古爾復志賜比弖、橿原乃宮爾御宇志、天皇御創業乃古爾基伎、大御世袁弥益々爾、吉伎御代止固成賜波牟、其大御位爾即世賜比弖、進毛退毛不知爾恐美坐佐久止宣布大命乎、衆聞食止宣布。……」☞[全文]
権藤成卿は『君民共治論』において、この宣命について、次のように書いている。
〈由来藤原氏の外戚摂関独制の時代より、幕府政治の武力専権時代の其間に於ても、全く善政なしとも限らないが、そのいづれも政理の基礎たる公同の大典を没却し、徒らに貴賤上下の差隔を設け来りしものが、王政復古の御大業に依り、こゝに君民共治を以て、新制創定の標準を樹て、大廓清の端緒を開かせらるゝことゝとなつた。彼の有名なる国典学者の福羽美静翁などは、当時の機務に参画せられたのであるが、翁と予が先人(名は直、松門と号す)とは、特別の交際ありし為め、是の宣命が近江朝廷即ち
天智天皇の御遺謨に法らせ給ひ、而もその御聖旨が橿原朝廷御創開の御制謨に一貫し、我日本國體の基礎、確かに是に在りと云ふのであつたことを、一と通り聞かされて居る訳である。
本と彼の大化廓清の御大業は、上 皇権の微淪を更張され、下万民の愁苦を払除され、肇国の御制謨に遵由して、公同共治の政理を宣昭させられたるものにして、其後鴻烈御偉業が、中宗皇帝の尊称を上れる訳である。併しながら、後世の学者、往々にして其厳正高明なる典範の紹続を推究することを忘れ、妄りに利害上より私説を立て、却て國體を曲解するは、実に不謹慎の至りである。
御即位式宣命文の前段に於て、明らかに近江朝制遵由の叡旨が掲げられて居る〉
保守の会の会報『保守』第5号(平成29年6月)に拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」を掲載していただいた。冒頭で、明治維新の本義をなぜ語らないのかという問題提起をした。
〈明治維新百年を控えた昭和四十一年三月、佐藤栄作内閣の橋本登美三郎官房長官は、次のように語った。
「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」
これに対して、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は同月、佐藤首相に質問主意書を提出、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺した。一方、大日本生産党も「明治維新百年祭問題」において、「政府の考え方は〈明治維新百年祭〉ではなく単なる〈明治百年祭〉であって、単なる時間の流れの感慨にしかすぎない」と批判した。
昭和三十六年十二月に大東塾の影山正治塾長が「明治維新百年祭のために」を発表して以来、愛国陣営は明治維新の意義について活発な議論を展開していたのである。例えば、安倍源基氏は「明治維新の意義と精神を顕揚して、衰退せる民族的自覚、愛国心の喚起高揚を図る有力なる契機としなければならない」と説いていた。また、昭和維新運動に挺身した福島佐太郎氏は「明治維新を貫く精神は建武の中興、大化の改新と、さらに肇国の古に帰るという王政復古の大精神であった」「われわれは懐古としての明治維新でなく、維新が如何なる精神で行なわれたかを三思し、現代日本の恥ずべき状態に反省を加え、もって未来への方向を誤らしめてはならぬ」と主張していた。それから五十年。明治維新百五十年を来年に控えた我々は、改めてこれらの意見に耳を傾けるべきではないのか。
ところが、またしても政府は「明治維新」ではなく「明治」という捉え方をし、明治維新の意義を顧みようとしない。政府は昨年十一月に「明治百五十年」関連施策各府省庁連絡会議を設置し、わずか二カ月間の議論を経て施策の方向性を決めてしまった。政府は、明治という時代を、欧米に倣った近代化成功の時代としてのみ理解し、「明治期の若者や女性、外国人などの活躍を改めて評価する」方針を示した。筆者は、ここにわが国の保守派の歪みが集約されていると感じる。
明治維新の最大の意義は、幕府政治に終止符を打ち、わが国本来の姿に回帰したことにある。わが国本来の姿とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治である。天照大神が瓊瓊杵尊に下した天壌無窮の神勅にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾皇孫、就きて治せ」こそ、民情を詳らかに認識して、仁愛をもって治めるわが国統治の真髄が示されている。〉
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件の背後の思想として西鄕南州、北一輝、権藤成卿、橘孝三郞、大川周明の思想を取り上げた。
伊福部は、権藤成卿の君民共治論について、次のように書いている。
〈彼は君民共治の主張者である。君民共治より他にわが国のあるべき政体はないといふのが彼の絶叫してゐるところである。(中略)これこそが日本の國體であり、しかも誇るべき國體であるといふのが、彼のいつわらざる心情である〉
そして伊福部は、権藤の『君民共治論』の大要を次のように整理する。
〈抑もわが建国の際に於ける神武天皇の鳥見山の御誓誥をはじめとし、崇神天皇の天社国社の御分祀、成務天皇の自治の御立制、雄略天皇の御遺詔、大化改新の御詔勅、更に近くは慶応四年八月に於ける明治天皇即位の大礼の際の御宣命等の中に、これを見出すのであつて、それは常に。これこそほが國體であるとして、畏れ多くも天皇御自ら常に仰せられてゐるといふのである。(中略)従つて彼は、この学術的思想的立場より、フアツシズムの如き独制主義を排撃するのみではない。今日の官治主義そのものをも否定するものである〉
伊福部は、このように権藤成卿の『君民共治論』をとらえた上で、「治める」とは何かという本質的問題を問い直し、権藤の考え方を説明する。
〈今日政治とは、普通支配することであり、搾取することであると考へてゐる。殊にマルキシズムの流行以来、斯くの如き考へ方は一般的に瀰漫してゐる。
しかし政治を斯くの如く考へることは甚だ間違つてゐる。すくなくとも権藤思想に於ける政治とは、凡そ斯くの如きものではない。
政治とは如何なるものであらうか。彼はいふ。政治とは社稷を偏頗なく守ることであると。
では社稷とは何であらう。これを簡単に云へば、社とは土であり、稷とは食べ物である。土と食物、これは国民衣食住の大源である。又国民道徳の大源である。更に国民漸化の大源である。国家建立の大源である。基礎である。
従つてこの社稷に対しては、如何なるものもこれを私することは出来ない。これを誰人も私せず、公のものとして、すべての人々に享受せしめる、この仕事こそが政治である。
神武天皇の御東征の精神、天智天皇の蘇我氏誅伐の御精神など、この社稷を私せんとするものへの懲罰であることを考ふる時、わが国政治の本質の如何なるものであるかゞ明瞭になるであらう。
しかして斯くの如き政治を見て来る時、それが政治である限り、君民共治以外にあるべからざることが明らかであらう。蓋し、この社稷はわが皇家の自ら任務とされたところであると云へ、しかもそれに安んじて無関心になることなく、国民自らが自らを戒飭して聖旨にもとらぬやうに努むべきことは、正しき国民の義務であらうではないか〉
権藤成卿は『自治民政理』(昭和11年)で、南淵書について次のように書いている。
〈予は先づ此に大化新政の本源を探求し、南淵先生のことを略叙し、古今を一貫せる偉人の一班を、窺看することゝしよう。
南淵先生のことは、正史の表面には、中大兄皇子、中臣鎌足を従へさせられ、南淵先生の所に至り、周孔の教を学ばんと請はせられた一節が見えて居る丈けである。併し後世学者間に於て、古文献を渉猟せし林道春、貝原益軒等の時代に至り、先生を王仁の次に置く様になつた。人名辞書に、推古朝隋に遊び、経術を以て称せられ、書百余巻を著はせリ、其書今伝はらずとあるは、道春の考索を採録したものであらう。意ふに近江朝倒覆の後、当時の事蹟が頻りに抹殺されたことは、疑ふべくもないことであつて、天智天皇の御遺著百巻余、東寺に其目録を留めてある計りで、一冊も伝はつて居らぬ。南淵先生の事歴及びその遺著の焚滅に帰したのも、此の時代に於ける、心なき官僚のなしたことゝ考へらるゝ。
但だ幸にも南淵書二巻が、制度家の秘籍として大中臣家に伝へられ、元禄中同家の家難に依り、庶長子の友安と云ふ人が、筑後の蓮台僧正の下に隠れ、帰雲翁と称し制度律令の学問を権藤宕山に伝へ、南淵書を授与したものである。
(中略) 続きを読む 権藤宕山(栄政)と『南淵書』 →
昭和維新のイデオローグ権藤成卿は「制度学者」と称された。筆者は、その学問がいかなるものであったかを考察する上で重要な視点が、権藤の思想と崎門学の関係ではないかという仮説を立てており、権藤と崎門学の関係について「昭和維新に引き継がれた大弐の運動」(『月刊日本』平成25年10月号)で論じたことがある。
「制度学者」としての権藤の思想の継承者として注目すべきが、長野朗である。長野について、昭和維新運動に挺身された片岡駿先生が次のような記事を書き残されている。
〈制度学者としての長野氏は南渕学説の祖述者として知られる権藤成卿氏の門下であり、而も思想的には恐らく最も忠実な後継者であるが、然し決して単なる亜流ではなく、ある意味において先師の域を超えてゐる、特に例へば権藤学説に所謂『社稷体統』をいかして現代に実現するかといふ具体的経綸や体制変革の方法論について、権藤氏自身は殆ど何一つ教へることが無かつたが、長野氏は常に必ずそれを明示して来た。権藤成卿を中心とする自治学会に自治運動が起らず、長野朗氏の自治学会が郷村自治運動の中核となり得た理由も茲に在つた。郷村運動の中心的指導者だつた長野氏は亡くなられたが、故人が世に遺したこの『自治論』が世に広まれば、民衆自治の運動は必ず拡大するに違ひないと私は信ずる。
○民衆自治の風習は神武以来不文の法であつたが、その乱れを正して道統を回復し、且つそれを制度化して「社稷の体統」たらしめたものが大化改新でありそれを契機とする律令国家だつた。所謂律令制国家は大化改新の理想をそのまま実現したものではないが、而もこのやうな国家体制の樹立によつて、一君万民の国民的自覚が高められて行つたことは疑ひ得ない。その律令制国家体系も軈て「中央」の堕落と紊乱を原因として崩壊の過程を辿り、遂に政権は武門の手に握られることになつたが、然し、そのやうな政治的・社会的混乱の中においても、大化改新において制定された土地公有の原則と、村落共同体における自治・自衛の権は(一部の例外を除いて)大方維持せられ、幕末に至るまで存続した。而も此間自治共同体は次第に増殖し、幕末・維新の時点では実に二十万体に近い自治町村と、それを守る神社が存在したのである。大化以来千二百年の間に幾度が出現した国家・国体の危機を救ふた最大の力の源泉も、このやうな社稷の体統にあつたことを見逃してはならぬ。この観点から見るとき、資本主義制度の全面的直訳的移入によつて土地の私有と兼併を認め、中央集権的官僚制度の強化のために民衆自治の伝統を破壊して、社稷の体統を衰亡せしめた藩閥政治の罪は甚大である。 続きを読む 長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」 →
文麿に引き継がれた興亜思想
「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 続きを読む 近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志 →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート