文麿に引き継がれた興亜思想
「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。
篤麿が死去すると、彼に献金してきた者たちは、借用証書を盾にして残された家族に対して執拗に借金の返済を迫るようになったのである。後に秀麿は次のように回想している。
「それを見兼ねて借金取り撃退役を買って出たのが生前交遊のあつた支那浪人たちで、頭山満、内田良平などもその中に居た。何の事だかは勿論分らなかつたが、この連中が借金取り達に玄関払ひを喰はすところを何度も目撃した」
若き日の秀麿は、頭山ら豪傑連中に「おい、ここへお出で」と呼ばれ、彼らに抱かれて酒を呑まされたりしたとも振り返っている(近衛秀麿「兄・文麿の死の蔭に」『文藝春秋』昭和二十七年三月号、七十五頁)。頭山は文麿と秀麿に父親代わりの愛情を注いでいたのである。篤麿の興亜思想が文麿に引き継がれたことを、頭山は特別な感慨を持って眺めていたに違いない。
翻るフランス国旗に駆り立てられた危機感
文麿自身、『清談録』(昭和十二年)で次のように父篤麿について語っていた。
「父が洋行した明治十八年頃は、極端な欧米心酔時代が過ぎて稍々反動期に入っていた。……丁度そういう時期に父は洋行したのだから、始終東洋を建設するという考えが、外国留学中も父の頭の中にあったのだろう。そこが西園寺公などと違うところであった。しかし父の思想は必ずしも侵略主義ではなかった。ヨーロッパの勢力が東洋に段々侵入して来ることに対して、日本は支那の保全をしやうという。例えば大亜細亜主義というような思想がその根底にあった」
篤麿が、明治天皇からヨーロッパ留学を命じられたのは明治十七年九月のことであった。篤麿はその前年から留学を希望していたが、三条実美、岩倉具視らが頑強に反対して実現しなかった。篤麿が西園寺のようにヨーロッパの思想にかぶれて帰ってくることを懸念したからである。篤麿はなんとか三条らを説得し、明治十八年四月十九日、横浜で仏船「ボルガ」号に乗船し、オーストリアヘ向けて出発した。台湾海峡通過中の四月二十四日付の日誌には、次のように書かれている。
「……暁前『ピスカドール』(漢名膨潮島)に着きぬ。同島は支那内地と台湾との間にある一島にして平常は碇泊らぬ所なれども、清仏戦争の後なれば負傷人抔を本国に送らん為に仏船は必ず之に寄泊するなりと云ふ。……而して已に仏国旗の所々に翻へるを見る。已に碧眼の占むる所となりしや知る可し。愍れむべき哉。然れども我邦も隣国の地漸次に西人の蚕食する所となる。何ぞ之を対岸の火視して抛却して可ならんや。唇亡歯寒の喩鑑みるべきなり」(『蛍雪余聞』)
この光景こそ、若き日の篤麿を興亜思想に目覚めさせた国際政治の現実であった。また、篤麿は祖父忠煕に宛てた書簡でも、西洋人が東洋人を見下す様子に憤慨していた。篤麿が興亜思想に目覚めた頃、興亜の先覚・荒尾精は、すでに果敢に動き始め、その後、漢口楽善堂(明治十九年)、日清貿易研究所(明治二十三年)を設けた。
篤麿は、文久三(一八六三)年六月二十六日、左大臣・近衛忠房と島津斉彬娘・貞姫の長男として京都に生まれた。近衛家は、大化の改新を推進した藤原鎌足の嫡流で、五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)筆頭という天皇家に最も近い家柄であった。代々の当主は、勤皇の志篤く、特に篤麿の祖父忠煕は孝明天皇と君臣水魚の関係にあり、勤皇公家として幕末志士の尊敬を集めていた。
明治六年七月には父忠房が三十五歳の若さで死去、九月篤麿は家督を相続する。父を失った篤麿にとって、祖父は父親のような存在であったという。
この頃、篤麿が岩垣月洲から指導を受けていたことが注目される。杉浦重剛、岩崎行親の師でもあった月洲には、アジアを侵略するイギリスに対して、日本が立ち上がり、イギリス討伐遠征軍を派遣するという筋書きの、SF風小説『西征快心篇』がある。山本茂樹氏は、この架空小説には、後の篤麿の興亜主義を髣髴とさせるものがあるとし、「第一に経済重視、第二に実学的思考、第三に単純に正義感を拠り所とするアジア主義、第四に冷徹な国際関係とその中での多角的な外交の重視、第五に国防の重要性」を月洲から学び取ったのではないか」と指摘する(山本茂樹『近衛篤麿―その明治国家観とアジア観』ミネルヴァ書房、平成十三年、十九頁)。
明治十年に東京に移転した篤麿は、ヨーロッパの学問にも関心を寄せ、英語の勉強にも力を入れた。明治十二年、大学予備門に入学したが、病気のため退学、その後は独学に励んだ。そして、彼は明治十八年にヨーロッパに留学、ボン大学やライプツィヒ大学で学んだ。明治二十三年に帰国すると、貴族院議員となり、その後貴族院議長(明治二十五年)、東京市参事会員(同)、北海道協会会頭(明治二十六年)などの職務に就いている。
彼は、わが国社会の道義的退廃を深く歎いていた。西洋文明の流入によるモラルの低下という危機感を抱き、精神的教育によって徳性を回復すべきことを強調していた。
国民全体が理想と経綸を忘却し、ただ功利主義的な生き方に傾いていくことに歯止めをかけなければならないと痛感していた。だからこそ、国民の模範たるべき華族の退廃を彼は放置できなかった。彼は、「皇室の藩屏」としての自らの使命を強く自覚して行動した。「皇室の藩屏」とは、華族として、上は天皇の偉業を翼賛し、下は国民の良き模範となることにほかならない。
三宅雪嶺は、『支那』の篤麿追悼号(昭和九年二月)で、次のように書いている。
「……世に見掛け倒しといふ事あるも、公は実に立派な身体に立派な精神が宿り、斯うも完全に近い人があるかと想はしめた。大名に悧巧がなく、公卿に馬鹿がないと云ひ、その馬鹿ならぬ公卿の中で、公が特に智を備へたのみで無く、仁と勇とを備へ、国の瞻望たるに充分であつた。……公は階級を以て心を二三にせず、恩寵に押れまいとして自ら戒めたけれど、階級の高いほど義務の重いことを知り、夙夜黽勉、之れを果さうとした。国内の事を大処高処より観、一時の利害に囚はれないと同じく、世界の事を大処高処より観、普通に人の知るに先んじ、進んで手を着ける所があった」
明治二十七年一月、篤麿は「華族論」と題して講演、昨今の華族の腐敗ぶりには目に余るものがあると述べ、「今、華族としての必要条件は、気概であり、品位であり、これを養うことこそ急務といわざるを得ない」と語った。篤麿の華族論は華族界で物議をかもしたが、それに怯むことなく、彼は華族の在り方を厳しく説き続けた。
この間、明治二十八年三月に学習院院長に就いた篤麿は、華族の子弟の教育に力を注いだ。それは、明治天皇が篤麿に与えた使命でもあった。篤麿は、「実は或日 明治大帝が私を御召になり近衛、貴族の教育は……と仰せになった」と書き残しているのである(松波仁一郎「近衛霞山公の高風を追慕す」『支那』昭和九年二月、三十八頁)。
「皇室、国家、国民に対して特殊な責任感を持つ華族こそが外交の任に当たるべきだ」という考えを持っていた篤麿は、外交官養成を視野に入れ、大学科新設の上申書を上奏した。この結果、明治三十一年九月から大学科の授業が開始されている。しかし、篤麿没後の明治三十八年九月二十七日に同科は廃止されている。
一方、貴族院議員として彼は、藩閥政府に阿ることなく、独自の姿勢を貫いた。明治二十三年十一月には貴族院議員としての任務に万全を期すために同志会を結成、翌明治二十四年四月には会派「三曜会」を組織し、「皇室の忠僕たることを忘れず、各自其地位を重んじて、濫りに政府及び社会に阿諛せざるにあり」との姿勢を明確にした(小林和幸『明治立憲政治と貴族院』吉川弘文館、平成十四年、百五十九、百六十頁)。さらに、三曜会衰退後の明治三十一年頃には会派「朝日倶楽部」を結成し、貴族院の、衆議院政党や政府からの自立という路線を堅持した。
荒尾精の魂を引継いだ篤麿
この間、篤麿は明治二十三年に東邦協会に加盟、翌二十四年からは会長副島種臣を助けて副会長に就くなど、興亜陣営の一角を担うようになったが、若き日に目覚めた興亜思想の体現を目指して本格的に動き始めるのは、日清戦争後のことである。
彼は、清国に対する勝利によって、日本人に中国人を侮蔑する感情が芽生えたことに危機感を抱いていたのだ。何より彼をつき動かしたのは、荒尾精が『対清弁妄』で書いた次の言葉であった。
「……皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」
目先の外交ではなく、「皇国の天職」としての東亜百年の長計に取り組もうと奮闘していた荒尾が、明治二十九年十月に「ああ東洋が」と言い残して、志半ばで世を去ったとき、篤麿は自らが興亜運動の先頭に立つ決意を固めたに違いない。そして、荒尾精神によって興亜の志を強めた頭山満は、荒尾亡き後に篤麿が果たす役割に期待を強めたと思われる。後に頭山は次のように回想している。
「公は日本精神を基調とする亜細亜の整頓と保全を以て念とせられ、其の間に何等の無理なき道義を以て起たれたと云うことが、我が民族の前途に一大光明を与へらるゝと共に、人心を引き付けられた所以であつたと思はれるのである」
隣国との相互理解を促進し、興亜の理想を体現するために、篤麿は宗教と教育の力に注目していた。明治三十年六月二十二日には、東本願寺法主大谷光螢・大谷勝尊宛ての書簡で概要次のように書いている。
近年、西洋諸国は東洋に対して頻りに注意を向けるようになっている。今我々が「百年の計」を立てなければ、最終的に挽回することが難しくなるだろう。アジアの先進国であるわが国は、率先して他のアジア諸国を誘導していく必要がある。近年高まっている、わが国に対する清韓両国の悪感情を和らげ、アジア諸国が唇歯輔車の関係を築けるようにする事は、当局者の力だけでは困難であり、宗教と教育の力を借りることが必要だと思う。
篤麿は、『太陽』明治三十一年一月号に「同人種同盟」を載せ、荒尾精神を引き継ぐかのように、日清戦争後の対中蔑視の感情を強く戒め、次のように主張した。
「東洋は東洋の東洋なり。東洋問題を処理する固より東洋人の責務に属す。夫の清国其国勢大に衰へたりと雖も、弊は政治に在りて民族に在らず。直に克く之を啓発利導せば、偕に手を携へて東洋保全の事に従ふ、敢て難しと為さず」
篤麿は、支那分割がいずれ開始されるという危機感に基づき、「大に同人種同盟の策」を講じなければならないと説き、まず支那問題を研究すべきだと書いた。この篤麿の主張に対しては批判もあった。同年二月の『天地人』には、福澤諭吉流の脱亜論の立場から、「同じ人種というだけで永遠に同盟を結び白色人種と戦うというのは非現実的」だとの意見が出された。また、近衛論文は海外でも大きな反響をもたらし、同年四月十二日には、ドイツ留学中の友人中村進午が「人種の同一を根拠に日清同盟を唱えることは、欧米人の感情を害する」と忠告している(『近衛篤麿』九十三頁)。このような反論、忠告も踏まえ、篤麿は人種論を後退させ、西洋文化の長所を吸収しつつ、東洋文化を強化し、日清両国共通の東洋文化を発揚するという考え方へと進んでいった。
明治三十一年五月には自ら運営する「精神社」を「時論社」と変更し、『時論』を発行、いよいよ東亜問題について本格的に論陣を張る体制に入る。首相に就いた大隈重信が、篤麿を法制局長官に迎えようとして、天皇に上申したのは、その直後のことであった。このとき天皇は、次のように語られたと篤麿は日記に書き残している。
「近衛は最高の門地に生まれたるものなり、法制局の如き地位に居らしめ、もし失敗する如きことあらば、本人の恥辱のみならず貴族の体面にも関わるべし。もし此際採用すべきとすれば、外交官として他日外交の要衝にあたるの地歩を造らしむる為、外国に派遣せしめては如との御趣意なり。……余は聖旨のある処を感佩し、将来外交の事に留意致すべし」
この天皇のお言葉は、外交についての篤麿の使命感をさらに掻き立てたに違いない。その直後、篤麿は荒尾に連なる中西正樹、高橋謙、宗方小太郎、田鍋安之助、白岩龍平らを結集して、同文会を旗揚げした。綱領には「一、支那を保全す。一、支那および朝鮮の改善を助成す。一、支那および朝鮮の時事を討究し実行を期す。一、国論を喚起す」と謳われた。
「同文」、「同人種」の表現を用いた篤麿は、「同文同種」を強く意識していた。そうした彼の思想形成において見逃すことができないのが、明治初期の国学者、横山由清の『日本人種論並良賎の別』の影響である。横山の師の一人伊能穎則は、平田篤胤門下で、井上頼圀らとも親交を結んだ国学者である。
横山は、同書で「……天孫に随ひて、共に此土に降臨せる将相吏卒……に至るまで、悉く皆此の土に生れたる人にあらず。……今日本の人種を論ずるには、先旧住の土人と、天神の子孫たる人種と、後に支那三韓より渡来せる人種とを分別せずばあるべからず。試にこれを按ずるに、此の従来の土人は所謂満州人種……にて、其の始満州地方に生ぜる人の其の一分は、西南に進みて支那の東北に移住して太古の三韓土人となり、其の一分は東に進み、南の島嶼を渡り西に巡りて此の土に移住して、太古の日本土人となれるなるべし。……かくて此の天神の子孫及後に渡来せる三韓人支那人は、其の智識の優長なるが為めに、皆君主となり、将相となり、牧宰となり、吏卒となりて、以て土人を統治し」たと書いている(『日本人種論並良賎の別』)。
山本氏は、篤麿は横山の学説を信じたとすれば、「かつては同一の民族であったというかかる意識たるや、岩垣のアジア主義に歴史的正当性を加えつつ、にわかに近衛に中国と韓国国民に対する同胞的感情を与えることになったといえよう」と書いている(『近衛篤麿』三十二頁)。
これより先、明治三十一年春に陸羯南、三宅雪嶺らの政教社系と玄洋社系の志士が中心となって東亜会が結成されていた。同文会が政治色を極力排して実務優先型の組織だったのに対して、東亜会はより政治色を強く打ち出すという違いがあったが、人脈的には相互に強い繋がりを持っていた。そのため、政府補助金の獲得という要請に直面して、同年十一月に東亜会と同文会は合併し、篤麿を会長として東亜同文会が設立されたのである。
中国保全を期した東亜同文書院
その直後、篤麿は『東亜時論』に「帝国の位地と現代の政治家」と題する論説を発表し、速やかに「国家の大計」を立てるよう政府に提言している。彼が断固粉砕すべきとしたのが、伊藤博文の満韓交換論であった。ロシアに満州を委ねることは、いずれ支那分割に到るというのが、篤麿の考え方であった。彼は対露強硬論を唱え、明治三十三年九月に国民同盟会を組織する。頭山満、陸羯南、中江兆民、犬養毅、平岡浩太郎らが参画、ロシアとの対決へ国論を導いた。
同時に、篤麿は興亜のための人材養成という使命に邁進していた。明治三十二年十月、彼は清国を訪れ、清朝体制内での穏健改革を目指す洋務派官僚、劉坤一と会談、東亜同文会の主旨を説明した上で、南京に学校を設立する構想があるので便宜を図ってほしいと要請した。劉坤一は「できるだけの便宜を供与する」と快諾した。こうして、翌明治三十三年五月、南京同文書院が設立され、荒尾精の盟友、根津一が院長に就任した。ところが、北清事変のため同年八月に上海に引き上げなければならなかった。当初は騒乱が収まり次第南京に復帰する予定であったが、根津が抱いていた大規模学院計画を実現することになり、明治三十四年五月、上海の城外高昌廟桂墅里に東亜同文書院が開校された。
これに先立ち四月一日、第一期生七十余名は華族会館で挙行された入学式に臨み、五月一日根津に率いられて、横浜から近江丸に乗船して出発した。大阪での視察を経て、五月五日に門司港に到着、同月九日に上海に着いた。以来、終戦までの四十五年間に約五千名の日中学生が書院で学ぶことになる。この間、文麿は大正十五年五月から昭和六年十二月まで院長を務めている。
書院の興学要旨は、「中外の実学を講じて、中日の英才を教え、一には以て中国富強の基を樹て、一には以て中日輯協の根を固む。期する所は中国を保全して、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるに在り」と定められ、立教綱領には「徳教を経と為し、聖経賢伝によりて之を施し、智育を緯と為し」と謳った。翌明治三十五年四月、第二回の入学式で篤麿は「隣国の人愛せよとのたまひし君がみことば耳に残るも」と詠っている。
興学要旨で「中外の実学を講じ」と謳う書院の学生は、最終学年の夏休みを返上し、二、三カ月、中国内陸部などアジア各地に大旅行し、中国に学ぶ学生としての自覚と自信を体得し、大旅行が実学であることを知り、社会に巣立っていった(『東亜同文書院大学史』昭和五十七年、百八十四頁)。いつしか新入生たちは、「大旅行の歌」を腹の底から唄い上げて、出発する最上級生を送り出すようになった。
嵐吹け吹け靺鞨おろし 雪の蒙古に日が暮れる
征鞍照らす月影に 仰げば空に雁の声
ほんに忘れようか桂墅里の 可愛い稚子さんが目に踊る
殺気満ちたる馬賊の唄は 何処で飲んだか酒臭い
明治三十六年八月、篤麿は対露同志会を組織、ロシアとの開戦を訴えた。東亜保全を掲げて興亜を体現しようとする篤麿は、期待の星であった。すでに、彼は明治三十三年には政治の行き詰まりを打破し、政治の理想を回復するために「東洋倶楽部」を組織、政治団体へと発展させようと計画していた(工藤武重『近衛篤麿公』大日社、昭和十三年、三百六十九頁)。明治三十六年十二月一日には、華族と平民の間を疎通して交情を温めることを目指し「桜田倶楽部」を旗揚げし、次のように宣言した。
「挙世浮薄に流れ、滔々私利に奔る政界の紛争、実業の萎微、学芸の不振、職として熱誠事に従ひ忠実を尽すの気風乏しきが故ならずんばあらず。此風潮を一転するに非ざれば、焉んぞ邦家の隆盛を期せん。茲に同人相議りて桜田倶楽部を起す。同憂の士と共に内親睦を厚うし、外時宜に応じ戮力して邦家の為に貢献せんと欲するが故なり。大方諸君請ふ、賛助せよ」
この「桜田倶楽部」こそ、近衛新政党のための準備機関とも目されていた。だが、このとき彼の身体は蝕まれていた。明治三十五年秋、放線状菌に全身を侵され、手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするものであったが、彼は頑なに麻酔を拒み、「自分は昨今重大なる政治上の秘密を持つて居るから、万一麻酔の中に其の秘密を喋るといふやふなことがあつてはこれこそ由々しき大事である」と語ったという(『近衛篤麿』七十四頁)。結局、一時は小康状態を保ったものの、放線状菌による難病により、明治三十七年一月二日、四十歳の若さで彼は死去した。日露戦争が勃発するのは、その一カ月後のことである。