崎門学が明治維新の原動力の一つであったことを良く示す文章が、平泉澄先生の『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)に収められた「望楠軒」の一節である。
〈ここに殆んど不思議と思はれるのは、水戸の大日本史編修と時を同じうして、山崎闇斎が倭鑑の撰述に着手した事である。一つは江戸であり、今一つは京都である。一つは水戸藩の総力をあげての事業であり、今一つは学者個人の努力である。大小軽重の差はあるが、その目ざす所は一つであり、そして国史上最も困難なる南北の紛乱を、大義を以て裁断した点も同趣同様であった。但し問題は、処士一個の事業としては、あまりに大きかった。闇斎は、明暦三年の正月より筆を執り、そして少くとも二十数年間、鋭意努力したに拘らず、完成に至らずして天和二年(西暦一六八二年)九月、六十六歳を以て歿し、倭鑑の草稿もまた散逸してしまった。只その目録のみ、門人植田玄節によって伝へられた。それによれば、後醍醐天皇を本紀に立て、光厳、光明紀を之に附載し、後村上天皇を本紀に立て、光明、崇光、後光厳、後円融、後小松紀を之に附録し、そして明徳二年十月二日、三種神器入洛の事を特筆大書したといふ。して見れば是れは、水戸の大日本史と同じ見識であったとしなければならぬ。 続きを読む 崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」
「水戸学」カテゴリーアーカイブ
会沢正志斎墓参(平成26年7月8日)
会沢正志斎『新論』の二面性
尾藤正英は『新論・迪彝篇』(会沢安著、塚本勝義訳註、岩波文庫)の解説(昭和43年)で、次のように書いている。
〈この思想体系は、本来の性格として支配のための思想であり、「上から」の政治改革の思想であった。しかしそれが過激な現状変革の運動に挺進した青年志士たちの心をとらえ、あたかも革命のイデオロギーとして現実に機能したかのようにみえるところに、大きな問題がある。現在の学界において、本書の思想の性格に関し、対立する二様の見解が成立して、平行線を描いているのも、その微妙な性格のとらえ難さによるのであろう。しかしこれを「封建的支配秩序の合理づけとしての名分論」にすぎないとし、専ら保守的性格のものとみる見解(遠山茂樹氏「尊王攘夷思想とナショナリズム」『尊攘思想と絶対主義』所収)も、逆にこれを「抵抗権」の論理をふくむ下からの革命思想と評価する見解(上山春平氏『明治維新の分析視点』)も、いずれも一面に偏した理解であるように私には思われる。前者では、この政治論にふくまれた革新性が見落される結果となり、後者では、これが支配の思想であったことに注意が向けられていないからである。むしろ本質において支配の思想であったものが、革命運動の主たるイデオロギーとして機能したところに、私たちは明治維新という特異な政治革命の性格を考察するための手がかりを見出すことができる筈であり、本書の内容は、そのような問題を追求するための一つの素材を提供しているのではないかと考えてみたい〉
興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈
会沢正志斎の『新論』は、文明史的視点を伴なった興亜論(アジア主義思想)の先駆的著作としても位置づけることができる。現在カイロ大学教授を務めるイサム・R・ハムザ(Isam R.Hamza)氏は、「日本における『アジア主義』」(『史学』2006年6月)において次のように書いている。
〈西欧列強の圧力が徐々に強まってゆくにつれ、日本の対外的危機感は次第に広まり、様々な海防論や攘夷論が著わされた。その中でも、一九世紀前半の鎖国下日本でアジアを含む世界認識の有様をうかがわせる著作は、水戸学派の会沢正志斎(一七八二~一八六三年)の名著『新論』をおいて他にはないであろう。……西欧列強の圧力への反発として当然自国の優越性の認識にむかう動きが生じてきた。会沢もそれを背景にし、世界における日本の位置付けとアジアについて、『新論』でこのように述べている。
「夫れ神州は大地の首に位す、朝気なり、正気なり
〈神州は本、日神の開きたまひしところにして、漢人、東方を称して日域となし、西夷もまた神州及び清・天竺・韃靼の諸国を称して、亜細亜と曰ひ、また朝国と曰ふ。皆、自然の形体に因りてこれを称するなり〉。朝気・正気はこれ陽となす、 続きを読む 興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈
会沢正志斎『新論』関連文献
著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | ページ | 出版時期 |
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先崎 彰容 | 「日本」のナショナリズム : 会沢正志斎『新論』を読む | 新日本学 | 30 | 46-57 | 2013 |
桐原 健真 | 『新論』的世界観の構造とその思想史的背景 | 茨城県史研究 | 91 | 68-84 | 2007-02 |
桐原 健真 | 東方君子国の落日─『新論』 的世界観とその終焉 | 明治維新史研究 | 3 | 1-15 | 2006-12 |
イサム R.ハムザ | 日本における「アジア主義」 | 史学 | 75(1) | 128-139 | 2006-06 |
倉持 隆 | 『新論』2巻 会沢正志斎(安)著 安政4年刊 安政5年正月 松平慶永(春嶽)自筆書入本 | Medianet | 13 | 69 | 2006 |
子安 宣邦 | 国家と祭祀(3)祭祀的国家の理念─『新論』と危機の政治神学(2) | 現代思想 | 31(11) | 8-15 | 2003-09 |
子安 宣邦 | 国家と祭祀(2)「天祖」概念の再構築─『新論』と危機の政治神学(1) | 現代思想 | 31(10) | 26-34 | 2003-08 |
安蘇谷 正彦 | 会沢正志斎の国家思想(中)の下─わが国初の国防論『新論』の神髄 | 日本及日本人 | 1632 | 76-86 | 1998-10 |
安蘇谷 正彦 | 会沢正志斉の国家思想< 中>─わが国初の国家防衛論『新論』の思想と意義 | 日本及日本人 | 1631 | 50-60 | 1998-07 |
三谷 博 | 「新論」覚え書き─〈「忠孝」の多重平行4辺形〉を中心に | 歴史学研究報告 | 22 | 1-26 | 1994-03 |
栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎をめぐって | 日本歴史 | 506 | 84-88 | 1990-07 |
栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎─註解「諳夷問答」 | 東京都立大学法学会雑誌 | 30(1) | 181-231 | 1989-07 |
前田 勉 | 「新論」の尊王攘夷思想─その術策性をめぐって | 日本思想史研究 | 19 | 15-32 | 1987 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-5- | 相模女子大学紀要 | 49 | 41-54 | 1985 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-4- | 相模女子大学紀要 | 48 | 33-44 | 1984 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-3- | 相模女子大学紀要 | 47 | 41-52 | 1983 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-2- | 相模女子大学紀要 | 46 | 37-49 | 1982 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-1- | 相模女子大学紀要 | 45 | 31-41 | 1981 |
前田 光夫、安田 耿雄 | 「新論」における国家観 | 茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学 | 27 | 17-28 | 1978 |
『新論』の著者が知られるまで
『新論』を書き上げた会沢正志斎はその一部を丁寧に浄書し、文政九(一八二六)年、藤田幽谷の手を通して、藩主哀公(斎修)に献じました。これを見て驚いた哀公は、
「この書の内容には、見るべきものがあるが、時事を痛論して、論旨余りに激烈に過ぎるから、幕府の忌諱に触れる恐れが十分にある。したがって公刊は見合せるが宜しからう」
と注意したのでした。
そのため『新論』は、当初一部の人々の間に伝写されるにとどまっていたのです。
弘化年間(一八四四~一八四七年)になって、烈公が幽囚生活を余儀なくされ、正志斎もそれに連座する形で禁固されました。その間、正志斎の門人は、『新論』を無名氏箸として上木したのです。
こうして、『新論』は世の中の注目を集めることになりましたが、誰もがその著者が正志斎であるとは知らないままでした。
例えば、『新論』から深い感銘を受けた川路左衛門尉は、「これは、無名氏とあるが、水戸人の手になったものに違いない。これ程の論文を書く人物は、当今藤田東湖のほかにあるまい」と言ったそうです。
しかし、やがて『新論』が拡がるにつれて、それが正志斎の著書であることが理解され、彼の名は日本中に広まっていったのでした。
会沢正志斎『新論』の欧米観・西夷観
蒲生君平の師鈴木石橋の私塾「麗澤之舎」─蔵書の『保建大記』と『靖献遺言』
『月刊日本』平成26年3月号掲載の「明日のサムライたちへ 山陵志② 君平と藤田幽谷を結んだ『保建大記』」の取材のため、2月上旬に栃木県鹿沼市を訪れた。 鹿沼は、蒲生君平と後期水戸学の祖藤田幽谷の出会いを用意した、君平の師鈴木石橋の出身地である。石橋は二十四歳のときに江戸に出て昌平坂で学び、同校の講壇にも上るほどその将来を嘱望されていたが、天明元(一七八一)年に郷里に戻り、私塾「麗澤之舎」を開いて地元の子弟を教育した。彼は天明(一七八一~一七八九年)の大飢饉のときには、私財を投じて窮民の救済に全力で取り組んでいる。 鈴木家に伝わった「麗澤之舎」の蔵書五千余冊は、鹿沼市民文化センターにある同市教育委員会文化課で管理されることとなり、現在その移行作業中である。同課の協力を頂き、「麗澤之舎」の栗山潜鋒『保建大記』と浅見絅斎『靖献遺言』を閲覧させていただいた。 『保建大記』には、各頁の上部に詳細な書き込みがあり、石橋が講義に活用した跡が窺われる。
麗澤之舎蔵書 『保建大記』と『靖献遺言』
『月刊日本』平成26年3月号掲載の「明日のサムライたちへ 山陵志② 君平と藤田幽谷を結んだ『保建大記』」の取材のため、2月上旬に栃木県鹿沼市を訪れた。
鹿沼は、蒲生君平と後期水戸学の祖藤田幽谷の出会いを用意した、君平の師鈴木石橋の出身地である。石橋は二十四歳のときに江戸に出て昌平坂で学び、同校の講壇にも上るほどその将来を嘱望されていたが、天明元(一七八一)年に郷里に戻り、私塾「麗澤之舎」を開いて地元の子弟を教育した。彼は天明(一七八一~一七八九年)の大飢饉のときには、私財を投じて窮民の救済に全力で取り組んでいる。
鈴木家に伝わった「麗澤之舎」の蔵書五千余冊は、鹿沼市民文化センターにある同市教育委員会文化課で管理されることとなり、現在その移行作業中である。同課の協力を頂き、「麗澤之舎」の栗山潜鋒『保建大記』と浅見絅斎『靖献遺言』を閲覧させていただいた。
『保建大記』には、各頁の上部に詳細な書き込みがあり、石橋が講義に活用した跡が窺われる。