「頼 山陽」カテゴリーアーカイブ

頼山陽・三樹三郎墓参

 平成26年12月23日、頼山陽・三樹三郎墓参のため、円山公園(京都市東山区)の奥にある「長楽寺」を訪れた。ここには、鵜飼吉左衛門・幸吉ら水戸烈士の墓もある。
 『日本外史』「楠氏論賛」の一節を読み返した。
 〈楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将た安くに託して、以て四方の望を繋がんや。笠置の夢兆、ここにおいて益々験あり。而るに南風競はず(南朝の気勢があがらない)。倶に傷き共に亡び、終古以てその労を恤むなし。悲しいかな。抑々正閏は殊なりと雖も、卒に一に帰し、能く鴻号を無窮に煕む。公をして知るあらしめば、亦た以て瞑すべし。而してその大節は巍然(高大なさま)として山河と並び存し、以て世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄(北条・足利)迭に起り、僅に数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果して如何ぞや〉

國體についての国民的合意が求められている─中村武彦氏『尊皇攘夷』

 対米従属から脱し、國體を回復するための本物の維新が、いま求められている。その際、重要になってくるのが、國體についての国民的合意にほかならない。
 民族派の重鎮中村武彦氏は『尊皇攘夷』(今日の問題社、昭和44年)において、次のように指摘していた。
 〈尊攘派と対立した形の開国論者及び佐幕派の人々も、尊皇攘夷の基本精神においては共通していた。意見として対立したのは、開国へ持って行く時期、順序、方法の違いだけであった。当時の日本人はみな常識として日本の歴史を知り、国体観念を持っていた。頼山陽の日本外史や会沢正志斎の新論は、幕末、書物を読むほどの者なら、武士だけでなく、全国の農民商人の間でもひろく読まれ、共鳴されていた。
 幕末の尊攘維新運動の背後には、このような、いわば広汎なる国民的合意のあったことを見落してはならない。さればこそ、一たび大政奉還から皇政復古への道が決定するや、待っていましたとばかりに国を挙げて維新開明の大行進が始まり、全世界が瞠目する明治の奇蹟的な飛躍発展が行はれたのである。現代日本との根本的な違いが此処にある。
 現代日本には頼山陽なく、水戸学なく、ただ圧倒的なる共産主義の宣伝と、所謂三S政策の影響のみがある。占領下に植民地教育を強制されて以来、今なお日本人、殊に若い世代の歴史と国体に関する無知には、救い難いものがある。肇国の神話も明治維新の歴史も教えられず、楠正成も乃木希典も知らない。世界の何処にこのような自虐的な教育をしている国家があろう〉
 中村氏がこう書いてから45年あまりを経た現在も、状況は変わっていない。

山本七平『近代の創造』の中の『靖献遺言』

 山本七平は『近代の創造』(PHP研究所、昭和62年)において、渋沢栄一の従兄弟で、その師でもあった尾高藍香のことを論じているが、藍香も手にしたと推測される『靖献遺言』を次のように位置づける。
 〈『靖献遺言』『保建大記』『中興鑑言』が、さらに『大日本史』の通俗版ともいえる『日本外史』『日本政記』が明治維新を招来した「思想教科書」であるとは確かに言える。このうち前の三冊は朱子学の系統の崎門学であり、『中興鑑言』の著者三宅観瀾と『保建大記』の著者栗山潜鋒は水戸彰考館の一員で、共に闇斎・絅斎系すなわち崎門学系の思想家である。そしてこの浅見絅斎こそ山崎闇斎の弟子で尊皇の志士のバイブル『靖献遺言』の著者である。だが、これらの人々の思想は……朱子学系統であり、朱子の正統論を絶対化し、正統を護持するためには殉死も辞せずという強い正統論者であったことは共通している。一方水戸には光圀が招聘した中国からの亡命学者朱舜水がおり、その弟子が安積澹泊で水戸彰考館の総裁、要約すればこの二系統を統合したのが初期の水戸学である。しかし観瀾の後は余りたいした学者も出ず、このころは日本の思想に強い影響力をもっていたわけではない。
 ところが藤田幽谷とその子東湖、さらに会沢正志などが出、斉昭がこの東湖によって水戸藩主となり、東湖を側用人、正志を侍読とすると共に、水戸は「思想的権威」のような様相を呈して来た。……だが会沢正志であれ、藤田東湖であれ、本来の姿は水戸藩の「お抱え学者」であり、藩に従属して禄をもらっている以上、浅見絅斎のような完全に自由な思想家ではあり得ない。彼らは「尊皇攘夷」は声を大にして口にしたが、「藩」そのものの否定はもちろん、幕藩体制否定の「倒幕」さえ明確には口に出来ず、その点、決して「倒幕のアジテーター」とはいえない。……尊皇思想を研究された三上参次博士は「一方に於て是書(『新論』や『常陸帯』)を読み一方に於て『靖献遺言』の所信を実行せば、皇政復古の大業の明治維新の際に於て成功せるも強ち異とするに足らざるべし」と記されている。いわば「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
 そして発火点とは……「思想の真髄」いわば、天動説を地動説に変えてしまうような「心的転回」を起したときである。そうなれば『新論』も『常陸帯』も激烈な行動へと燃えあがる油にはなりうる。
 そして多くの人の場合は発火点が『靖献遺言』であった〉

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑦

佐藤清勝は、『世界に比類なき天皇政治』第二編「日本の天皇政治」二章以下で、歴史を遡って天皇政治の実例を明示した。ここで佐藤は「太古」「上古」「中古」「近古」「現代」の五つの時代に分けたが、政治研究として十分成立する「上古」以降をその分析の対象とした。
「上古」は、神武天皇から第三十五代の皇極天皇(在位:皇紀一三〇二~一三〇五年)までである。佐藤は、「上古」の政治史の概要、政治組織、対内政治、対外政治を眺めた後、この時代の天皇の政治思想を、国家観、政治観、法政観、臣民観から考察し、上古天皇政治の本質に迫った。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑦

大日本殉国会

「外部ノ物質的援助ヲ仰ガズ」

 華々しい活躍はしなかったものの、無私に徹した運動を志していた維新団体として知られているのが、大日本殉国会である。
大正15年2月11日、古着屋を営んでいた増井潤一郎が旗揚げした団体である。増井は新潟県高田の出身で、小学校の教師をしていた父から武士的教育を受けるとともに、漢学を仕込まれて成長した。増井の脳裏には、父から教えられた『日本外史』をはじめとする著書に示された楠一族の殉国物語が深く沁み込んでいた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。 続きを読む 大日本殉国会

頼山陽関連文献


書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
渡部昇一   渡部昇一の古代史入門 頼山陽「日本楽府」を読む PHP研究所 2006年11月  
見延典子 頼山陽にピアス 南々社 2004.11  
衣笠安喜 思想史と文化史の間―東アジア・日本・京都 ぺりかん社 2004.07   続きを読む 頼山陽関連文献

頼山陽の思想

一君万民の理想

頼山陽肖像画(福山誠之館同窓会蔵)
http://www.ccv.ne.jp/home/raisanyo/jinbutu.htmより 一君万民の理想的統治を求めた頼山陽(1780~1832年)の著作は、王政復古の精神を鼓舞し、維新の大業を成就する大きな力となった。司馬遼太郎は、山陽の『日本外史』について、「この一書が幕末を動かしたとさえ言いたくなるほどである」と述べている(『この国のかたち』1、文芸春秋)。
 安藤英男氏は、山陽が「一君万民の平等思想を根底とし、天皇親政下の郡県制度を理想の政治形態とした」と書いている(安藤英男『頼山陽日本外史』近藤出版社、1982年(頼山陽選集 6)、3頁)。 続きを読む 頼山陽の思想