「国体思想」カテゴリーアーカイブ

片岡駿先生「自民党幕府」(『新勢力』昭和51年1月号)

 昭和維新運動に挺進された片岡駿先生は、「自民党幕府」(『新勢力』昭和51年1月号、『史料・日本再建法案大綱 第三巻収録)と題して、次のように書かれていた。
 〈国際共産主義侵略の脅威は元より之を無視することはできぬ。従つてその第五列部隊たる国内革命勢力の一掃は、日本再建のための必須の要件であることは勿論であるが、その目的を達成するためには、「占領憲法」といふ化け物を先づ処分せねばならぬと云ふ自明の理と、而もこの亡国憲法を自己立脚の基盤として死守してゐるものが、外ならぬ自由民主党其者であることに思ひ至るとき、政府、自民党と結んで「反共」の戦線に立つといふごとき戦術が如何に愚劣なものであるかは自ら明かである。
 時代の如何を問はず、日本に於て維新とは、現実に政権を私して国体を危くする亡国的勢力を打倒して、天皇大権の下に国政を一新することである。現実不断に天皇(天皇制)と国体を危ふくせしめつつあるポツダム体制と占領憲法の温存を図り、それを基盤とする権力の頂点に立つものが自民党政府である限り、維新陣営が打倒の目標とすべき現代幕府勢力が、そこに在ることは明々白々である。討幕の無い維新は戯論に過ぎぬ。若しこの眼前の幕府を討つことを図らずして、徒らに維新を叫ぶ者があれば、国民を愚弄し自己を冒瀆するものと云はねばならぬ〉

北条泰時の不臣(承久の悲劇)を批判した崎門学派

 明治維新を成し遂げた幕末の志士には、建武中興の挫折と、さらに遡って承久の悲劇、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に対する特別な思いがあった。だからこそ、明治六年には、御沙汰により、三天皇の御神霊を奉迎することとなったのである。御生前御還幸の儀を以て、厳重なる供奉を整えて、水無瀬宮へ御迎え申し上げ、三天皇を合せて奉祀した。
 北畠親房の『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せたのは、崎門学だった。その重大な意義を、平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、次のように書かれている。
 〈…神皇正統記をうけて、徳川政権下にもつとも端的明確に泰時を糾弾したのは山崎闇斎先生の学統をうけた人々であつた。崎門に於いて、北条がしばしばとりあげられ批判せられたことは、たとへば、「浅見安正先生学談」に
  北条九代ミゴトニ治メテモ乱臣ゾ
また、
  名分ヲ立テ、春秋ノ意デミレバ北条ノ式目ヤ、足利ガ今川ノ書は、チリモハイモナイ
などと見えることによつても明らかである。当代の人々ばかりでなく久しきにわたつて世人を瞞着した「北条の民政」は、こゝにはじめて 皇国の道義によつて粉砕せられたのであつた。この批判の語調のはげしさの理由は、もしわれわれにして皇民としての感覚を喪失せざる限り、たゞ年表を手にして
  一二二一(承久三) 承久の役、後鳥羽・順徳・土御門上皇遷幸
  一二三一(寛喜三) 上御門上皇阿波にて崩御、宝算三十七
  一二三二(貞永元) 幕府式目五十一ヶ条を制定す
  一二三九(延応元) 後鳥羽上皇隠岐に崩御、宝算六十
  一二四二(仁治三) 北条泰時死
            順徳上皇佐渡に崩御、宝算四十六
と読みあげるだけで十分了知できるであらう。
 所謂「貞永式目の日」を 三上皇に於かせられては絶海の孤島にわびしくお過し遊されたのであるが、しかもこれほどの重大事を恐懼せず、慙愧することなくしで北条の民政をたゝへた時代がかつてあつたこと、否、それをたゝへる人々が現に史学界の「大家」として令名をほしいままにしてゐるのを思ふ時、それ等の人々の尊皇と民政を二元的に見る立場、不臣の行為すら「善政」によつて償はれるとする立場をきびしく批判した崎門学派の日本思想史上に占むる地位はおのづから明らかであらう〉

坪内隆彦「『東亜百年戦争』史観を発信せよ」(『伝統と革新』22号)

 『伝統と革新』22号(平成28年3月)に、拙稿「『東亜百年戦争』史観を発信せよ」を掲載していただいた。
明治維新を手本とした康有為、梁啓超ら変法派の日中連帯論、東亜百年戦争史観を提示した大川周明の『米英東亜侵略史』などにふれ、次のように結んだ。
 〈幕末の志士には、日中両国が国体を異にするとはいえ、「道を同じうする国」であるとの認識があった。
 かつて日本人が手本とした「堯舜の治」へ戻れというメッセージを、我々は中国に対して送り続けるしかない。その前に、日本人自身が、かつて康有為らが手本とした明治維新の精神へ戻り、国体を回復しなければなるまい。〉

玉川博己氏「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」

2016年3月に、三島由紀夫研究会事務局編『決死勤皇 生涯志士の人 三浦重周を語るシンポジウム』を贈呈していただいた。
玉川博己氏(三島由紀夫研究会代表幹事)の基調講演録「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」は、三浦重周氏の国体思想のうち、「戦後、国体は維持されたのか」という問題意識、そして「国体と皇道の発展は国境を超えるのか」という問題意識の重要性を指摘している。玉川氏は、三浦氏が今泉定助の世界皇化の思想に注目していたことを指摘した上で、次のように語っている。
「このように三浦重周が理想とする皇道とは、決して排他的、独善的な偏狭思想ではなく、明治以来のアジア主義の伝統を受け継ぎつつ、日本の歴史・伝統・文化に根ざす天皇を中心とするわが国体の倫理性と普遍性をあまねく世界に宣布してゆこうというスケールの大きな考えに立脚するものです」
三浦氏の国体思想を改めて研究する必要があると痛感した。

坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」

 『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。

川面凡児『建国の精神』目次

 
川面凡児『建国の精神』(稜威会本部、大正7年)目次。神道的宇宙観において、今泉定助に対する川面の影響が窺われる。

(一) 発端
(二) 目録
(三) 天壌無窮の神勅と神籬磐境の神勅との表裏
(四) 神代の世界的活動と奈良朝以後の島国的蟄伏
(五) 日本民族性、国民性と宇宙観、天地観、世界観、原人観、霊魂観、処世観
(六) 我と彼とはその究明を異にする事
(七) 唯一不二の根本大本体と世界列国の言語名称解釈
(八) 宇宙根本信念と国家統一と民族の興廃
(九) 日本民族の宇宙万有観
(十) 天神中主太神と空間、対象、宇宙 続きを読む 川面凡児『建国の精神』目次

天皇親政が本来の姿─平泉澄先生「國體と憲法」①


平泉澄先生は、昭和二十九年の講演において次のように語っている。
「…日本の政治において天皇の御地位がどういふものであつたか、天皇と国民との関係がどういふものであつたかといふことの概略を見て来たのでありますが、かやうにして、藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の事実でありまして、議論の問題ではございません。従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません。……世間にはマツカーサーの憲法を用ひましても國體は変らないと説かれる方もだんだんとあるやうであります。それは恐らくやはり皇室のために憂を抱き、日本の国を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども学者の末端に列する者として、恐るるところなく事実を直視いたしますならば、かくの如き考は耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマツカーサー憲法がこのまま行はれてゆくといふことでありますならば、國體は勢ひ変らざるを得ないのであります。民主々義はこれを強調する、天皇はわづかに国の象徴となつておいでになる。歴史は忘れられ家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて個人のみが考慮せられ、人権はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の権利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の國體が不変不動であるといふことは万あり得ないところであります」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)

「二子なかりせば、乱臣賊子、迹を後世に接せん」

 韓愈『伯夷の頌』の末尾には、「二子なかりせば、乱臣賊子、迹を後世に接せん」とあります。二子(伯夷・叔斉)がいなかったら、乱臣賊子が次々と絶え間なく出現したことだろう、と。
 これについて、近藤啓吾先生は『靖献遺言講義』で以下の絅斎講説を引いています。
 〈『拘幽操』の附録の跋にかくも、この思い入れで、やゝともすれば後世での手よく世をぬすむものが、湯・武を引きべつにする。それでこの二子なくば乱臣賊子あとを後世につがせうぞ。王莽や曹操や許魯斎や其外の世をぬすむ男どもを一坐にならべて、湯・武ばなしをしたらば、惣々尤じや聖人じやと云をゝ。其中へ伯夷の名分を云いたてたら、どれも色ちがひして、ものをゑ云ふまいぞ〉(原文カタカナ)

「梅田雲浜先生生誕200年記念墓参」、『レコンキスタ』に掲載

 崎門学研究会(代表:折本龍則氏)の主催により、平成27年11月28日(土)に東京都台東区の海禅寺で行われた「梅田雲浜先生生誕200年記念墓参」の模様を、一水会発行の『レコンキスタ』(平成28年1月1日号)に掲載していただきました。

筑前勤王党志士宛て平野国臣書簡

 
文久3(1863)年10月、平野国臣は筑前勤王党の志士(鷹取養巴、月形到、江上栄之進、浅香市作、筑紫守、森安平)に宛て、次のように蹶起を促した。
「各君御壮健奉賀候。天下の形勢定而御承知可被成、如何御因循被成候哉。
 臣子之忍ぶ所にては有之間敷候。君臣は天下の公道、主従者後世之私事歟と発明仕候。六親叛而大孝顕れ、大道廃而有仁義ものに御座候。
天朝立て各藩立、
神州有て各国有。何ぞ其末に泥みて其基本を助けざらんや。今日の急務、断之一つに在。鬼神も之を避ると謂はずや。区々として株兎の小計をなすは小人也。愚俗也。護而豪傑之実功を見給ふべし。
不日に一軍之兵勢を挙動し、天下之耳目を驚して可入貴覧候。能目を拭、耳を洗て十五日を待給へ。
再会難期。句句頓首謹言」