■「アジアの独立と繁栄は、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まる」
石原莞爾の理想を戦後政治の中で体現しようとした男・木村武雄。彼は佐藤栄作にも、田中角栄にも直言できる数少ない政治家の一人だった。田中政権では建設大臣と国家公安委員会委員長を兼務し、石原莞爾の理想を追い求めた。
明治三十五(一九〇二)年に山形県米沢市で生まれた木村は、明治大学を卒業し、米沢市議、山形県議を経て昭和十一年の衆議院議員総選挙で初当選した。同年、中野正剛の東方会に入党したが、昭和十四年に東方会を脱退し、東亜連盟協会を設立した。終生石原莞爾を師と仰ぎ、その理想の体現に奮闘した。

令和四年一月八日、木村武雄の次男で、山形県議会議員を務めた木村莞爾氏に話を伺うことができた。木村莞爾氏は、木村が尊敬する石原莞爾から名付けられた。冒頭、筆者が「石原莞爾の理想、東亜連盟の理想が、木村武雄氏によって戦後政治にどう活かされたのかを明らかにしたい」と述べたところ、木村莞爾氏は即座に「それは日中国交の回復ですよ」と断言した。
昭和五十二年七月五日、田中角栄は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌六日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか二カ月余り後の九月二十五日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。
〈なぜ木村武雄が田中角栄さんを総理にしたかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。木村武雄は佐藤栄作にそれをやらせたかった。しかし、佐藤は笛吹けど踊らずでした。そこで、木村武雄は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。木村武雄は田中支持の流れを作るために、政党政治研究会を立ち上げます。官僚政治には人間味がなく、管理と分配のために上から下に統制しますが、政党政治においては国民が主役であり、下から上へ民意をくみ上げようとします。佐藤総理の後継が福田さんならば、官僚政治の流れが続きます。その流れを断ち切るのが、田中総理の誕生だったのです。
木村武雄と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です。田中さんは外交が得意な人ではありませんでしたが、わずか二カ月余りで日中の国交を回復したんです。木村武雄がいたからこそ、それが可能だったのです〉
木村にとって日中国交正常化は、石原莞爾の理想の体現にほかならなかった。石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。
石原が亡くなったのは、昭和二十四年八月十五日。木村は遺骨を分骨して郷里米沢に持ち帰って埋葬した。それから二十二年後の昭和四十六年八月十五日、埋葬した記念として、御成山に記念碑を建立した。木村が書いた碑文には、次のように書かれている。
「先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
岡倉天心は明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした」
木村はこの石原の精神を自ら体現することを誓ったに違いない。
「日本人」カテゴリーアーカイブ
荒川定英墓参(令和4年1月4日、常瑞寺)
令和4年1月4日、名古屋の平和公園(常瑞寺)に赴き、幕末の尾張藩で活躍した荒川定英のお墓にお参りした。
『国会請願者列伝 : 通俗 初編』には次のように書かれている。
「氏、旧名を弥五右衛門坪内氏の子出でゝ荒川氏を嗣ぐ。…慶応四年正月元日、東軍の先鋒大坂を発す。当夜、氏、単身城を逃れ途に馬を得て、隻騎木津川を亂り、宇治新田より伏見の豊後橋に至り薩藩の陣に入て急を告げ、直ちに洛東知恩院なる藩侯の旅館に到つて変を報じ、再び寺町の門衛に就て状を上つる。朝廷、氏の功を褒して鳥羽口の斥侯となす。乱平らぐの後ち、氏、名古屋県の権参事となる。頗ぶる政績あり、幾ばくも無くして職を辞す」
また『名古屋市史 人物編 第一』には「定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり」と書かれている。
佐橋滋の人となり─江波戸哲夫『小説通産省』
江波戸哲夫は『小説通産省』(かんき出版、1986年)で、次のように佐橋滋の人となりを画いている。

〈佐橋という魅力的な人物を短く語ることは難しいが、それを試みると──
まず直言の人である。内に顧みて直くんば百万人と言えども我行かんの人である。上司と言えども無礼とも思われるほどの直言をして左遷させられることもあった。が、本人はそれほど痛痒を感じずたちまちまた本省に返り咲いている。それだけ実力があるのである。
自分は天下国家を思っているのだと、己れをたのむ気持ちは人一倍強い。
業界団体のボスからクレームをつけられたとき、その業界のメンバーの集まっている中で一種の大衆裁判をやり、オレをとるかそのボスをとるかとメンバーに迫ってボスを排撃している。
人物を見ることを好む。そこで人事が好きになる。異動期になるとしばしば人事予測をし、省内の人びとからその予測の内容を教えてくれるようせがまれている。
人の好悪が激しい。好めばヒイキのヒキ倒しに近いこともやるが、疎んじればこれをバカだのチョンだの言ってくさす。佐橋派の実力者と目されるキャリアでさえも「オレを佐橋派と言ってくれるな」とか「オレを買っているなどと言ってくれるな」と注文をつけるほど佐橋の好悪ははっきりと態度に現われた。
直言は政治家にも及び、企業局長のあと次官になるはずだったのを通産大臣のおぼえめでたからず、一年、特許庁長官の回り道をした。
直言と頑迷は紙一重であるし、人の好悪をあからさまにするのは狭量なことであるし、天下国家を思う気持ちも独りよがりであることもある。しかし、そんな内省と無縁なのが佐橋の人となりとなっていた。
ともあれ、佐橋は、現代にはほとんどいなくなってしまい、今後も現われるとは思えない典型的な国士型官僚であったと言えるだろう。〉
「日本とは、日本人とは何か・・・」『水戸学で固めた男・渋沢栄一』書評(浦辺登の読書館、令和3年11月23日)
本書は「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840~1931、天保11~昭和6)の思想面に特化した評伝である。「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の生涯からは、功利的な観点から人物像を見る傾向が強い。しかし、著者は渋沢に水戸学という思想の水脈が流れていることに着目した。そこで、渋沢の業績に水戸学の思想を重ねて論じることを試みた。その全三章は、
第一章「水戸学國體思想を守り抜く」
第二章「『慶喜公伝』編纂を支えた情熱―義公尊皇思想の継承」
第三章「水戸学によって読み解く産業人・渋沢」
という構成になっている。
ここで、水戸学というものを理解しておかなければならない。水戸学とは、水戸藩主・水戸光圀が始めた『大日本史』編纂事業に源流がある。水戸光圀といえば、勧善懲悪のテレビドラマ「水戸黄門」の黄門様のことだが、別に義公とも呼ばれる。この水戸光圀が始めた日本國史編纂事業はやがて、幕末の漢詩人・頼山陽の『日本外史』となって広まり、日本という国が天皇家を一本の大きな柱として成り立つ國であることが認識された。ここから、天皇と臣民との関係性、為政者としてあるべき姿が如実に浮かび上がり、藤田幽谷、東湖父子、会沢正志斎によって学問としての体系化を見るに至った。その水戸学を基礎に、近代日本の社会を構築したのが渋沢栄一だった。幕末の志士・梅田雲浜が「靖献遺言で固めた男」と吉田松陰から評された事から、著者は渋沢を「水戸学で固めた男」との冠を付けた。
水戸学の根幹を為す『大日本史』は、南北朝並立では南朝を正統とした。(14ページ)更に、北朝方の足利尊氏を「國体の念を欠くこと甚だしい」と手厳しい。(24ページ)故に、南朝の史実にも本書は言及する。
著者は本書を通じ、渋沢が功利一辺倒の経済人ではないと主張する。それは、社会の底辺で蠢く貧民の救済法である「救護法」成立に渋沢が尽力したと述べる。(71ページ)この箇所を読み進みながら、血盟団事件で大蔵大臣井上準之助が銃弾に倒れたのは、この「救護法」成立に反対した事もあったのではと考えた。
また、障害児教育にも渋沢が関与していた事を取り上げるが、渡辺清の娘・筆子との縁が紹介されている。これには、驚いた。渡辺清が福岡県令(県知事)にある時、玄洋社生みの親と呼ばれる高場乱と物議を醸し、32ページに名前がある古松簡二の門弟・川島澄之助とも派手に争いを演じたからだ。
渋沢は中国革命の孫文とも縁がある事が83ページに述べられている。同時に、先述の高場乱の門弟である頭山満と渋沢とが深い人間関係で結びついていたことも驚きだった。
本書は118ページほどの冊子にも近いものだが、その行間から読み取れる情報は、広く深い。この一冊から、日本、アジア、世界の再構築の発想が生まれる事を願うばかり。更には、日本人が抱える使命とは何かに気づいて欲しい。
「日本とは、日本人とは何か・・・」『水戸学で固めた男・渋沢栄一』書評(浦辺登の読書館、令和3年11月23日)
『水戸学で固めた男・渋沢栄一』書評(『通信文化新報』令和3年11月22日付)
アメリカに魂を売った経産官僚よ、いまこそ佐橋滋の声を聴け!
アメリカに魂を売った経産官僚よ、いまこそ佐橋滋の声を聴け!
佐橋は紛れもないナショナリストだった。その一端は、『ダイヤモンド』昭和四十二年六月五日号に載った「資本自由化を論ずる前にナショナリズムがある」に示されている。
〈──佐橋さんの主張では、就業の機会さえあれば、経営者が外人であってもかまわんとする説など、もってのほかということになりかねないわけですが、その根本になるものは、ナショナリズムですか。
答 僕は、そういう点がひじょうに強いんです。
われわれは、ときどき議論するんですけど、世界中がコスモポリタンになれば別だが、いまの経済問題は〝国際化〟をいっているんです。これはインタナショナルですよ。インタナショナルというのはナショナルがあって、その間のことを広く考えるのがインタナショナルであり、コスモポリタンとは全く違うわけだ。
このインタナショナルな状態は相当長く続くと思う。いわゆる主権国家というものは、そう簡単に死滅するもんじゃないんだ。同じ種類の人間が、同じ国土に住み、長い歴史と伝統を持って、ここまでやってきた。そこから生まれた〝ナショナル〟な考えが、インタナショナルなものの根底にある。
僕は、この点がとくに激しいかもしれないが、ナショナリズムを抜きにして、自由化を考えるなんてナンセンスだ。
福沢諭吉や小泉信三は、欧米の文明開化を輸入するのに、国を盛り立てようとするナショナリズムを基礎にしていたんだ。いまの時代は、当時といくらも違わん。
日本は確かに戦争に敗けた。だからといって、ナショナリズムを打ち出すのがなにかはばかられるような、こんな変なふんい気のなかで物事を処理してもらっちゃ困るんだ。
歴史の長い目からみれば、戦後二〇年、現在の錯乱した状態で資本自由化を認めてしまったら、どうなるか。就業の機会があればいいというような、そんななまやさしい考えは、おかしいと思う。
──所得さえ上がればいいんだ、車は安くさえなればいいんだ、という経済生活万能主義が横行してきた形ですね。
答 それはもう、大変なことになる。先導産業とか基盤産業という日本経済のベースになるような産業を、毛唐に乗っ取られでもしたら、資本主義でもこわさないかぎり、日本人は使用人で終わってしまう。
というのは、資本を維持し、ふやしていくのが〝経営者〟である以上、アメリカが資本を握れば、アメリカ人が経営をやる。そうなったらもう日本人の手には取り戻せないんだ。これでいいのか、ということだ。われわれの孫子に、戦争に負けたから、あのころの日本人はどうかしていたんだ、と思われますよ。かりにだ、ナショナリズムという〝意識〟がないならば、資本自由化なんて、へみたいなもんだ、やったらいい。働く機会はあるんだし、給与もいまよりよくなるかもしれない。
その代わり、ガタッと切り下げられたって文句はいえないし、ストライキで対抗するにしたって、閉鎖されたらそれっきりなんだ。
われわれ日本人は現在、そんな事態を招く〝種〟をまいてはいけないんだ。ここに経済政策を論ずる者の義務があると思う。〉
特振法と独禁法
特振法には、いくつかの壁があった。その一つが、独占禁止法である。佐橋は、次のように書いている。
「日本の独禁法はカルテルを原則的に禁止し、不況カルテルと狹い範囲の合理化カルテルの二つだけが例外的に認められている。企業集中、専門化の実施を容易にするためにはいろいろの型のカルテルの結成が必要である。公取当局も最終法的には特振法的な考え方に同調し、企業に国際競争力をつけることの必要性は認めたが、特振法の考えている各種カルテルは現行独禁法の合理化カルテルで設立可能であるという主張を展開した。
カルテルは競争の実質的制限になるから悪であるという考えで業界の話合い、申合せに目を光らせている公取当局が、特振法目的達成のために必要と考えられる各種カルテルを現行独禁法で許容できるという主張をするに至っては、いささか驚異である。公取当局は特振法で主要な産業にカルテル行為が認められると、独禁法は大きなお客を失うことになる。つまり特振法指定産業は取り締れなくなる。彼らはなりふりかまわず、日ごろの主張もどこへやらで、逆にカルテル論者になった感があった。
しかしもし特振法が彼らの主張を認めてカルテル条項を削除して成立させたら、君子豹変するおそれを心配した。恣意的な拡張解釈は縮小解釈にも通ずるからである。
通産省と公正取引委員会は独禁法の合理化カルテル条文で特振法カルテルは、認められない、認めうる、という並行線をたどった。通産省の主張を公取委員会がするのが常識であるが、この場合はまったく逆な立場になったのである。この論争に終止符をうつために、総理大臣決裁にもちこむことにした。池田総理と関係大臣を前にして、佐藤公取委員長と僕の意見開陳を行なった。
僕のいわんとしたのは、独禁法がカルテルの原則禁止を建前とする以上、例外規定は厳格に読むべきものでなんでも認めうるような拡張解釈はおかしい、現に機械工業振興臨時措置法以下独禁法の例外規定を設けている実情に徴しても明瞭である。総理裁定は法制局が特振法カルテルを純法律的に解釈して独禁法上認めうるもの、認めえないものに区分して、後者を特振法に規定することにしてけりがついた。こういうのを鶴の一声というのだろう」
「特振法精神は死なず」
佐橋滋は昭和四十一年四月二十五日に通産省を退官した。その翌年七月に佐橋が書いたのが『異色官僚』(ダイヤモンド社)である。同書の「特振法精神は死なず」の章において、佐橋が「未熟児で死亡した特振法の亡霊を成仏させるのが、僕の今後の仕事の大きな部分になりそうである」と書いていることが、まず注目される。
特振法の起源は、佐橋によると、昭和三十六年度の予算で通産省に産業構造調査会(昭和三十九年に産業構造調査会と産業合理化審議会を一本化して産業構造審議会が発足)の予算がとれて、産業構造研究が本格化した。特振法は産業構造調査会のエッセンスを法文化し、具現化するねらいの下に始めたものだという。佐橋は次のように書いている。
「産業構造といっても、概念、内容は複雑であり、調査会が国際競争力という観点に絞って産業構造問題にとり組んだ経緯にもかんがみて、特振法も国際競争力強化法案という名の下に論議をお願いしたのである。
僕は国際競争力強化法のほうが実態内容を端的に現わしており、開放経済態勢を控えて緊迫感、切実感を招来するうえに効果的ではないかと考えていたが、諸外国を刺激しすぎるとか、あまりにもオールラウンドすぎるとか、いろいろの意見が出て、特定産業振興臨時措置法(略特振法)という名称になった」
佐橋は特振法の精神内容を次のように整理している。
一、開放体制下において、国際競争力をもちうるためには現在の産業の再編成をする必要がある。
二、そのためには企業は集中、合併、専門化をすることが望ましい。
三、集中、合併、専門化を実施するために政府はそれをエンカレッジする施策を講ずる。
(イ)税制上の優遇 (ロ)金融 (ハ)独禁法上の例外措置
四、望ましい産業の再編成とはどういうものかの結論づけは政府、業界、金融機関の三者協議によって行なう(官民協調方式)
法案の中で、最もユニークな点が四の「官民協調方式」であり、佐橋は「特振法の哲学が、もしあるとすれば、それは官民協調方式である。各業種の再編成の方向は、それほど具体的にもっていたわけではないし、もっている必要もなかった。官民協調して話し合ってつくればよい、それこそが僕にとって重要なことであった」と書いている。だが、この官民協調こそが、批判にされされたのである。
「官民協調方式というが、実は統制の復活である、衣の下に〝よろい〟がちらちらするとか、貿易の自由化の進展とともに権限が縮小する通産省の失地回復をねらったものであるとか、官民協調といっても、羊の群れの中に狼がー匹はいったようなもので、結局、官に押し切られてしまうとかいう意見が強かった。僕はいろいろと委曲を尽くして説明したつもりであったが、反対者を完全に釈然とさせることはできなかった」
その上で、佐橋は「自由競争論者」の考え方に矛先を向けたのである。
「国際競争に耐えうるためには、産業再編成が必要であることを肯定するが、その再編成をするのに、人為的政策の必要性はない、自由競争に放任しておけば、おのずと望ましい産業の再編成ができ上がるという自由競争論者がいる。資本主義体制の根本は自由競争であり、自由競争にチェックを加えるのは好ましいことではないという考え方が根強く存在している。……なぜ自由競争が必要なのか、自由競争はよりよい経済を実現するための方法にすぎないのであって、それ自体目的ではないはずである。自由競争を是とする根拠はそれが最も人間の創意を生かす手段と考えられているからである。創意は人間社会発展の起動力である。個人の創意を極限にまで発揮させる仕組みは絶対に必要である。抑圧された雰囲気の下で、創意の発揮は困難である。ただ自由競争による需給の調和機能、弱者淘汰作用による産業界の望ましい秩序の実現という自由競争原理には仮説、前提があることを忘れてはならない。すなわち企業は利潤の極大化をめざして行動するとか、経済合理性に反する行動はしないとか、新しい均衡に対し瞬時に適応できる等々の前提が満たされていなければ、自由競争による予定調和は成立しない。
完全な自由競争は世界じゅうどこにも行なわれていない。日本経済を仔細に検討して見られたらいい。資本の移動も金利も、労働者の解雇も、労働条件も、施設の撤去も企業の自由にならないものばかりではないか。いずれの国においても自由主義経済には多くの修正が加えられている。経済正義を実現する手段はアプリオリに定まっておらない。自由競争原理が、あらゆる場合に経済の効率性を保証すると考えるのは誤りである」
このように自由放任主義の限界を指摘した佐橋は「われわれはかくて自由放任主義でもない統制経済でもない第三の方法を提唱したのである。それが官民協調方式である」と述べた。
「官吏の出でて仕えるのは天下のため」(安岡正篤『天子論及び官吏論』)
官吏のあるべき姿とは何か。近年はこうした議論さえ起こってこないが、安岡正篤は大正十二年六月に『天子論及び官吏論』を著し、次のように官吏の本質を論じた上で、当時の「官吏道の頽廃」を厳しく批判していた。
〈すべて官なるものが……人心の主とする所である。国民の政治意識の具体的表現である。故に官の道徳的意義より観れば、天子も官吏もその本質を同じくするものといわねばならない。黄宗義も官吏は「分身の君」でなければならぬといっておる。彼の説によれば、生民の繁栄と共に、国家統治の内容は無限に複雑であって、到底一人を以て治めることが出来ない。そこで百官を置いてこれを分治し、君主がこれを総括するのである。故に官吏の出でて仕えるのは天下のためにするので、君一人の私事を弁ずるのではない。万民のために働くので君主一家の私用を勤めるのではない。しかるに後世はこの臣道を誤って、官吏は君のために設置せられたものであり、君の委任に由って、君のために天下を治める、君の官吏であると考えるように為った。その所謂君も君位に即する一私人に過ぎない。これそもそも政道堕落の第一歩である。
また一面によりいえば、君主と官吏との関係は師友の関係でなければならぬ。宮中と府中との別、宦官、宮妾ち官吏との別はすなわちここに存する。宦官や宮妾は君主の一身に奉ずる奴婢であるが、官吏は君主とその道を等しくする師友である。奴婢に要求するところは労力であるが、師友に要求するところは道徳である。しかるに後世君主は奴婢を以て官吏を待ち、自己の使走に便利な者を引いて、然らざる者を遠ざけるようになり、官吏もまた自ら屈してかかる君主に迎合し、遂に師友の道を棄てて、奴婢たるに甘んじ、あさましくも区々たる生活の保障のためにその知遇を希い、後世、君驕り臣諂う悪風潮を馴致したのである。
全く総ての職に在る者がその通りであるが、とりわけ官吏道の頽廃は言うに忍びぬように思われる。今日、国家と官吏との関係の実際はほとんど民法上の雇傭関係に等しい。官吏は選任せられると一定の俸給を受け、それに対して相当の労務を給付する。彼等の腹を探れば、要するに経済問題で、根本において倫理的性質がない。これを「官」と謂わんには余りに字義に背くではないか〉
佐橋滋の死去を報じた各紙
佐橋滋は平成五年五月三十一日、肺炎のため死去した。『毎日新聞』は同日夕刊で、〈「通産省の生んだサムライ中のサムライ」と呼ばれ、城山三郎氏の小説「官僚たちの夏」のモデルとなった。次官在任中は、日本の国際競争力強化のために、企業の合併、集中が必要と主張し、公正取引委員会と対立したが、これが日産とプリンス、東洋紡と呉羽紡の大型合併の引き金になった。
また、不況対策として、戦後初の赤字国債発行を大蔵省に迫って物議をかもしたほか、行政指導による生産調整を推進し、反発する住友金属工業に対し、「指示に従わなければ、輸入炭の割り当てを削減する」と宣言、押し切った。退官にあたっては「陣笠代議士にはならん。大会社のお抱え重役もごめんだ」と言い切り、天下りを拒否した〉と報じた。翌六月一日の『朝日新聞』朝刊は次のように書いている。
〈歯に衣着せぬ発言で知られた元通産事務次官の佐橋滋氏が三十一日に亡くなった。一九六〇年代初めの企業局長時代、政財界の反対を押し切り、特定産業を選び出して合併などで国際競争力をつけさせる特定産業振興臨時措置法(特振法)の法案をまとめた。結局は廃案になったものの、その人柄などが城山三郎氏の小説「官僚たちの夏」のモデルになった。退官後は余暇問題を研究する余暇開発センターを設立、理事長から最高顧問を務め、民間企業への天下りをしなかった。この「異色の官僚」を惜しむ声を聞いた。
元通産事務次官で、佐橋氏の下で特振法の立案を手がけた両角良彦氏(日本銀行政策委員)は「親分肌で、後輩の面倒見のいい人だった。親しみがあり、頼りがいがあった」と振り返る。「官民協調方式」との非難が集まった特振法案については「役所と産業界、金融界で共通の認識を持ち、役所と業界が『上下関係』ではなく『水平分業』で貿易の自由化に対応しよう、との狙いだった」と代弁する。
その特振法案に金融界がこぞって反対するなか、日本興業銀行頭取だった中山素平氏(日本興業銀行特別顧問)は理解を示していた。中山氏は「佐橋君は『異色の官僚』といわれるが、私にいわせれば彼こそ本来の官僚だ。国の利益を考えて政策を立案し、政財界と意見が食い違っても自分を押し通そうとする。これが官僚の本来の使命だからだ」と強調する。
余暇開発センター理事長の後を継いだ宮野素行・元四国通産局長は「佐橋さんは遊び好きで、週一回はゴルフに行き、マージャンも楽しんでいた。読書も好きで、あらゆるジャンルの本を読んでいた。これからは(日本も)仕事一本やりではだめ、もっと人生をみつめなければならない。そうしたときに一番欠けているのが、増えてくる自由時間をどうするかということだ、と繰り返していた」と、故人をしのんでいる〉
一方、『読売新聞』は次のように報じた。
〈通産官僚としての佐橋氏は、国内産業の保護と、そのための強い行政指導力の維持で一貫していた。貿易・為替の自由化の波が押し寄せる中で、企業の集中、合併による体質強化のため「特振法」(特定産業振興臨時措置法)成立に執念を燃やし、産業界から「官僚による産業統制」と猛反発を受け、本田技研工業の故・本田宗一郎氏や住友金属工業の故・日向方斉氏とも激論を戦わせた。「強い通産省」の象徴的存在だった。
特振法は結局廃案に追い込まれ、目に見える成果は日産とプリンス、東洋紡と呉羽紡の合併などにとどまった。しかし「横並び意識ではいけないという声が、各界に広がった」と企業局長時代の部下だった両角良彦・日銀政策委員は、佐橋氏の先見性を評価する。
佐橋氏は、信念に基づきがむしゃらに進む性格で、官僚的な根回しと慇懃無礼(いんぎんぶれい)さからは無縁だった。特許庁長官から事務次官という異例の人事で通産官僚の頂点にのぼりつめながら、民間への天下りを拒否するなど、文字通り「異色の官僚」だった。〉




