アメリカに魂を売った経産官僚よ、いまこそ佐橋滋の声を聴け!
佐橋は紛れもないナショナリストだった。その一端は、『ダイヤモンド』昭和四十二年六月五日号に載った「資本自由化を論ずる前にナショナリズムがある」に示されている。
〈──佐橋さんの主張では、就業の機会さえあれば、経営者が外人であってもかまわんとする説など、もってのほかということになりかねないわけですが、その根本になるものは、ナショナリズムですか。
答 僕は、そういう点がひじょうに強いんです。
われわれは、ときどき議論するんですけど、世界中がコスモポリタンになれば別だが、いまの経済問題は〝国際化〟をいっているんです。これはインタナショナルですよ。インタナショナルというのはナショナルがあって、その間のことを広く考えるのがインタナショナルであり、コスモポリタンとは全く違うわけだ。
このインタナショナルな状態は相当長く続くと思う。いわゆる主権国家というものは、そう簡単に死滅するもんじゃないんだ。同じ種類の人間が、同じ国土に住み、長い歴史と伝統を持って、ここまでやってきた。そこから生まれた〝ナショナル〟な考えが、インタナショナルなものの根底にある。
僕は、この点がとくに激しいかもしれないが、ナショナリズムを抜きにして、自由化を考えるなんてナンセンスだ。
福沢諭吉や小泉信三は、欧米の文明開化を輸入するのに、国を盛り立てようとするナショナリズムを基礎にしていたんだ。いまの時代は、当時といくらも違わん。
日本は確かに戦争に敗けた。だからといって、ナショナリズムを打ち出すのがなにかはばかられるような、こんな変なふんい気のなかで物事を処理してもらっちゃ困るんだ。
歴史の長い目からみれば、戦後二〇年、現在の錯乱した状態で資本自由化を認めてしまったら、どうなるか。就業の機会があればいいというような、そんななまやさしい考えは、おかしいと思う。
──所得さえ上がればいいんだ、車は安くさえなればいいんだ、という経済生活万能主義が横行してきた形ですね。
答 それはもう、大変なことになる。先導産業とか基盤産業という日本経済のベースになるような産業を、毛唐に乗っ取られでもしたら、資本主義でもこわさないかぎり、日本人は使用人で終わってしまう。
というのは、資本を維持し、ふやしていくのが〝経営者〟である以上、アメリカが資本を握れば、アメリカ人が経営をやる。そうなったらもう日本人の手には取り戻せないんだ。これでいいのか、ということだ。われわれの孫子に、戦争に負けたから、あのころの日本人はどうかしていたんだ、と思われますよ。かりにだ、ナショナリズムという〝意識〟がないならば、資本自由化なんて、へみたいなもんだ、やったらいい。働く機会はあるんだし、給与もいまよりよくなるかもしれない。
その代わり、ガタッと切り下げられたって文句はいえないし、ストライキで対抗するにしたって、閉鎖されたらそれっきりなんだ。
われわれ日本人は現在、そんな事態を招く〝種〟をまいてはいけないんだ。ここに経済政策を論ずる者の義務があると思う。〉