石原莞爾の魂と戦後政治─木村武雄の生涯①

■「アジアの独立と繁栄は、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まる」
 石原莞爾の理想を戦後政治の中で体現しようとした男・木村武雄。彼は佐藤栄作にも、田中角栄にも直言できる数少ない政治家の一人だった。田中政権では建設大臣と国家公安委員会委員長を兼務し、石原莞爾の理想を追い求めた。
 明治三十五(一九〇二)年に山形県米沢市で生まれた木村は、明治大学を卒業し、米沢市議、山形県議を経て昭和十一年の衆議院議員総選挙で初当選した。同年、中野正剛の東方会に入党したが、昭和十四年に東方会を脱退し、東亜連盟協会を設立した。終生石原莞爾を師と仰ぎ、その理想の体現に奮闘した。
木村武雄
 令和四年一月八日、木村武雄の次男で、山形県議会議員を務めた木村莞爾氏に話を伺うことができた。木村莞爾氏は、木村が尊敬する石原莞爾から名付けられた。冒頭、筆者が「石原莞爾の理想、東亜連盟の理想が、木村武雄氏によって戦後政治にどう活かされたのかを明らかにしたい」と述べたところ、木村莞爾氏は即座に「それは日中国交の回復ですよ」と断言した。
 昭和五十二年七月五日、田中角栄は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌六日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか二カ月余り後の九月二十五日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。
〈なぜ木村武雄が田中角栄さんを総理にしたかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。木村武雄は佐藤栄作にそれをやらせたかった。しかし、佐藤は笛吹けど踊らずでした。そこで、木村武雄は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。木村武雄は田中支持の流れを作るために、政党政治研究会を立ち上げます。官僚政治には人間味がなく、管理と分配のために上から下に統制しますが、政党政治においては国民が主役であり、下から上へ民意をくみ上げようとします。佐藤総理の後継が福田さんならば、官僚政治の流れが続きます。その流れを断ち切るのが、田中総理の誕生だったのです。
 木村武雄と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です。田中さんは外交が得意な人ではありませんでしたが、わずか二カ月余りで日中の国交を回復したんです。木村武雄がいたからこそ、それが可能だったのです〉
 木村にとって日中国交正常化は、石原莞爾の理想の体現にほかならなかった。石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。
 石原が亡くなったのは、昭和二十四年八月十五日。木村は遺骨を分骨して郷里米沢に持ち帰って埋葬した。それから二十二年後の昭和四十六年八月十五日、埋葬した記念として、御成山に記念碑を建立した。木村が書いた碑文には、次のように書かれている。
 「先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
 岡倉天心は明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
 先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした」
 木村はこの石原の精神を自ら体現することを誓ったに違いない。

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