令和4年1月4日、名古屋の平和公園(常瑞寺)に赴き、幕末の尾張藩で活躍した荒川定英のお墓にお参りした。
『国会請願者列伝 : 通俗 初編』には次のように書かれている。
「氏、旧名を弥五右衛門坪内氏の子出でゝ荒川氏を嗣ぐ。…慶応四年正月元日、東軍の先鋒大坂を発す。当夜、氏、単身城を逃れ途に馬を得て、隻騎木津川を亂り、宇治新田より伏見の豊後橋に至り薩藩の陣に入て急を告げ、直ちに洛東知恩院なる藩侯の旅館に到つて変を報じ、再び寺町の門衛に就て状を上つる。朝廷、氏の功を褒して鳥羽口の斥侯となす。乱平らぐの後ち、氏、名古屋県の権参事となる。頗ぶる政績あり、幾ばくも無くして職を辞す」
また『名古屋市史 人物編 第一』には「定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり」と書かれている。
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