徳川慶勝の藩主就任─『名古屋と明治維新』より

●押し付け養子に抵抗した金鉄党
 以下、羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』に基づいて、徳川慶勝が尾張藩第十四代藩主に就任する過程について整理しておく。
 慶勝は、高須松平家十代義建(よしたつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。
 高須松平家は、尾張藩二代藩主の光友が二男の義行に作らせた分家だが、義建の父義和(よしなり)は、水戸藩六代藩主の治保(はるもり)の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸藩第七代藩主治紀(はるとし)の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。水戸藩第九代藩主の斉昭は、慶勝の叔父にあたる。
 尾張藩では、九代藩主・宗睦(むねちか)が寛政十一(一七九九)年十二月に没し、初代義直から続く男系の血統が絶えた。
 尾張藩十代藩主・斉朝(なりとも)は、徳川十一代将軍家斉(いえなり)の弟・一橋治国(はるくに)の息子である。ここで、血縁関係による大名統制強化を意図した家斉の意図に注目する必要がある。家斉には、五十三人の子供(息子二十六人、娘二十七人)がいた。昭和女子大学講師の山岸良二氏によると、家斉には正妻である第八代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、側室が二十四人、彼女らの使用人として働く女性の中からも「お手付」がさらに二十人以上いたとされる。
 文政十(一八二七)年に尾張藩第十一代藩主に就いた斉温(なりはる)は家斉の十九男、天保十(一八三九)年に第十二代藩主に就いた斉荘(なりたか)は家斉の十二男であり、家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の五男・田安斉匡(なりまさ)の養子である。そして、弘化二(一八四五)年に第十三代藩主に就いた慶臧(よしつぐ)は、田安斉匡の十男だ。つまり、尾張藩では約五十年間、四代にわたって、将軍家の系統からの養子が藩主を独占していたのである。
 この間、第十一代斉温が死去した天保十(一八三九)年三月、即日斉荘が後嗣に決まった際、大番組や馬廻組など、国元の中堅藩士らの不満が一気に高まった。
 同年四月、馬廻組の大橋善之丞は上書を提出し、水戸家の先例を引きながら、尾張家が押し付け養子を受け入れれば、家中の「武威」が失われると嘆いた。さらに、田安家から「付人」が多く尾張家に入れば、家中の出費が嵩み財政に悪影響を及ぼすとした(木村慎平「嘉永・安政期の尾張藩」『名古屋と明治維新』所収)。
 こうした不満が、慶勝擁立運動を支えていたのである。同年六月十四日には、四十七名が連署で竹腰正富に上書を提出している。連署に名を連ねた国学者の植松茂岳は、六月二十二日に慶勝擁立を周旋するために江戸に出発している。このときの慶勝擁立派が「金鉄」と呼ばれるようになっていく。
 木村慎平氏は、植松宛の書簡にある「養君の件が真の目的なので、火中までも願い出るべきだと金鉄に心懸けている人もおります」を引いて、「信念や決意を曲げない意志の固さを表したものであろう」と書いている。
 ただ、慶勝擁立運動は、まもなく急速にしぼんでいった。斉荘擁立を主導した成瀬正住が蟄居となり、これ以上幕府と事を構えるのは好ましくないという判断もはたらいた。さらに、かつて幕府による謹慎処分を受けたまま死去した七代藩主・宗春が赦免され、慶勝擁立派は不問に付されたため、騒動は一旦は収束した。
 その後、弘化二(一八四五)年、斉荘は没し、第十三代藩主に就いた慶臧も嘉永二(一八四九)年に没した。江戸の年寄衆は将軍家近親から跡継を探そうとしたが、人材に乏しく、御三家同士の養子嗣の前例もなかったため、跡継は高須家当主の義建か慶勝にしぼられていった。結局、義建が五十一歳と高齢であったことから、慶勝継嗣が決定したものと考えられる。
 塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』では、「嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた」と書いている。

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