尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
〈●寛永六(一六二九)年、徳川義直、尾張藩邸内に孔子堂を作る。
孔子堂の作られた日時不明なるも、林羅山が尾張に義直(亜相)に謁し、その模様を「拝尾陽聖堂」(林羅山文集巻第六十四)に記した。(十二月六日)蒔絵塗小厨子で、孔子像・堯・舜・禹・周公の像あり。地上、四、五尺ばかりの所に安置せられたとある。
●寛永十(一六三三)年二月十六日、義直、釈奠を行う。
明倫堂始原によれば、この時、義直は「先聖殿」の額を作った。これは上野地内・林羅山先聖殿に送られたが、幕府が聖堂・昌平黌を営むにあたって、尾張に返却された。
義直は、林羅山のため、その邸に先聖殿を作る。これが後、幕府の湯島の聖堂・昌平校の基となる。実にわが国近世の教学は義直に負うところ大である。義直の位牌は建中寺に、儒式をもって安置されている。墓は定光寺。(羅山文集「武州先聖殿経始」)
●慶安四(一六五一)年九月、聖堂を二の丸に新築す。
この建物が後に、堀川法蔵寺八角堂となった。「始原」に唐・日本でも珍しい八角の建物であると、ここに「先聖殿」の額が掲げられ、さらに明倫堂の聖堂が完成すると、ここに移し掲げられたものであると。
●寛保三(一七四三)年八月十七日、藩主綱誠の後圃に先聖殿を重修す。
藩儒 木実聞(木下蘭皐)、抜んでられて聖堂の祭酒となり、侍読を兼ぬ。(明倫堂始原・先聖廟重修記・鶴舞中央図書館蔵)
●寛延二(一七四九)年十一月十五日、藩主宗勝、明倫堂と大書して、蟹養斎に与える。
巾下学同所といわれるものがこれで、明倫堂の名はこれよりはじまる。深田明峰、松平君山、須賀精斎、小出慎斎等の学者集ることとなる。明倫堂の額は徳川美術館にあり。
●安永九(一七八〇)年九月二十九日、江戸の大儒細井平洲を尾藩に邀す。
●天明二(一七八二)年二月、平洲、尾藩にわたり巡廻講話。聴くもの十万を越す。日本教育史上空前のことである。
藩主宗睦、藩学を興さんとして、まず尾張知多郡(現東海市)の人、平洲を招き、明倫堂建学について一切を托す。禄三百俵。この禄世人を驚かした。天明六年、禄四百石、一千石待遇の礼剣を賜わる。
●天明三(一七八三)年五月一日、明倫堂開校。藩主宗睦、新たに明倫堂を興し、細井平洲を挙げて総裁とする(後、名を督学と改む)
藩校としての明倫堂はここにはじまる。いまを去る二百年。城南片端長島町東角一丁四面。「明倫堂」の額はいま藩校の壁面を飾ることとなった。(いまの東照宮のところ)孟子に曰く「夏には校といひ、殷には序といひ、周には庠といふ。学は則ち三代これを共にす。皆、人倫を明にする所以なり」(明人倫)と。けだし宗睦は日本の中央に藩学の模範を建てんとしたのである。平洲はここを士・大夫の教育、さらに庶民の教育を行うところとして開放し、天下の注目を浴びた。この日午後二時、平洲「孝経」を講じた。学問は折衷学で、学派を択ばぬ自由なものである。〉
☞[続く]