「王命に依って催される事」

●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。
寛永十(一六三三)年、家光は病に倒れた。当時、家光の嫡男家綱が生まれる前だったので、万が一のことがあれば、将軍家廃絶の危機さえ招くことになる。このとき、敬公は不測の事態に備え、急遽軍勢を率いて江戸に向かったのである。その途上、幕府から「将軍快癒」を知らせる手紙が届いたが、敬公は引き返すことなく、そのままゆっくりと江戸を目指した。ところが、敬公の真意を知らぬ江戸の幕閣たちは、「尾張殿に謀反の意あり」と警戒するようになったのである。
翌寛永十一年には、家光が上洛の帰路、尾張へ立ち寄ることになった。将軍の御成となれば、家門の誉れである。敬公は、莫大な費用と手間をかけて城内の本丸御殿を改修した。ところが、家光は急遽予定を変更して、尾張立ち寄りを取りやめてしまった。これにより、敬公は面子を潰され、強い不満を抱くことになった。敬公は弟の頼宜(後の紀伊家初代藩主)に鬱憤をぶちまけたが、結局、頼宜の説得により、忍従せざるを得なかった。
さらに、寛永十九年には、家光の嫡男家綱(幼名・竹千代)の山王社初詣に際して、敬公は老中松平伊豆守信綱から「御三家も同行するように」と内示を受けた。
敬公は「大納言である余が、なぜ無位無官の竹千代の供をせねばならぬのか」と強く反発した。伊豆守が必死に説得し、歩行による随行ではなく、敬公が竹千代に先立って山王社に至り、そこで迎えることで、ようやく折り合ったという。

●義公の『大日本史』と敬公の感化
敬公の時代にあっては、儒学は幕府公認の林羅山の朱子学が主流であった。敬公もまた、まず羅山から学問の手ほどきを受けた。ただし、敬公は儒学だけではなく、神道と国史についても羅山から教えを受けている。羅山の年譜によれば、羅山は敬公の求めに応じて、神社考詳節・宇多天皇紀略などを作っている。
さらに敬公は、羅山と並ぶ藤原惺窩門の四天王の一人堀杏庵(きょうあん)に学び、早い時期から神道への関心を深めている。すでに寛永元(一六二四)年、敬公は杏庵に熱田神宮の官符を写させ、宝器を検し、大宮司、社僧らと祭祀の典例を議定させていた。ここで、想起すべきは、小野耕資氏が「山本七平『現人神の創作者たち』を通して崎門学を考える」(本誌第十二号)で指摘している通り、惺窩の学問が当初は儒学に絞られていたが、やがて日本の古典や和歌に広がっていったことである。
 敬公は寛永七(一六三〇)年には、自ら伊勢の内外宮に参拝し、林崎文庫(現神宮文庫)について神道の書数十部を写させている。
やがて敬公は、日本各地の神社の縁起や御祭神が不明になりつつある状況に歯止めをかけなければならないと痛感するようになった。こうして、『神祇宝典』撰述が開始されることになったのである。撰述は、正保三(一六四六)年二月、敬公四十七歳のときに完了した。その序文は以下のように書かれている。
〈嗚呼神意人心、本是れ一理、器を以て之を言へば、剣爾鏡なり、道を以て之を言へば勇信智なり。爾鏡は文なり、剣は武なり、是れ日神の皇孫に授けたまふ所以にして、而して累世の帝王禅継即位の時に、則を取る所以の者、茲に在らざらむや。若し之を拡充すれば、堯舜禹の咨命と雖も、亦た何ぞ之を迫尋せざらんや、即ち是れ王道なり、儒道なり、聖賢の道なり。易に云ふ、聖人神道を以て教へを設け、而して天下服すと。是を序と為す〉
『類聚伝記大日本史 第三巻』(雄山閣、昭和九年)によると、『神祇宝典』は、まず神道の大意を説き、本朝は神聖の誕生して棲舎する所なので神国と称し、その宝を神器と号し、その大宝を守れば神皇と言い、その征伐は神兵と言い、その由って行うところは神道と言うと説く。神武帝は初めて天神を祭り、崇神帝は社地神戸を定め、垂仁帝は天照大神を伊勢に移し崇め、文武帝は令に神祇の位を定め、醍醐帝に至って式内式外あり、後朱雀の長暦中宗廟社稷諸氏祖神を分ち、君臣をして斉明盛服の礼を存し、敬遠感格の意を致さしむ、聖人の神祇を尊び、祭祀を慎み、人事を重んずるは本朝漢土皆同じ、と説いている。
『神祇宝典』撰述と並ぶ敬公の功績は、『類聚日本紀』七十冊を撰したことにある。編纂に当たったのは、堀杏庵門下の深田正室、武野安斎らであった。その序文は、『神祇宝典』完成から九カ月後の正保三年十一月に書かれている。
水戸学研究の大家・高須芳次郎は『徳川光圀』で「尾張敬公の感化」の一節を割いて、次のように書いている。
〈光圀の敬公に対する誄詞のうちにも「国史を善読して、廃れたるを興し、絶えたるを継ぎ、皇道の弛めるを張る」としてあるのを見ると、両者の関係がよく分る。……義直に接近して、その指導を受け、啓発するところが少くない。殊に義直は『類聚日本紀』を夙に作つてゐるので、国史編述につき、光圀によき示唆を与へたにちがひなかつた。以上のことを考へると、光圀の『大日本史』編述の原因は「伯夷伝」の感激にもあるが、右のやうな時勢の動きと叔父義直の感化とに、待つところが多かつた事情を認めねばならない〉

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