高山彦九郎と久留米②─三上卓先生『高山彦九郎』より

 『高山彦九郎』(三上卓先生)は次のように、久留米における崎門学の浸透を描いている。

●極点に達していた久留米の唐崎熱

 〈しかも彼(合原窓南)が京都に師事した人は絅斎先生浅見安正であつた。蓋し佩刀のハヾキに赤心報国の四文字を刻し、平生特に大楠公を崇拝し、生涯遂に幕府の禄を食まなかつた闇斎の大義名分の思想は、窓南の教育によつて或は久留米城下に於て、或は上妻の僻村に於て、上は士大夫より下は農村の青年に至るまで、漸々として浸潤したのである。窓南先生こそ久留米藩学祖と称すべきであらう。
 すなはち藩の名門岸正知、稲次正思、教を窓南に乞ひて夙に名あり、藩士不破守直、杉山正義、宮原南陸も亦錚々の聞えあり、広津藍渓は上妻郡福島村の青年を以て馬場村退隠中の窓南門下より傑出した。そして不破守直は更に若林強斎門下の西依成斎及び松岡仲良門下の谷川士清に就いて教を受け、不破の門下に有馬主膳、尾関権平、不破州郎等あり、正義の子に杉山正仲あり、南陸は子に宮原国綸あり、弟子に樺島石梁あり、……しかも窓南の影響はこれのみには止まらなかつた。彼の退隠地馬場村の隣村津江の貧農に生れた青年高山金二郎は、夙に発奮して学に勉め、宝暦年間遂に崎門三宅尚斎の高足たる大阪の硯儒留守希斎の門に遊んで、……留学百カ日にして崎門学の大事を畢了して故郷に帰り、門下に幾多の青年を養成したのであるが、天明三年藩儒に登用され、同年不幸病歿した。享年五十八。けだし窓南歿後の窓南とも称すべきである。後世その号を以て之を敬称して高山畏斎先生と云ふは此人である。
 窓南先生の遺業は斯の如く広大であつた。かくて久留米一藩の支配的学風は全く崎門学派の影響下に在り、寛政、享和の頃に至つては、崎門の学徒は士民の隔てなく尨然たる交遊圏を構成し、名を文学に仮つて陰に大義名分の講明に務めて居たのである。唐崎常陸介が来遊したのも此時、高山先生が来訪したのも此時。そして寛政二年秋の唐崎の第一回久留米来遊は、この学的傾向を決定的に灼熱化し以て高山先生の来遊を準備したのであつた〉
 三上先生は、以上のように指摘した上で、尾関権平が湯浅新兵衛に宛てた書簡に基づいて、唐崎と久留米藩士との交遊は、伊勢の谷川士清を通じて、既に天明年間から十数年間の文通によって用意されていたと述べている。そして、寛政二年初秋頃、尾関権平や不破州郎らが唐崎に宛てたと思われる書簡を引いて、「久留米に於ける唐崎熱はその極点に達して居たことが窺われる」と述べている。

[続く]

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