寛政の時代、尊号宣言運動に挺身していた高山彦九郎や唐崎赤斎は、久留米の同志と連携していた。久留米には赤斎らと同門の崎門学派が存在したからである。その一人が不破守直の門人有馬主膳守居だ。有馬の別荘の茶室「即似庵」こそ、尊号宣下運動に関する密議の舞台の一つとなった場所である。三上卓先生は『高山彦九郎』で次のように書いている。
「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし……筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んで其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう」
即似庵の存在は、久留米市史編さん委員会編『目で見る久留米の歴史 : 市制九〇周年記念』(久留米市、昭和五十四年)でも裏付けられる。
同書には即似庵の写真が掲載され、「高山が親しく出入した家老有馬主膳の東櫛原別荘内の茶室。設計は江戸の川上不白」と説明されている。なお。同書によると、即似庵は篠山町稲次家に移された。
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