「崎門学」カテゴリーアーカイブ

平泉澄先生「闇斎先生と日本精神」

 平泉澄先生は、「闇斎先生と日本精神」において、次のように崎門を称揚している。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり、高山彦九郎恢慨屠腹すれば、唐崎常陸介之につぎ、梅田雲浜天下の義気を鼓舞して獄死すれば、橋本景岳絶代の大才を抱いて斬にあひ、其の他有馬新七、西川耕蔵、乾十郎、中沼了三、中岡惧太郎、相ついで奮起して王事に勤め、遂によく明治維新の大業を翼賛し得たのであつた。國體を明かにし皇室を崇むるは、もとより他に種々の学者の功績を認めなければならないのであるが、君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」

若林強斎『神道大意』の真髄③─近藤啓吾先生「日本の神」③

若林強斎『神道大意』第三段
 「志をたつるというても、此の五尺のからだのつづく間のみではない、形気は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して八百万神の下座に列り、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて死生存亡のとんちやくはなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して(もりはもぐ、ねじつてとるをいふ)、不孝不忠となさば、生きても死にても天地無窮の間、其の罪逃る可からざるなり。(中略)道は神道、君は神孫、国は神国といふも、抑々天地開闢の初め、諾册二尊天神の詔を受け(中略)共にちぎりて天下をしろしめす珍(うづ)の御子を御出生と屹度祈念し思食す誠の御こころより、日の神御出生ならせられ、二尊かの天柱をもて日の神を天上に送り挙げたてまつりて、御位に即かせたまふより、天下万世無窮の君臣上下の位定まりて、さて日の神の御所作は、但父母の命をつつしみ守らせられ、天神地祇を斎ひ祭りて宝祚の無窮、天下万姓の安穏なるやうにと祈らせたまふより外の御心なし。神皇と一体といふも是なり。祭政一理といふも是なり。あなたを輔佐成らるる諸臣諸将も、上様のかう思召すみことのりを受けて宣ぶより外なうして、児屋(こやね)・太玉(ふとだま)の命の宗源を司らせらるるといふは、其の綱領なり。(中略)諸臣諸将は申すに及ばず、天下の蒼生までも上の法令をつつしみ守りて背き奉らぬやうに、天地神明の冥慮をおそれたふとびて、あなどりけがす事なければ、おきもなほさず面々分上の(それぞれの身分の上でいふの意)祭政一理といふものなり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第三段。神道の教たる、忠孝の徳を全うせんとの努力は、その人の生存中のみの務めではなく、死するも猶ほ続けて、つひに八百万の神々の末にその座を与へられ、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神とならざるべからざるを語り、それ故に死生存亡の頓着はなき事であると説いてゐる。この段、まさに垂加学派の神道説の精彩をここに凝縮したる思ひがする」

平泉澄先生の語る岡次郎(彪邨)先生

 崎門学継承に人生を捧げた岡次郎(彪邨)先生については、『次なる維新の原動力」『月刊日本』平成25年7月号)で以下のように書いた。

前列右が岡彪邨先生

 〈内田先生とともに崎門学継承に人生を捧げたのが、岡次郎(彪邨)先生です。
 岡先生は、元治元(一八六四)年六月十二日、肥前平戸の松浦侯の藩士岡直温の次男として生まれました。号の「彪邨」は、二十歳代までいた日宇村に因んだものです。
 父が、楠本碩水の兄端山に学んでいたため、岡先生も端山・碩水に学ぶようになりました。『楠本碩水伝』を著した藤村禅は「彪邨の学問の態度は単に教養を積むことや博識を求めることではなく、どこまでも真剣に人間の魂の依據となるべきものを朱子学に求めんとしたのである。そのために心性の理を自得体認すべく自ら工夫を凝らしたのであった」と書いています。 続きを読む 平泉澄先生の語る岡次郎(彪邨)先生

美濃の若林強斎門人

 美濃における崎門正統派として、若林強斎の門人廣木忠信が知られる。吉岡勲「美濃における崎門学派の展開」(『一志茂樹博士喜寿記念論集』昭和46年6月所収)は、廣木について言及した上で、美濃の強斎門人として以下の名前を挙げている。

 正徳三年  濃州辻瀬古邑  所 左内
 正徳五年  濃州岐阜    赤堀剛菴
 正徳五年  濃州芝原北方  星野恭菴
 享保元年  美州高屋村   八代春竹
 享保九年  美州岐阜    井上専蔵
 享保十年  美濃      諸江儀次郎

若林強斎『神道大意』の真髄②─近藤啓吾先生「日本の神」②

若林強斎『神道大意』第二段
 「まづさしあたり面々の身よりいへば、子たるものには、親に孝なれと天の神より下し賜はる魂を不孝にならぬやうに、臣たるものには君に忠なれと下し賜はる魂を不忠にならぬやうに、どこからどこまでもけがしあなどらぬやうに、もちそこなはぬやうに、この天の神の賜ものをいただき切つてつつしみ守る事なり。(中略)神様の屹度上に御座成られて、其の命をうけ其の魂を賜はりて、一物一物形をなすゆゑ、内外表裏のへだてなくいつはらうやうもあざむかうやうもけがしあなどらうやうもそこなひやぶらうやうもなき事と屹度あがめたてまつりてつつしみ守るが神道の教なり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第二段、この世に存する一木一草もその本体、神の霊を受けたるものであるから、これをみだりに扱ふべからざることを説き、進んで人間みづからの間題として、我れが我が本質として神より賜はりし君に忠、親に孝たらんとするの徳と全うするため、平生これを慎み守ることが神道の教たることを述べてゐる。」

若林強斎『神道大意』の真髄①─近藤啓吾先生「日本の神」①

 若林強斎の『神道大意』は、享保10(1725)年8月、多賀社の祠宮大岡氏の邸で強斎が行った講説を門人の野村淡斎が浄書し、強斎自ら補訂を加えたものである。
 この『神道大意』の真髄を理解するために、まず近藤啓吾先生の「日本の神」(平成24年4月25日)を精読したい。この論文は近藤先生著『三續紹宇文稿』(拾穂書屋蔵版、平成25年1月)の冒頭に収められている。

〈「(神道大意)おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水をひとつ汲むというても、水には水の神霊がましますゆゑ、あれあそこに水の神罔象女(みづはのめ)様が御座成られて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、火をひとつ焼くというても、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座成らるる故、大事のことと思ひ、纔かに木一本用ふるも句句廼馳(くぐのち)様が御座成られ、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座成らるるものをと、何につけかに付け、触るる所まじはる所、あれあそこに在ますと戴きたてまつり崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、かういふなりが即ち常住の功夫(くふう、平生のエ夫をいふ)ともなりたるものなり」
 以上第一段、古伝を素直に受け、伊勢神道の説を継ぎ、この世に存在するあらゆるもの、すべて神の生み給ふところであつて、その神霊を得てその存在価値としてゐることを述べて、一木一草にも神の分霊がまします故、これを戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事と恐れ謹しむが神道にて、そのこころを守らんとする努力が、即ち神道を奉ずるものの平生の工夫であることを述べてゐる。〉

國體の真髄─「皇統無窮、万世一系とは当為の努力である」

 近藤啓吾先生は、崎門学正統派の若林強斎の「皇統ヲ仰ギ崇ブハ勿論ナリ。但シ何時何様ノ変ガ有ラウカト、常々恐怖スルガ今日ノ当務ナリ。日神ノ詔勅ニ違ヒノ有ラウヤウハナケレドモ、清盛モアリ頼朝モアリ、何時将門・純友出ヨウモ知レズ。神代ニ既ニ天稚彦アリ。何時迄モ動キハナキコトト落チツクハ惰ナリ。甚ダ危キ事ナリ」という言葉を引いた上で、次のように述べている。
 「皇統無窮、万世一系とは、本然の事実にあらずして、当為の努力である。言ひかへれば、これは、わが国体の最高の理想目標を示したものに外ならない。たゞこれは、絶ゆることなき努力の継承によつてのみ、現実たらしめ得る。しかもこの当為の努力が、肇国以来一貫せられて来たところに、わが国の道義の本質を見る。観念でなく実践であり、中断なき継承であらねばならぬ。これ乃ち絅斎が、赤心報国の大刀を横へて逢坂山はわが死処なりといひ、強斎が楠公を慕つて望楠軒を設立し、而して成斎が、某、年いたく老けては候へども、今、朝廷に何事も候はゞ、王城の南門は、某一人して警衛候べしと常言した所以である」

頼春水「贈高山彦九郎」

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ」。次回(平成27年1月号)より頼山陽の『日本外史』を取り上げる。その2回目では山陽の父春水と高山彦九郎、崎門学との関係についても書く予定だが、春水の「贈高山彦九郎」が吉村岳城『朗吟詩撰 下巻』(日本芸道聯盟、昭和11年)に収められているのを知った。次のような解釈が載せられている。
 〈私はかねてから高山彦九郎といふ人物はよく知つて居る。上州新田の細谷といふところで寸陰を惜しんで読書したこと、畑で鋤鍬を把る間も経書を放さなかつたのも、折あらば山野を跋渉して英気を養つたことも、孝心深くよく仕へたことも、天下を奔走して傑出した人物には千里を遠しとせず往いて訪ね、尊王の大義を説いたこともまた三條大橋に土下座して草莽の臣高山彦九郎と名乗り、泣いて 皇居を拝したことなどみんな識つて居たのだ。それがかうして相逢ふ仲となつて嬉しい。大に飲まう。そして大に志を論じよう。書を読んで読まないは第二の問題だ、根本第一は志だ。志あつてこそ書を読むんだ。志の無い奴が読書した處で何になる、害はあつても益にはならない。志が無くて読書した奴は腐儒にしかならない。志だ。志だ。〉