平成25年8月4日、崎門学研究会の折本龍則君とともに、東京雑司ヶ谷墓地にある内田周平(遠湖)先生の墓地をお参りした。
場所は都営荒川線雑司ヶ谷駅のすぐ近く(1─2号6側)。
安政4(1857)年浜松に生まれた内田先生は、明治19年に文科大学選科を卒業すると、井上円了らが設立した哲学館の講師となって、支那哲学と美学を講じるようになった。明治24年に学習院教授となり、翌25年には、熊本第五高等中学校(後の第五高等学校)教授に転じた。
明治28年4月に崎門学派の楠本碩水を肥後針尾島に訪れ、崎門学の継承へと進まれた。内田先生が崎門学者として生きる姿勢を鮮明にしたのが、明治40年12月15日に日比谷神宮奉斉会で挙行された山崎闇斎の正四位追贈奉告祭だった。
崎門学継承に人生を捧げた岡次郎(彪邨)先生については、『次なる維新の原動力」『月刊日本』平成25年7月号)で以下のように書いた。
前列右が岡彪邨先生
〈内田先生とともに崎門学継承に人生を捧げたのが、岡次郎(彪邨)先生です。
岡先生は、元治元(一八六四)年六月十二日、肥前平戸の松浦侯の藩士岡直温の次男として生まれました。号の「彪邨」は、二十歳代までいた日宇村に因んだものです。
父が、楠本碩水の兄端山に学んでいたため、岡先生も端山・碩水に学ぶようになりました。『楠本碩水伝』を著した藤村禅は「彪邨の学問の態度は単に教養を積むことや博識を求めることではなく、どこまでも真剣に人間の魂の依據となるべきものを朱子学に求めんとしたのである。そのために心性の理を自得体認すべく自ら工夫を凝らしたのであった」と書いています。 続きを読む 平泉澄先生の語る岡次郎(彪邨)先生 →
崎門学の継承に大きな役割を果たされた内田周平・彪村岡次郎両先生が師事したのが、楠本碩水。肖像画は、藤村禅著『楠本碩水伝』(芸文堂)の巻頭に掲載されているもの。
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート