「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

大川周明のアジア統一論

宋学によるアジア思想統一の歴史

近年、アジアの多様性を強調することによって「アジアは一つではない」と説いたり、日本文化の独自性を強調することによって「日本はアジアではない」と説いたりする傾向が目につく。こうした中で、大川周明が「大東亜圏の内容及び範囲」(『大東亜秩序建設』第二篇、昭和18年6月、同様の主張が『新東洋精神』昭和20年4月でも繰り返されている)や、「アジア及びアジア人の道」(『復興アジア論叢』昭和19年6月)で試みたアジア統一論の意義を、再評価する必要がある。
彼は、「大東亜圏の内容及び範囲」で、アジア各地で地方的色彩が豊かであることを認めた上で、「亜細亜文化の此の濃厚なる地方色と、亜細亜諸国の現前の分裂状態とに心奪われ、その表面の千差万別にのみ嘱目して、日本の学者のうちには東洋又は東洋文化の存在を否定する者がある」と指摘する。 続きを読む 大川周明のアジア統一論 →

農本主義関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
原宗子 「農本」主義と「黄土」の発生―古代中国の開発と環境 2 研文出版 2005年 古代中国の開発と環境 (2)
綱沢満昭 農の思想と日本近代 風媒社 2004年
武田共治 日本農本主義の構造 : 老農農本主義、官僚農本主義、教学農本主義、社会運動農本主義、アカデミズム農本主義の比較検討を通して 創風社 1999年
野本京子 戦前期ペザンティズムの系譜 : 農本主義の再検討 日本経済評論社 1999年
岩崎正弥 農本思想の社会史 : 生活と国体の交錯 京都大学学術出版会 1997年   続きを読む 農本主義関連文献 →

修験者・山本秀道の奉還思想

秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
 大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
 秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
 役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
 父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
 「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。

 しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
 大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
 さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。

南方系社会と神の森の信仰

『南の精神誌』の主張

 日本の神社の起源はどこにあるのか。南方系説を唱える岡谷公二氏は、『南の精神誌』(新潮社、2000年)において、次のように書いている。
「インドネシアは一般にイスラムを宗教としているが、バリはヒンズー教を信じるほとんど唯一の島である。しかしインドのヒンズー教とは大分様相が異り、土着の宗教と習合していて、どこか日本の古い信仰を思わせるところがある。プラとは、このヒンズー教の聖地で、寺と訳されることが多いが、あきらかに神社に近い。チォンディ・ブラタールと呼ばれる独特の割れ門や、プラをかこむ壁の表面にヒンズーの神々が所狭しと彫刻されていることも多いけれど、中には一切彫刻がなく、森だけのところもある。神域内の樹木は一切伐採を許されず、その上台風が滅多に来ない島なので、プラの森はどこも深い。とりわけワリギンと土地の人々の言うガジュマルの中には、想像を絶する巨木がある。そうした森が、棚田の彼方に浮かぶさまは、まさに鎮守の森だ。田舎で出会った、米の神を祀るというプラなどは、森の中に建物が一切なく、柱の上にのった小さな祠だけで、御嶽と少しも変らなかった」(190頁) 続きを読む 南方系社会と神の森の信仰 →

富士講・山岳信仰関連文献

富士講・山岳信仰の流れ

 我が国には、古来山岳信仰が受け継がれてきた。中でも富士山は、火を司る神霊の宿る山として崇められ、鎌倉時代には山岳修験者や庶民の富士信仰が結びついて、「登拝の山」となった。やがて江戸時代になると、富士講が結成され、組織的な富士山参詣が行われるようになる。そして、明治時代には、富士講は丸山教、扶桑教、実行教という形で古神道の中にも流れ込んだ。

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
大谷正幸編 木曽御嶽信仰―宗教人類学的研究富士講中興の祖・食行身禄伝―中雁丸豊宗『冨士山烏帽子岩身禄之由来記』を読む 岩田書院 2013/08 岩田書院史料叢刊 7
山の考古学研究会編 山岳信仰と考古学 同成社 2003年
菅原寿清 木曽御嶽信仰―宗教人類学的研究 岩田書院 2002年
品川区教育委員会編 品川の富士講と山開き行事 品川区教育委員会 2002年   続きを読む 富士講・山岳信仰関連文献 →

異教寛容の風土が育てた唐代文化

 正倉院には、聖武天皇の遺品や東大寺大仏の開眼供養献納品を中心にした宝物が伝世されている。調度品、仏具、遊戯具、楽器、文房具、服飾品、武器など、その数は9000点を超える。
この正倉院宝物は、中国唐代の美術を反映している。西谷正・九大文学部教授(考古学)は「宝物は、遣唐使などが利用した鴻臚館を経由して、正倉院に運ばれたと考えて間違いない」と指摘している。鴻臚館は、唐や新羅などの外国使節を迎えた大宰府政庁の外交施設(旧名称は筑紫館)で、跡地は福岡市の平和台球場付近。
唐代には、美術・建築だけでなく文学や音楽など、さまざまな文化が花開いた。日本の雅楽にも大きな影響を与えた中国伝統音楽の基礎ができ、才能のある女性たちを集めて楽器や歌、踊りも学ばせるための教坊ができたのもこの時代である。
鴻臚館跡地
http://www.port-of-hakata.or.jpより 続きを読む 異教寛容の風土が育てた唐代文化 →

大井一哲関連文献

 

著者 書名 出版社 出版年
大井一哲著 『大坂朝日毎日新聞不逞記事論評』 日本社会問題研究所 1928年
大井一哲著 『満洲独立論 : 満洲は支那の領土に非ず満洲は満洲人の満洲なり』 日本社会問題研究所 1928年
大井一哲著 『今が農民奮起の時』 日本社会問題研究所 1930年
大井一哲著 『政党亡国論』 日本社会問題研究所 1930年
大井一哲著 『農村盛衰と国家の興亡』 日本社会問題研究所 1930年 続きを読む 大井一哲関連文献 →

佐藤清勝関連文献

関連書籍

 

 

著者 書名 出版社 出版時期
佐藤清勝述 『断機慨録』 軍事教育会 1902年
佐藤清勝著 『世界に比類なき天皇政治』 忠誠堂 1930年
佐藤清勝著 『帝国国防の危機』 豊誠社 1931年
佐藤清勝著 『満蒙問題と我大陸政策』 春秋社 1931年
佐藤清勝著 『予が観たる日露戦争』 軍事普及会 1931年 続きを読む 佐藤清勝関連文献 →

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑩[完]

佐藤清勝は、現代政治(明治維新以降。執筆は昭和十八年)は天皇政治であると主張した。彼がそう主張した第一の根拠は、大日本帝国憲法が明治天皇の叡慮によって制定された欽定憲法だということである。そして、大日本帝国憲法は、天皇の大権、具体的には行政、司法、立法の大権、兵馬の権、宣戦講和の権、条約締結の権、文武官任免の権、栄爵賞典授与の権、大赦特赦等の権を確定したものだと説いた。
ところが、佐藤は政治の実態に強い危機感を覚えていた。彼は、現代政治は政党政治、議会政治に推移しつつあると指摘し、次のように政党、政治家に対する厳しい批判を展開したのである。
「……党利党益のみを顧みて、国利民福を念とせず、徒らに政争に没頭し、為めに議会は法律及び予算の審議協賛をなさずして、会期の大部分を政争の論難攻撃に費して居る、而して、議会に列する議員も亦、国家の利権を獲得し、国家の利益を壟断せんとし、賄賂公行、道義正に地に没せんとしつつある、斯の如きものによりて、国政を運用せんとするときは、一般の人民亦是に倣ひ、唯利益是れ追求し、道義廃頽し、人倫壊敗し、遂に、国家を挙げて救ふべからざるに至るのである、加之、議院政治、政党政治の余弊は、金権者万能を来し、為めに金権者流に好都合なる法律案のみを通過し、国家下層窮民の福祉を増進すべき法律案は却つて閑却せられ、為めに、下層の窮民をして、更に困憊せしめ、遂に、赤貧洗ふが如きものゝ多数を生ずることは、国家の慶事ではないのである……政治家は先づその倜黨の心を去つて、国家を思ふの心に復らなければならぬ、政治家は先づその私欲、権勢欲を去つて、天皇の大御心を体せねばならぬ」(三百二十頁) 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑩[完] →