反ジャーナリストの高橋清隆氏に「高橋清隆の文書館」(平成28年10月8日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただいた。
畏友の坪内隆彦氏が新著を発表された。山崎闇斎(あんさい)を祖とする崎門学(きもんがく)が、いかに明治維新の原動力となったかを、幕末の志士たちの生き様、いや死に様を通して明らかにしている。
坪内氏は自身が編集長を務める『月刊日本』で、平成24年7月から「明日のサムライたちへ」と題する連載記事を書いた。明治維新とその後の昭和維新運動にも影響を与えた10の國體思想の重要書を紹介されたが、同書はそのうちの5冊を軸に再編収録している。
具体的には、浅見絅斎(あさみ・けいさい)の『靖献遺言(せいけんいげん)』、栗山潜鋒(せんぽう)の『保健大記(ほうけんたいき)』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平(がもう・くんぺい)の『山陵志(さんりょうし)』、頼山陽の『日本外史』を指す。
「これらの書物なくして、明治維新はなかったと言っても過言ではないと考えています。これらの『聖典』には何が書かれていたのか、そして、志士たちの魂をいかに激しく揺さぶったのか、それを本書で解き明かしていきます」と始めている。
崎門学は、万世一系の天皇による親政を理想とする。闇斎は「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら垂加神道を樹立している。
闇斎は、皇政復古の志を出処進退によっても暗に示している。仕えていた会津藩主の保科正之が死去すると、会津藩の俸を辞し、亡くなるまで京の地を出なかった。弟子の浅見絅斎も「世は既に終身関東の地を踏まず、食を求めて大名に事(つか)へずと誓へり」と語っていた。 それにしても、武士の生き方は壮絶だ。収録の志士たちの最期も多分に漏れない。その1つとして、梅田雲浜(うんぴん)の例を挙げておく。小浜藩士の雲浜はペリー来航に危機感を抱き、藩主の酒井忠義(ただあき)に「藩政の得失と外寇防御」の上書を提出するも、怒りに触れて藩籍を奪われる。
雲浜は外国の打ち払いと、京都御所の警備を固めるため勤皇の志篤い十津川郷士の指導訓練に乗り出す一方、危険覚悟で条約反対と慶喜擁立、井伊直弼排斥を主張し、朝廷に入説。彼の行動は大きな成果を上げる。
しかし、危機感を抱いた井伊は弾圧に乗り出す。京都所司代に就いていた酒井忠義が雲浜逮捕に踏み切った。そうして拷問を受けながら節を曲げず、1年後に牢屋で生涯を閉じる。
雲浜は吉田松陰から「『靖献遺言』で身を固めた男」と呼ばれていた。この書には中国の忠孝義烈の志8人が紹介されているが、特に方孝孺(ほうこうじゅ)に影響を受けた可能性を坪内氏は指摘する。建文帝の側近として活躍していた方孝孺は、反乱を起こして権力を簒奪(さんだつ)した燕王・朱棣(しゅてい・永楽帝)に最後まで従わず、刀で口を裂かれ、獄門死している。
今の日本でも、国策逮捕と隠密殺人、それをごまかす偽報道は健在だと思っている。しかし、ほとんどの国会議員は死への恐れより、出世や欲得で本心に背く法案成立に従事しているように映る。議場の押しボタンロボットと化して。
天皇の「お言葉」を契機に皇室と政治の関係が再び問われている中、同書の出版に宿命を感じる。題名にある通り、GHQは崎門学やそれに続く水戸学の書籍流通を封じた。米国言いなりの政権が終わるかどうかは、捨て身の志士たちの生きざまを国民がどう捉えるかにかかっている。
中田耕斎氏が拙著『GHQが恐れた崎門学』のアマゾン・レビュー(平成28年10月6日)を書いてくれた。
「親から子に、師匠から弟子に脈々と國體思想の大義は継承、発展され、ついに明治維新に至った。
本書はこれを証明するために維新志士を鼓舞した5冊の本を取り上げ、その本の内容ばかりではなく、周辺の情報を織り交ぜながら、大義の継承の歴史を描いている。
補論として書かれた原田伊織批判、大宅壮一批判も秀逸で、大義からではなく権力闘争と利害関係からしか歴史を見れない不毛さを論じている。」
宮崎正弘先生にメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(平成28年9月29日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の紹介をしていただいた。
いまの皇室典範論争はまったくの不毛
山崎闇斎から開始された崎門学が現代日本に蘇る
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坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』(展転社)
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いま、こういう正統な著作が世に問われるということが時代の変化。世論の激変を象徴していると言える。
想えばGHQが発禁図書として日本精神を鼓舞し、皇室伝統を尊ぶあらゆる思想書を日本人の目に触れさせないようにした。およそ七千余もの名著が日本の書庫から、書店から消えた。
完全に消滅してしまったと想われていた正気の書物は、時を経て、ちゃんと復活するものなのだ。
とりわけ忘却の彼方にあったのは水戸学の源流とも言える「崎門学」派の人々。錚々たる学者、知識人、維新行動家の列伝ともなって、本書は思想書でありながら、一般啓蒙書でもある。本書を丹念に読めば、いま論じられている皇室典範議論など不毛の論争、基本を抑えない浅学なひとたちが侃々諤々したところで、結論もまた不毛であろう。そもそも国会議員風情が皇室典範を云々するとは歴史の錯誤である。
さて本書で坪内氏は、明治維新を導いた国体思想の系列を現代風に追求しつつ、国体の本義に迫る。中心に置かれるのは次の五冊である。
浅見絅斎『靖献遺言』
栗山潜鋒『保建大記』
山県大弐『柳子新論』
蒲生君平『山陵志』
頼 山陽『日本外史』
一般的に維新回天の思想的原点として扱われてきた藤田東湖、会沢正志斉らは、崎門学の中継を担った学者としての位置づけがなされ、源流は山崎闇斎、その系統から輩出した山鹿素行、そして国学としての本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵らと流れるわけだから、ちょっと出だしの毛色が違う。
山崎闇斎の崎門学の源流は北畠親房にまで遡及する。
七生報国、君は君たらずとも臣は臣足らざるべからずという忠君思想は北畠親房がはじめて体系化した。北畠は茨城に引きこもって著作に専念した。神皇正統記である。
数百年の歳月を経て、水戸学へ流れ込んだ。
浅見絅斎が著した『靖献遺言』は貞亭四年(1687)に書かれ、後に『勤王の志士の聖典』と呼ばれる書物、義烈英雄らの列伝を中国の英傑にもとめて徳川政府を暗喩し、その影響を受けたひとりが梅田雲濱だった。
雲濱は小浜藩士だったが、国防強化を説いて藩主の怒りに触れ、版籍を剥奪された巣浪人。柳川星厳、頼三樹三郎らと交わり天下国家のために奔走し始める。やがて安政の大獄で捕縛され、獄死した。
西郷隆盛は雲濱の獄死に際して、
「いまに生きながらえていたら、我々は執鞭の徒に過ぎない」と慨嘆した。
栗山潜鋒という学者は水戸光圀『大日本史』の編纂に関わった。今日まであまり名前が知られなかった。
栗山潜鋒の著作『保建大記』とは後西天皇の御子、尚人親王のご学友となった栗山が、後白河天皇の践祚から崩御までの38年間に皇室の衰微と武家の萌葱をもたらした戦国動乱の原因を遡及し考察したものだった。
長らく埋もれていたが、竹内式部が見いだし、浅見の『靖献遺言』とともに講義テキストに使って、志士の間に知られるようになったという。
ともかく維新前夜、草莽の志士らは、何を読んで何処に刺戟を受けて、国体明示のために立ち上がったのか。いのちをかけるほどの価値が、なぜそこにあるのかを、思想書を基軸に多くの志士の逸話をあつめて体系化した労作である。
大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 続きを読む 「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間 →
文麿に引き継がれた興亜思想
「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 続きを読む 近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志 →
大倉邦彦が県立佐賀中学校在学中の明治三十四年十月、上海の東亜同文書院の院長・根津一が来校して講演、清国情勢と我が国の政策について述べた。根津は、荒尾精の盟友として活躍した興亜思想の先駆者である。
邦彦はこの根津の講演を聞き、興亜の志を抱き、東亜同文書院に進学することを決意する。
ところが、母ヱツは「そんな遠いところに行かなくても」と、泣いて引き留めようとした。邦彦は、「単に東京の名に憧れて都の学校に入って職にありつくよりも、シナへ行って今に総督の顧問になる方が私に適っています」と母を説得、明治三十六年九月上海に赴き、東亜同文書院商務科に進んだのだった。
上海での体験は、若き邦彦に強い影響を与えた。晩年の邦彦と交流した、平泉澄門下の村尾次郎は、邦彦が上海などで目撃した光景について、次のように書いている。
「上海あるいは天津におります時分に、大倉邦彦は非常に深い悩みに閉ざされていたのです。当時の清国は列強の侵食するところとなっており、上海も天津も、大きな港は列強の利権の場所となっていました。(中略)大倉邦彦青年が散歩しながらつくづくと思ったのは、公園の入口に『犬と支那人は入るべからず』と書いてある、何と情けないことだ、自分の国の人間が犬以下に扱われるという清国の窮状、それはアジア全体の窮状であると思われました」(村尾次郎「創立者大倉邦彦の人と思想」『大倉邦彦と精神文化研究所』平成十四年、三十九頁)。
筆者が『維新と興亜に駆けた日本人』で取り上げた人物は、肇国の理想を現代において実現しようとした先駆者である。彼らは、幕末から明治・大正期を中心に活躍した。わが国が西洋列強に対峙したこの時代、肇国の理想に添って生きるとは、維新の続行・貫徹と興亜に尽くすことを意味したのではないか。彼らは欧米型の外交路線に抗い、藩閥支配、有司専制に対して民権を唱え、国権、自主独立の立場から列強との不平等条約に異を唱えた。興亜の立場から列強の帝国主義路線とは異なるアジア合邦を模索する一方、列強の植民地支配から脱しようとするアジアの民族独立運動を支援した。より具体的に言えば、朝鮮開化派のリーダー金玉均、辛亥革命を成功させた孫文、インドの志士ビハリ・ボースらを支援した。
彼らの中には、国体に合致した経済のあり方を模索し、大化の改新以来の王土王民論・奉還論によって資本主義の克服を目指した者も少なくなかった。 続きを読む 肇国の理想を現代において実現しようとした先駆者 →
平成25年末の安倍首相の靖国参拝以来、東京裁判批判を許さないというアメリカの意志が明確になってきた。もはや、戦後レジームからの脱却を目指すためには、アメリカとの思想闘争は避けられなくなった。
以下、『アジア英雄伝』の「はじめに」の関係箇所を引用する。
〈占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。 続きを読む 東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した →
南洲の魂を追い求めて─終生の愛読書『洗心洞箚記』
大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、頭山満のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいた。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦りはじめたときである。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになった。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところに入れていた。
「頭山先生が危ない!」
本間は咄嗟に頭山の身を案じた。川の流れは深くて速い。転覆すれば命にかかわる。
ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところに手を入れたまま、眉毛一つ動かさず悠然としている。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのである。「これが無心ということなのか」。
この体験を本間は振り返り、頭山が大塩平八郎の心境に到達していたものと信じていると書き残している。大塩は天保三(一八三二)年、中江藤樹の墓参の帰り、琵琶湖で暴風に遭い、転覆の危機に直面した。このときの教訓を大塩は、その講義ノート『洗心洞箚記』に記している。 続きを読む 頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ →
興亜思想と世界皇化
興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」 続きを読む 政府の外交と在野の興亜論者 →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート