平成26年12月9日、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』55頁(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)から輪読を再開。
周敦頤・程明道・程伊川、陰陽についてなど。
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山本七平『近代の創造』の中の『靖献遺言』
山本七平は『近代の創造』(PHP研究所、昭和62年)において、渋沢栄一の従兄弟で、その師でもあった尾高藍香のことを論じているが、藍香も手にしたと推測される『靖献遺言』を次のように位置づける。
〈『靖献遺言』『保建大記』『中興鑑言』が、さらに『大日本史』の通俗版ともいえる『日本外史』『日本政記』が明治維新を招来した「思想教科書」であるとは確かに言える。このうち前の三冊は朱子学の系統の崎門学であり、『中興鑑言』の著者三宅観瀾と『保建大記』の著者栗山潜鋒は水戸彰考館の一員で、共に闇斎・絅斎系すなわち崎門学系の思想家である。そしてこの浅見絅斎こそ山崎闇斎の弟子で尊皇の志士のバイブル『靖献遺言』の著者である。だが、これらの人々の思想は……朱子学系統であり、朱子の正統論を絶対化し、正統を護持するためには殉死も辞せずという強い正統論者であったことは共通している。一方水戸には光圀が招聘した中国からの亡命学者朱舜水がおり、その弟子が安積澹泊で水戸彰考館の総裁、要約すればこの二系統を統合したのが初期の水戸学である。しかし観瀾の後は余りたいした学者も出ず、このころは日本の思想に強い影響力をもっていたわけではない。
ところが藤田幽谷とその子東湖、さらに会沢正志などが出、斉昭がこの東湖によって水戸藩主となり、東湖を側用人、正志を侍読とすると共に、水戸は「思想的権威」のような様相を呈して来た。……だが会沢正志であれ、藤田東湖であれ、本来の姿は水戸藩の「お抱え学者」であり、藩に従属して禄をもらっている以上、浅見絅斎のような完全に自由な思想家ではあり得ない。彼らは「尊皇攘夷」は声を大にして口にしたが、「藩」そのものの否定はもちろん、幕藩体制否定の「倒幕」さえ明確には口に出来ず、その点、決して「倒幕のアジテーター」とはいえない。……尊皇思想を研究された三上参次博士は「一方に於て是書(『新論』や『常陸帯』)を読み一方に於て『靖献遺言』の所信を実行せば、皇政復古の大業の明治維新の際に於て成功せるも強ち異とするに足らざるべし」と記されている。いわば「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
そして発火点とは……「思想の真髄」いわば、天動説を地動説に変えてしまうような「心的転回」を起したときである。そうなれば『新論』も『常陸帯』も激烈な行動へと燃えあがる油にはなりうる。
そして多くの人の場合は発火点が『靖献遺言』であった〉
『日本外史』巻五新田氏前記①
『保建大記打聞編注』読了
平成26年11月21日、崎門学研究会で輪読を続けてきた『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注)を読了。同書に収められた、平泉澄先生の「保建大記と神皇正統記」を再読した。
ここで、平泉先生は四つの観点から『保建大記』と『神皇正統記』の類似性を論じ、両書にしばしば出てくる不諱不諛について次のように書いている。
「然しながらかくの如き直言不諱の態度は、第一には事実を直視して真相を把握しようとする学者の良心から出た事である上に、第二には諷諌をたてまつつて帝徳を輔翼し奉らうとする忠誠の至情より発する所である事を知らなければならぬ。神皇正統記の著者北畠准后が累代忠烈の家風を承けて、終身王事につくされた赤心は、今更いふまでもない所であるが、保建大記の著者栗山潜鋒にしても、崎門尊王の精神を受けて八条宮に仕へ、王政の衰微を慨歎してやまなかつたのであるから、其の丹誠は、もとより疑ふべくもない。且また……正統記が 後村上天皇に進献し奉つたものであり、大記が八条宮にたてまつつたものである事を思へば、此の不諱の直言は、実に御諌として考へなければならないのであり、従つて之を普通民衆を対衆として述作せられたる書物として考ふべきではなく、後に民間に流伝するに至つたにしても、本来の性質を考慮して読むべきものであり、それを考慮する事なくして、直ちに之を不敬の書とし、忌憚なき文として、非難するは、当らずといはなければならぬ」
栗山潜鋒『保建大記』と華夷の弁
華夷の弁(内外の別)は、山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎と続く崎門学正統派が強調してきたことだが、これは栗山潜鋒の『保建大記』に明確にしめされている。
同書後半で、潜鋒は次のように書いている。
〈臣愿曰く、華夷何の常(つね)か之れ有らん。華にして夷の礼を用ゐれば、則ち夷なり。夷にして華に進めば、則ち之を華にするは、古の制なり。〉
『保建大記』を解説した『保建大記打聞』で、谷秦山のこの箇所について次のように書いている。
〈華夷と云に、何の定りが有んや。孔子春秋の法、中国と云国も、夷狄の作法を用れは、すぐに夷狄とあしらひ、夷狄とあしらふ国も、中華の道にすゝめば、中華とあしらふ。是が古の法也。何釘づけの華夷あらんや。○韓文、原道に曰く、孔子之春秋を作れるを云也。諸侯夷礼を用いれば、則之を夷にす。夷にして中国に進めば、即ち之を中国にす〉(漢文は書き下し、カタカナはひらがなに改めた)
会沢正志斎墓参(平成26年7月8日)
平成26年7月8日、茨城県水戸市千波町2367の本法寺跡地にある会沢正志斎の墓にお参りに赴き、『新論』執筆の志に思いを馳せた。
墓表「旌正之碑」は青山延光撰。以下のURLに書き下し文が載っている。
http://www.geocities.jp/sybrma/458seishisaibohyou.kundoku.htm
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会沢正志斎『新論』の二面性

尾藤正英は『新論・迪彝篇』(会沢安著、塚本勝義訳註、岩波文庫)の解説(昭和43年)で、次のように書いている。
〈この思想体系は、本来の性格として支配のための思想であり、「上から」の政治改革の思想であった。しかしそれが過激な現状変革の運動に挺進した青年志士たちの心をとらえ、あたかも革命のイデオロギーとして現実に機能したかのようにみえるところに、大きな問題がある。現在の学界において、本書の思想の性格に関し、対立する二様の見解が成立して、平行線を描いているのも、その微妙な性格のとらえ難さによるのであろう。しかしこれを「封建的支配秩序の合理づけとしての名分論」にすぎないとし、専ら保守的性格のものとみる見解(遠山茂樹氏「尊王攘夷思想とナショナリズム」『尊攘思想と絶対主義』所収)も、逆にこれを「抵抗権」の論理をふくむ下からの革命思想と評価する見解(上山春平氏『明治維新の分析視点』)も、いずれも一面に偏した理解であるように私には思われる。前者では、この政治論にふくまれた革新性が見落される結果となり、後者では、これが支配の思想であったことに注意が向けられていないからである。むしろ本質において支配の思想であったものが、革命運動の主たるイデオロギーとして機能したところに、私たちは明治維新という特異な政治革命の性格を考察するための手がかりを見出すことができる筈であり、本書の内容は、そのような問題を追求するための一つの素材を提供しているのではないかと考えてみたい〉
「日本精神叢書」─國體思想の精華
文部省教学局編纂「日本精神叢書」の一覧
| 著者 | 書名 | |
|---|---|---|
| 1 | 河野省三 | 『歴代の詔勅』 |
| 2 | 植木直一郎 | 『古事記と建國の精神』 |
| 3 | 花山信勝 | 『聖徳太子と日本文化』 |
| 4 | 志田延義 | 『神樂・神歌』 |
| 5 | 藤岡繼平 | 『十訓抄と道徳思想』 続きを読む 「日本精神叢書」─國體思想の精華 |
興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈
会沢正志斎の『新論』は、文明史的視点を伴なった興亜論(アジア主義思想)の先駆的著作としても位置づけることができる。現在カイロ大学教授を務めるイサム・R・ハムザ(Isam R.Hamza)氏は、「日本における『アジア主義』」(『史学』2006年6月)において次のように書いている。
〈西欧列強の圧力が徐々に強まってゆくにつれ、日本の対外的危機感は次第に広まり、様々な海防論や攘夷論が著わされた。その中でも、一九世紀前半の鎖国下日本でアジアを含む世界認識の有様をうかがわせる著作は、水戸学派の会沢正志斎(一七八二~一八六三年)の名著『新論』をおいて他にはないであろう。……西欧列強の圧力への反発として当然自国の優越性の認識にむかう動きが生じてきた。会沢もそれを背景にし、世界における日本の位置付けとアジアについて、『新論』でこのように述べている。
「夫れ神州は大地の首に位す、朝気なり、正気なり
〈神州は本、日神の開きたまひしところにして、漢人、東方を称して日域となし、西夷もまた神州及び清・天竺・韃靼の諸国を称して、亜細亜と曰ひ、また朝国と曰ふ。皆、自然の形体に因りてこれを称するなり〉。朝気・正気はこれ陽となす、 続きを読む 興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈
会沢正志斎『新論』関連文献
| 著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | ページ | 出版時期 |
|---|---|---|---|---|---|
| 先崎 彰容 | 「日本」のナショナリズム : 会沢正志斎『新論』を読む | 新日本学 | 30 | 46-57 | 2013 |
| 桐原 健真 | 『新論』的世界観の構造とその思想史的背景 | 茨城県史研究 | 91 | 68-84 | 2007-02 |
| 桐原 健真 | 東方君子国の落日─『新論』 的世界観とその終焉 | 明治維新史研究 | 3 | 1-15 | 2006-12 |
| イサム R.ハムザ | 日本における「アジア主義」 | 史学 | 75(1) | 128-139 | 2006-06 |
| 倉持 隆 | 『新論』2巻 会沢正志斎(安)著 安政4年刊 安政5年正月 松平慶永(春嶽)自筆書入本 | Medianet | 13 | 69 | 2006 |
| 子安 宣邦 | 国家と祭祀(3)祭祀的国家の理念─『新論』と危機の政治神学(2) | 現代思想 | 31(11) | 8-15 | 2003-09 |
| 子安 宣邦 | 国家と祭祀(2)「天祖」概念の再構築─『新論』と危機の政治神学(1) | 現代思想 | 31(10) | 26-34 | 2003-08 |
| 安蘇谷 正彦 | 会沢正志斎の国家思想(中)の下─わが国初の国防論『新論』の神髄 | 日本及日本人 | 1632 | 76-86 | 1998-10 |
| 安蘇谷 正彦 | 会沢正志斉の国家思想< 中>─わが国初の国家防衛論『新論』の思想と意義 | 日本及日本人 | 1631 | 50-60 | 1998-07 |
| 三谷 博 | 「新論」覚え書き─〈「忠孝」の多重平行4辺形〉を中心に | 歴史学研究報告 | 22 | 1-26 | 1994-03 |
| 栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎をめぐって | 日本歴史 | 506 | 84-88 | 1990-07 |
| 栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎─註解「諳夷問答」 | 東京都立大学法学会雑誌 | 30(1) | 181-231 | 1989-07 |
| 前田 勉 | 「新論」の尊王攘夷思想─その術策性をめぐって | 日本思想史研究 | 19 | 15-32 | 1987 |
| 長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-5- | 相模女子大学紀要 | 49 | 41-54 | 1985 |
| 長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-4- | 相模女子大学紀要 | 48 | 33-44 | 1984 |
| 長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-3- | 相模女子大学紀要 | 47 | 41-52 | 1983 |
| 長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-2- | 相模女子大学紀要 | 46 | 37-49 | 1982 |
| 長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-1- | 相模女子大学紀要 | 45 | 31-41 | 1981 |
| 前田 光夫、安田 耿雄 | 「新論」における国家観 | 茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学 | 27 | 17-28 | 1978 |
