平成24年8月、浅見絅斎先生の墓参をした。
浅見先生のお墓は、京都市東山区の鳥辺山墓地(延年寺旧跡墓地)にある。ここは、大谷本廟墓地の管轄外で、清水へ至る道を登り、8区辺りから左方向に分かれる道を入っていく。(案内図、赤の辺り)
浅見先生のお墓にだけは屋根がついている。
墓の文字は、その書風から浅見先生の後継者、若林強斎によるものと、近藤啓吾先生は推測している。
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『崎門学報』第7号(平成28年4月30日)発行
崎門学研究会の『崎門学報』第7号(平成28年4月30日)が発行された。
今回も「靖献遺言を読む:文天祥」、「時論:核武装論」、「靖献遺言輪読会を終えて」など読み応えのある論稿が載っている。
『神皇正統記』は北条泰時を称賛しているのか?─親房論述の本意
北畠親房は『神皇正統記』において、北条泰時について次のように書いている。
〈大方泰時、心正しく政すなほにして、人を育み、物に憍(おご)らず、公家の御事を思ひ、専ら本所の煩(わずらひ)をとどめしかば、風の前に塵なくして、天下即ち静まりき。かくて年を重ねし事、偏(ひとへ)に泰時が力とぞ申侍るめる。陪臣として久しく権を取る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。義時いかなる果報にか、計らざる家業を始めて兵馬の権をとれりし、様(ためし)希なる事にや。されども才徳は聞えず、又大名(たいめい)の下に誇る心やありけん、中二年計りぞありし、身まかりしかども、彼の泰時相継ぎて、徳政を先とし、法式を固くす。己が分を計るのみならず、親族ならびにあらゆる武士までも誡めて、高き官位を望む者なかりき。其政次第のままに衰へ終に亡びぬるは、天命の了(をは)る姿なり。七代までたもてるこそ彼が余薫(よくん)なれば、恨む所なしと云ひつべし。およそ保元平治よりこのかたの乱りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかが成りなまし。此謂(いはれ)を能く知らぬ人は、故もなく王威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは、誤なり〉
果たしてこれは、親房が泰時を評価したと理解していいのだろうか。平泉澄先生は、『明治の源流』において、次のように述べている。
〈表面から之を読めば、いかにも泰時の人物徳操をほめたたへるやうに見えるであらう。然し正統記は、後醍醐天皇崩御の後、国難重畳の際に、わづか十二歳にして大統をつがせ給うた後村上天皇に、政治の御参考となり、君徳の御教養にお役立て申上げようとして、常陸の小田城に於いて著述して吉野へ御届け申上げた書物である。従ってそれは、一面最もすぐれたる歴史の名著であると共に、他面に於いては朝政訓誡の軌範であって、之を真に理解する為には、文字を表面に於いてのみ読まず、往々裏返しにして吟味する必要がある。
即ち正統記が頼朝や泰時をほめてゐるのは、朝廷に重大なる反省を要求してゐるのである。頼朝が幕府を開いた事を非難する前に、朝廷が武術を怠り、禍乱を鎮定する実力を失った事を歎かねばならぬ。泰時が勝利を得て政権を握った事を恨む前に、君徳四海をおほふ能はず、賊軍に加担する者の多かった事を反省しなければならぬ。是れが親房論述の本意である。それは良い訓誡ではあるが、直接泰時の行動に対する批判では無い〉
長野朗関連文献
書籍
著者 | 書籍写真 | 書名 | 出版社 | 出版年 | 備考 |
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武田知己・萩原 稔編 | 大正・昭和期の日本政治と国際秩序 | 思文閣出版 | 2014年1月 | 西谷紀子「長野朗の外事評論」収録 | |
平塚益徳著/長野朗著 | 近代支那教育文化史/支那の反帝国主義運動 | 日本図書センター | 2005 | (中国近現代教育文献資料集 佐藤尚子他編集、3 II . 欧米諸国の在華教育事業) | |
長野朗編著 | 支那事典 復刻 | 日本図書センター | 2003 | (中国問題資料事典 第2巻) 続きを読む 長野朗関連文献 |
北条泰時の不臣(承久の悲劇)を批判した崎門学派
明治維新を成し遂げた幕末の志士には、建武中興の挫折と、さらに遡って承久の悲劇、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に対する特別な思いがあった。だからこそ、明治六年には、御沙汰により、三天皇の御神霊を奉迎することとなったのである。御生前御還幸の儀を以て、厳重なる供奉を整えて、水無瀬宮へ御迎え申し上げ、三天皇を合せて奉祀した。
北畠親房の『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せたのは、崎門学だった。その重大な意義を、平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、次のように書かれている。
〈…神皇正統記をうけて、徳川政権下にもつとも端的明確に泰時を糾弾したのは山崎闇斎先生の学統をうけた人々であつた。崎門に於いて、北条がしばしばとりあげられ批判せられたことは、たとへば、「浅見安正先生学談」に
北条九代ミゴトニ治メテモ乱臣ゾ
また、
名分ヲ立テ、春秋ノ意デミレバ北条ノ式目ヤ、足利ガ今川ノ書は、チリモハイモナイ
などと見えることによつても明らかである。当代の人々ばかりでなく久しきにわたつて世人を瞞着した「北条の民政」は、こゝにはじめて 皇国の道義によつて粉砕せられたのであつた。この批判の語調のはげしさの理由は、もしわれわれにして皇民としての感覚を喪失せざる限り、たゞ年表を手にして
一二二一(承久三) 承久の役、後鳥羽・順徳・土御門上皇遷幸
一二三一(寛喜三) 上御門上皇阿波にて崩御、宝算三十七
一二三二(貞永元) 幕府式目五十一ヶ条を制定す
一二三九(延応元) 後鳥羽上皇隠岐に崩御、宝算六十
一二四二(仁治三) 北条泰時死
順徳上皇佐渡に崩御、宝算四十六
と読みあげるだけで十分了知できるであらう。
所謂「貞永式目の日」を 三上皇に於かせられては絶海の孤島にわびしくお過し遊されたのであるが、しかもこれほどの重大事を恐懼せず、慙愧することなくしで北条の民政をたゝへた時代がかつてあつたこと、否、それをたゝへる人々が現に史学界の「大家」として令名をほしいままにしてゐるのを思ふ時、それ等の人々の尊皇と民政を二元的に見る立場、不臣の行為すら「善政」によつて償はれるとする立場をきびしく批判した崎門学派の日本思想史上に占むる地位はおのづから明らかであらう〉
坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」
ポケット版『靖献遺言』を贈られた
度会延佳『陽復記』テキスト 5 崎門学研究会 輪読用資料
度会延佳の『陽復記』テキスト5。平重道校注(『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁)。
『陽復記』上(89頁)
抑(そもそも)堯舜の道の我国の神道に同き子細あり。日本の宗廟伊勢大神宮に伝る古書の中、天口事書(てんくじしょ)*云、「皇天(あめのかみ)、盟(ちか)ひ宣はく、『天皇、八坂瓊の勾(まが)れるが如くに、曲妙(たへ)なるを以て、御宇(あめがした)の政を治め、且つ真経津(まふづ=ますみ)*鏡の如くに、分明(あきらか)なるを以て、山川海原を看行(みそな)はせよ。即ち是の霊(あや)しき剣を提げて、天下を平げて、万民を利(かが)せよ」と言壽(ことほぎ)たまふ」とあり。是は皇孫尊(すめみまのみこと)此土へ天下りたまはんとせし時、皇天の三種の神宝を授たまひしに添られし御言なり。深き故もあるらめど、聞伝し計は八坂瓊とは八坂瓊の五百筒御統(みすまる)とて、大神の御ぐしにかけられし玉と云。八坂は玉の出し所の名、五百筒御統は数の玉をつらぬきたるものとなり。其外も説々あまたあれど、一説はかくのごとし。但勾(まがる)といへば其形まがれるにや。又玉のかたちの柔なるをいへるにや。只玉の事と心得てよ。
*天口事書 外宮神官度会行忠の撰した神風伊勢宝基珍図天口事書をもととし、鎌倉末期に設立した神道書。
*真経津 真は美称。経津は「ふつ」と読み「鋭い」の意か。
度会延佳『陽復記』テキスト 4 崎門学研究会 輪読用資料
度会延佳の『陽復記』テキスト4。平重道校注(『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁)。
『陽復記』上(88~89頁)
冠昏喪祭の礼も我国にしたがひてよ。但末代にて律令格式等の書も、家々に邪秘し他見をもゆるさぬ事なれば、しらぬ故ともいはんか。されど格式等も異国の法を考て、此国の古法に合て定たると見えたれば、吾国の古法のみにもあらず。今とても異国の礼を用るをひたすらあしきとも云がたし。同姓をめとらぬ事などは、我国の古法には見あたり侍らねど、唐よりは日本国は同姓をめとらぬ国としるしける、いかゞ聞傅るぞや。無実なる説なれどもいにしへは左様の人の我国にも多かりけるにや。此事ふかき子細あるべし。我国にも昔より藤氏ぞ天子の御外戚に定り給ふなれば、いにしへはさも有けるにや。仁徳天皇の御妹を后にそなへ給ふといふは、御妹を尊で皇后の尊号を授たまふまでなるを、記すものゝあしく心得て夫婦となり給ふやうに書たるはあやまりなり。御子なきにてしるべし。此誤を伝へ給ひ、敏達天皇も御妹を皇后にそなへ給て、御子も生給ふと或人のかたりし、さるあるべき事とぞ覚侍る。かやうの事はいくらと心なくあるべけれど、人のきかんもはゞかりあればもらし侍る。
崎門学の必読書、『靖献遺言』を読む会(平成27年11月21日)
〇開催趣旨
崎門学の必読書、『靖献遺言』を読む会 〇開催趣旨 『靖献遺言』は、山崎闇齊先生の高弟である浅見絅齊先生の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享4年、絅齊先生が33歳の時に上梓し、「君臣ノ大義」を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の生涯、並びにそれに関係付随する故事が、厳格な学問的考証に基づいて編述されております。絅齊先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣の大義名分を闡明し、それによって婉曲に幕府による武家政治を批判したのですが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、越前の橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われます。また今年生誕200年を迎えた幕末の志士で崎門学者の梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と評されました。
そこでこの度弊会では、この『靖献遺言』を熟読玩味し、崎門学への理解を深めることを目的とした勉強会を開催いたします。開催は月一を目途とし、テキストは近藤啓吾先生が著された『靖献遺言講義』(国書刊行会)を使用いたします。本テキストは、近藤先生による親切な現代語訳が付いておりますので、我々の様な初学者でも何とか理解できるようになっております。ついてはこの機会に、本書を通して崎門学を学びませんか。
〇日時 平成27年11月21日(土) 午後2時から午後5時まで
〇場所 浦安市中央公民館 浦安市猫実4-18-1
〇主催 崎門学研究会(代表・折本龍則、連絡先・090-1847-1627)