東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

 平成25年末の安倍首相の靖国参拝以来、東京裁判批判を許さないというアメリカの意志が明確になってきた。もはや、戦後レジームからの脱却を目指すためには、アメリカとの思想闘争は避けられなくなった。
 以下、『アジア英雄伝』の「はじめに」の関係箇所を引用する。

〈占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
 この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。
 欧米によるアジアの植民地化という歴史自体が、封印されたのである。勝岡寛次氏が『抹殺された大東亜戦争』(明成社)で紹介している通り、占領下の一九四六年一二月、姉崎正治は『國心民報』で次のように書いていた。
 「一六世紀以来、ヨーロッパ諸国は進撃の地に立ち、又しぼりとりをして、アジヤ諸国は受身になった。ヨーロッパの支配力は十九世紀の終まで段々進んできたが、それ以来世界のうごきに変化が生じ、アジヤ諸国民の覚醒が起こり、その反抗はたかまつて来たが、同時に合衆国の勢力は極東に地歩をしめ(中略)此が東洋諸国民古来の伝来を爆破する力をも呈した」
 こうした言論すら検閲によって、削除の対象となっていたのである[i]。さらに、アメリカは、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封』で明らかにしている通り、戦勝国側に不都合な日本の出版物を没収(Confiscation)した。まさに、「焚書」が行われていたのである。
 GHQは一九四六年三月一七日に、「宣伝用刊行物の没収」と題した覚書を日本政府に突きつけ、終戦直後までに出された刊行物の中から、七七六九点を没収の対象に指定していた。本書で取り上げたビハリ・ボースと石井哲夫による『印度侵略悲史』(東京日日新聞社)をはじめ、欧米のアジア侵略、植民地支配、大東亜戦争開戦の真相、日本の興亜思想、国体思想等に関する出発物が対象となっていた[ii]。
 このような徹底した検閲と焚書を進めた上で、GHQは露骨な洗脳工作を開始した。その際、重要な役割を担ったのが、GHQの部局の一つとして文化政策を担当していた民間情報・教育局(CIE)である。彼らは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(War Guilt Information Program=WGIP、戦争犯罪宣伝作戦)を策定し、日本人に、敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底させるよう命令した。
 高橋史朗氏は、WGIPについて、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と主張している[iii]。
 WGIPの命令に沿って、「太平洋戦争史」の連載や「真相はかうだ」の放送が開始された。「太平洋戦争史」は、アメリカ国務省の編纂文書『平和と戦争』(一九四三年)などに基づいて、CIEのスミス企画課長が書いたもので、各新聞に一斉に掲載させた。連載終了後、その内容は中屋健弌訳で一九四六年に高山書院から刊行されている。
 一方、「真相はかうだ」は、真珠湾攻撃四周年にあたる一九四五年一二月八日にあわせて、九日に始まり、翌年二月一〇日まで毎週日曜午後八時のゴールデンタイムに全一〇回、NHKで放送された。CIEのラジオ課が、脚本、演出を手がけた。「太郎君」の質問に「文筆家」が「戦争犯罪人」らの罪状を暴露するという体裁をとっていた。ここで、南京事件は日本人に罪悪感を植え付ける格好の材料とされた。「大虐殺。南京では一度や二度ではない。何千回となく行われたんだ」というセリフが、四回にわたり挿入されている。
 さらにGHQは、一九四五年一二月一五日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を指示する覚書を出し、「大東亜戦争」や「八紘一宇」の用語を禁止した。こうして、「大東亜戦争」という言葉さえもが封印されたのである。その結果、ごく一部の人物を除き、本書で取り上げた志士たちの反抗の歴史もまた、顧みられないようになっていったのではなかろうか。本書の元となった連載「アジアの英雄たち」執筆の動機の一つは、その封印を解き放つことにあった。
 こうした状況で筆者が頼りにしたのが、「焚書」の対象となった戦前の文献である。中山忠直『ボースとリカルテ』、頴田島一二郎『オッタマ僧正』など、戦時期に書かれた文献は、若干の脚色が散見されるとしても、戦後封印された志士たちの闘争の真実を記録していると思う。
 志士たちの亡命生活、潜伏生活の後は、辛うじて残されている。例えば、芝三田南寺町(現三田四丁目)の願海寺の境内には、いまもフィリピンの志士ベニグノ・ラモスの家族が住んでいた洋館風の住居が残されている。浜名湖大草山の展望台の脇には、アウン・サンの潜伏を思い起こさせる「ビルマゆかりの碑」が建っている。

[i]勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争─米軍占領下の検閲が歪めたもの』明成社、二〇〇五年、六三、六四頁。
[ii]西尾幹二『GHQ焚書図書開封─米占領軍に消された戦前の日本』徳間書店、二〇〇八年。
[iii]『産経新聞』二〇〇五年八月四日付朝刊。〉

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