拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。
②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。
③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。
⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。
拙著『GHQが恐れた崎門学』発売直後の平成28年10月上旬、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生のお宅に、同書上梓の御報告と御礼に伺いました。崎門学研究会代表の折本龍則氏にも同行していただきました。
近藤先生の研究の蓄積と御指導なくして、到底本書を書くことはできませんでした。拙著「あとがき」でも次のように書かせていただきました。
〈…『靖献遺言』の理解においては、崎門学研究会を主宰する折本龍則氏とともに、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』をテキストとして、平成二十三年から一年以上に亘って輪読会を継続いたしました。そのきっかけを作ってくれた折本氏には、今回「いま何故、崎門学なのか」と題してお書きいただきました。心より感謝いたします。
平成二十四年十月中旬に、輪読会、勉強会で解決できなかった不明点、疑問点を整理して、近藤先生に書簡を出させていただきました。同年十二月五日、先生は小生の訪問をお許しくださいました。その際、『靖献遺言』を読む際に重要な「厳かな気持ち」「謙虚な気持ち」について教えていただきました。
その後、書簡、訪問を通じて先生からは、誠に貴重なご教示を繰り返し頂戴するのみならず、平成二十五年五月二十三日に訪問させていただいた際には、「崎門の学を学ぶには」と題して、七枚に及ぶ丁寧な手引き書を賜りました。近藤先生の研究成果なくして、到底本書を書くことはできませんでした。
近藤先生に出版の報告をさせていただいたところ、有り難くも、以下のような書簡を頂戴することができました。
「貴編再読三読致しました。出版される書物数限りないものの、古人を論ずるもの、古人を自分と同列に引き下げ、中には却て自分以下に見降して勝手に評論するもの多くなるを歎いてをりましたところ、高文の古人に敬虔なるを拝見し、洵にうれしく思ひました。その上これを出版して下さる書肆のあること、よろこびと感謝の限りです」〉
御礼に伺った際、近藤先生は書名に聊か驚かれ、「思い切った書名をつけましたね」と仰いましたが、その後全体に目を通された上で、「よく書いてくれました」とのお言葉を賜ることができました。これほどありがたいお言葉はありません。
本書を通じて、崎門学の説く日本國體の真髄、明治維新の本義が、一人でも多くの国民に理解されることを望むのみです。
以下に、筆者が繰り返し学び続けている近藤先生の主要著作を紹介しておきます。 続きを読む 近藤啓吾先生の御指導と『GHQが恐れた崎門学』 →
崎門学研究会の『崎門学報』第7号(平成28年4月30日)が発行された。
今回も「靖献遺言を読む:文天祥」、「時論:核武装論」、「靖献遺言輪読会を終えて」など読み応えのある論稿が載っている。
『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。
〇開催趣旨
崎門学の必読書、『靖献遺言』を読む会 〇開催趣旨 『靖献遺言』は、山崎闇齊先生の高弟である浅見絅齊先生の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享4年、絅齊先生が33歳の時に上梓し、「君臣ノ大義」を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の生涯、並びにそれに関係付随する故事が、厳格な学問的考証に基づいて編述されております。絅齊先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣の大義名分を闡明し、それによって婉曲に幕府による武家政治を批判したのですが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、越前の橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われます。また今年生誕200年を迎えた幕末の志士で崎門学者の梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と評されました。
そこでこの度弊会では、この『靖献遺言』を熟読玩味し、崎門学への理解を深めることを目的とした勉強会を開催いたします。開催は月一を目途とし、テキストは近藤啓吾先生が著された『靖献遺言講義』(国書刊行会)を使用いたします。本テキストは、近藤先生による親切な現代語訳が付いておりますので、我々の様な初学者でも何とか理解できるようになっております。ついてはこの機会に、本書を通して崎門学を学びませんか。
〇日時 平成27年11月21日(土) 午後2時から午後5時まで
〇場所 浦安市中央公民館 浦安市猫実4-18-1
〇主催 崎門学研究会(代表・折本龍則、連絡先・090-1847-1627)
明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。その背景には、スキャンダルがあったのだが、欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったと見ることもできる。
天心の受けた打撃は大きかった。しかし、ようやく天心は民間の自由人としてみずからの理想を追求できるようになった。ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。 ――自分たちは、あくまでも先生についていきます。
天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心とともに歩んでいくことを決意していた。
10月15日、「新時代における東洋美術の維持、開発」を高らかに掲げ、日本美術院はスタートをきった。開院式に合わせて記念展覧会が開催された。人々は、会場に飾られた大作に注目した。 続きを読む 岡倉天心と屈原 →
以下、崎門学研究会の告知を転載する。
今年は幕末の志士、梅田雲浜(うめだうんぴん)先生の生誕200周年です。梅田先生は文化12年(1815)、若狭小浜藩の出身です。早くから京都や江戸に遊学し、江戸時代の中期の儒者、山崎闇斎が創始した崎門学を修め、天保24年、先生29歳の時には、京都にある望楠軒という塾の講主(塾長)に就きました。この望楠軒は、崎門派の若林強斎が忠臣楠公を仰いで命名した塾であり、君臣内外の大義名分を正し尊皇攘夷を説く崎門の学風によって天下の志気を鼓舞しました。
先生の生涯は、吉田松陰が「『靖献遺言』で固めた男」と評した通りに崎門学の精神に貫かれ、一介の浪人として困窮生活を強いられながらも、海内の志士に尊皇論を鼓吹して王政復古の端を開きました。なかでも、独断で不平等条約に調印した井伊大老の非を責め、幕府に痛撃を与えた「戊午の勅定」は、梅田先生の朝廷への働きかけによるものとされています。このように、先生は顕著な活躍をしましたが、それが故に幕府から尊攘派の主魁と目され、安政の大獄では、およそ百二十人いたとされる検挙者のなかで最初に検挙されました。そして幕府による過酷な取り調べの末、安政6年の9月14日に獄死し、亡骸は現在の東京台東区にある海禅寺に埋葬されました。 続きを読む 梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ →
待望の『崎門学報』第4号が平成27年7月31日に刊行された。
堅い内容ながら、日本を救う鍵がここにあると筆者は信じている。
10カ月前の平成25年10月1日に創刊された同誌は、崎門学研究会(代表:折本龍則氏)が刊行する会報である。創刊号では、発行の趣旨について、折本氏が「いまなぜ崎門学なのか」と題して書いている。
まず、山崎闇斎を祖とする崎門学の特徴を、「飽くまで皇室中心主義の立場から朱子学的な大義名分論によって『君臣の分』と『内外の別』を厳格に正す点」にあり、「主として在野において育まれ、だからこそ時の権力への阿諛追従を一切許さぬ厳格な行動倫理を保ちえた」と説いている。
さらに、肇国の理想、武家政権による権力の壟断の歴史から明治維新に至る流れに触れた上で、戦後日本の醜態を具体的に指摘し次のように述べている。
「我が国は、今も占領遺制に呪縛せられ、君臣内外の分別を閉却した結果、緩慢なる国家衰退の一途を辿っているのであります。
そこで小生は、この国家の衰運を挽回する思想的糸口を上述した君臣内外の分別を高唱する崎門学に求め……闇斎の高弟である浅見絅斎の『靖献遺言』を読了し、更にはその感動の昂揚を禁ずること能わず、今日における崎門正統の近藤啓吾先生に師事してその薫陶を得たのでありました。最近では同じく崎門学の重要文献である栗林潜鋒の『保建大記』を有志と輪読しております」
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『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート