飛び上がるように驚いた池田外相
1996年3月、アジアとEU首脳との第1回アジア欧州首脳会議(ASEM)が開催されることになり、その議題や運営方法などを事前に話し合う目的で「ASEANプラス日中韓」という枠組みの閣僚会議が開催された。
1997年12月には、「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催された。このときも、日本は消極的姿勢を示していたが、ASEAN側が日本が不参加ならば、中国、韓国だけと会談を開催するとの立場をとったために、参加に踏み切ったとされている。
古川栄一は、「日本はEAECに参加しないから、EAECは自然死すると豪語した。アセアン側は、そこで日本抜きで、しかも中国(および韓国)の参加のみでEAECの首脳会議を開催することにした。そうして日本の池田外相は、跳び上がるようにして驚いて、日本は首脳会議に参加した」と書いている(古川栄一「アジアの平和をどう築きあげるか」(歴史教育者協議会編『歴史教育・社会科教育年報〈2001年版〉二一世紀の課題と歴史教育』三省堂、2001年、24頁)。
産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じている。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」
この時点で、アメリカは実質的なEAEC首脳会議に反対しなくなっていたのである。この変化には、アジア通貨危機によるアジア経済の回復を優先せざるを得ないという事情があったと見られる。経済危機克服のための自発的な会合を妨害するようなことは、アメリカとしても避けねばならなかったのだろう。
そして1999年11月にはマニラでASEAN+3首脳会議が開催され、初めて共同声明が発表された。声明は「ASEANと中国、日本、韓国は、東アジアと世界の相互理解、信頼、善隣、友好、平和、安定、繁栄に向け、対話を促進する」と謳った。
2000年に入り、ASEAN+3の閣僚レベル会合も頻繁に開催されるようになった。2000年5月2日にはヤンゴンで初の経済閣僚会議が開催され、5月6日にはチェンマイで蔵相会議が開催された。さらに7月には、バンコクで初の外相会議も開催された。
この間、毎日新聞社の大野俊記者は、次のように報じている。
「EAECが実質、動き出している。ASEAN、日本、中国、韓国などが政策協調を進める協議体構想。マレーシアのマハティール首相が提唱したが、そこから排除される米政府が『太平洋を真っ二つに分断するもの』と猛反対し、棚上げ状態にあった。それが、提唱から10年を経てやっと機能し始めたのだ」(『毎日新聞』2000年5月22日付朝刊)。
2000年11月にシンガポールで開催されたASEAN+3首脳会議では、日中韓とASEANによる「東アジア自由貿易圏」の創設に向けた作業部会の設置、「東アジアサミット」の開催を検討することでも合意した。この会議ではまた、民間レベルのEAVGに加え、官僚レベルのEASG設置することが決まった。
2001年11月にはブルネイの首都バンダルスリブガワンで、ASEAN+3首脳会議が開催されたが、この会議に向け、関係国の有識者で構成する「東アジアビジョングループ」が、ASEANと日中韓を軸にEUのような共同体をつくること、通貨危機発生を防ぐため「東アジア通貨基金」を創設すべきであること──などを訴えた提言をまとめた(『日本経済新聞』2001年10月30日付朝刊、提言執筆には吉富勝氏(アジア開発銀行研究所長)も参加した)。
会議では、テロ対策が議論されるとともに、東アジア自由貿易地域(EAFTA)の設置や東アジアサミットの実現についても話し合われ、2002年の首脳会議までに最終案をまとめることになった。
ASEAN+3は、経済協力、通貨問題などで、実質的な議論を展開し、もはや不可欠な討議の場となっているのである。日本政府が、実質的なEAEGであるASEAN+3関係の会議への参加を続けてきたのは、中国経済の勃興という趨勢を認識しているからでもあろう。
日本抜きで、中国とASEANが経済関係を緊密化していくことを恐れているからである。こうした事態は、アメリカにとっても望ましいことではない。こうして、アメリカはこの実質的なEAECに反対することは難しくなったのである。
それ以上に、2001年9月11日の同時多発テロ事件がアメリカに与えた影響が大きい。
アジア太平洋の秩序形成を自ら主導すること以上に、自国の安全保障を確保することが重要だという当然のことに気づいたのである。アメリカ主導のグローバリゼーションに対する反発の強いイスラーム世界の有力リーダーであるだけでなく、穏健なイスラームの手本ともなっているマハティール首相の主張に耳を貸すことの意義を認めたのではなかろうか。
2002年5月14日、マハティール首相はブッシュ大統領の招待に応じて訪米、同大統領と会談した。ブッシュ大統領は、マハティール首相との共同記者会見で「今回の来訪に際し、反テロリズム活動でのマハティール首相の強力な支持に対して、公式に謝意を述べる用意をしていた」と率直に語っている。
こうしたマレーシアとアメリカの関係正常化を背景に、ついにEAECは実現に大きく前進した(詳しくは、拙稿「日本は東アジア経済グループを主導せよ」 『日本及日本人』1645号、2002年盛夏号)。
その後も、アメリカ国内の一部には東アジア共同体警戒論があったが、アメリカ政府の立場はより柔軟になってきている。2005年2月19日の日米安全保障協議委員会共同発表(ライス国務長官、ラムズフェルド国防長官、町村外務大臣、大野防衛庁長官)は、「地域メカニズムの開放性、包含性及び透明性の重要さを強調しつつ、様々な形態の地域協力の発展を歓迎する」と謳っている。
この共同発表に関して、「東アジア共同体評議会」有識者議員を務める神保謙氏は、2008年10月15日に開催された同評議会第29回政策本会議において、外務省地域政策課が次のように発言したと語っている。
「これは明らかに、東アジア共同体構想というものが開放性を担保した上で推進していくということであれば、これをアメリカは歓迎する用意があるということの理解に達したんだということについて、いわゆる国務省・国防総省と、日本側のカウンターパートがそのような理解に達しているということを示したものだ」
この間、2004年7月1日には、ジャカルタでASEAN+3外相会議が開催され、東アジア共同体実現に向け、ASEAN+3の枠組みを発展させた「東アジアサミット」(ASEAN+6)を開催することで合意した。
2004年11月29日には、ラオスのビエンチャンで開いたASEAN首脳会議で、2005年12月にクアラルンプールで初めての「東アジアサミット」を開催することで合意した。2005年5月6日に京都で開催されたASEAN+3非公式外相会議では、東アジアサミットへ東南アジア友好協力条約(TAC)に加盟しているインドが参加することを認めることで一致した。オーストラリアとニュージーランドも、TAC加盟を条件として参加を容認する方針を確認した。
こうして2005年12月14日、ASEAN+3に、インド、オーストラリア、ニュージーランドを加えた16カ国による東アジアサミットがクアラルンプールで開催された。しかし、東アジアのアイデンティティ、東アジアの価値観といったテーマを議論してきたASEAN+3の歴史を重く見る国にとっては、アジアではないオーストラリアの参加が決まった時点で、東アジアサミットと東アジア共同体は切り離されたのではないだろうか。
2002年11月のASEAN+3に提出された東アジア・スタディ・グループ(EASG)最終報告書の「社会・文化・教育協力」の一項には、「東アジアの強いアイデンティティと東アジア人としての意識を促進するために、文化・教育関連組織と共同作業をすること」が掲げられており、ASEANの歩みを次のように明記している。
「1992年にシンガポールで開催された第4回ASEAN首脳会議は、ASEANのアイデンティティと主要なASEANの大学の連帯を発展させる取り組みを加速させる必要性を強調した。
これを前提として、ASEANのアイデンティティを促進する試みが、東アジアのアイデンティティの発展に道を開いた」
つまり、この東アジアのアイデンティティが改めて意識された瞬間、東アジア共同体の議論は、非アジア国家を含むことになった東アジアサミットではなく、ASEAN+3を主要な舞台として進めるべきであるという考え方が、ASEANの多数派の意見となった。このASEANの立場を強く支持したのが中国である。
だからこそ、2005年12月14日に開催された東アジアサミットは、この会議の枠組みを「東アジア共同体形成に重要な役割を果たしうる」との表現に留めたのである。
これに対して、その2日前の12月12日に開催されたASEAN+3首脳会議でまとめられたクアラルンプール宣言は、この枠組みこそを「東アジア共同体達成の主要な手段」と明記した。また、「われわれは、『われわれ』意識の形成を目指した人と人の交流を強化する」、「われわれは、東アジア諸国の学生、学者、研究者、芸術家、メディア及び青少年の間の更なる相互交流を通じた考え方の共有を促進する」と謳いあげた。
むろん、東アジアサミットとASEAN+3首脳会議の綱引きは、主導権を握りたい中国とそれを避けたい日本という対立と絡んでいた。しかし、より本質的な対立は東アジアのアイデンティティを重視するか否かだったのではないか。いずれにせよ、東アジア共同体論議はASEAN+3首脳会議が主要な手段であることが確認された事実をいかなる国も無視することはできない。
大阪市立大学大学院教授の山下英次氏は、次のように日本政府の姿勢を批判している。
「アメリカを安心させ、中国を牽制しようと考えた日本政府が参加国の拡大を提案したため、13カ国の「ASEAN+3」と16カ国の東アジア・サミットの2つの枠組みが並行して動くことになってしまったのである。EASG最終報告書は、2002年11月、プノンペンで開催された第6回「ASEAN+3」サミット(日本からは小泉総理が出席)で正式に合意されたものであり、日本政府のEASの参加国拡大提案はこの首脳同士の国際合意を反故にするものである。筆者は、事あるごとにこうした日本政府のいい加減で思慮の浅い政策スタンスを厳しく批判してきた。このように、枠組みが2つできてしまったため、勢力が分散され、その後2、3年はアジア地域統合の進展は停滞した。欧州は、当初、6カ国から始めたわけであり、13カ国でも、地域統合を始めるには国の数が多すぎる。また、オセアニアを入れると、ただでさえ、薄いと言われているアジアのアイデンティティーがますます弱まることとなる。日本政府は、全く余計なことをしてしまった」(『月刊日本』2009年12月号)
「+3」が主流に
2009年8月30日~9月1日にソウルで開催されたNEAT第7回年次総会に参加した、東アジア共同体評議会副議長の進藤榮一氏は、同評議会の第34回政策本会議(9月28日)で、「東アジア共同体構築の基礎は、ASEAN+3なのか、あるいは+6かという議論が続いてきたが、ここにきて前者が主流になりつつあると感じた」と語っている。
一方、独協大学の金子芳樹教授は、EAEC構想に関して、「大国主導の国際秩序、西欧的価値観の普遍視、価値やライフスタイルなどについて欧米が上でアジアが下という暗黙の評価基準といった、現在の国際社会の価値体系を一気にブレークスルーしたいという意図がEAEC構想の中には含まれていたのではないか」、東アジア共同体のメンバーにオーストラリアとニュージーランドを入れるという日本の発想について、「コンセプトの不明確な中途半端な枠組みをつくって何ができるのか、と問いたくなるのはマハティールだけではないでしょう」「この枠組みについて説得力のある説明がなされない限り、結局のところ、可もなく不可もなく、そして実もなくに終わり、力強い歩みに発展するのは難しいのではないかと感じる」と語り、東アジア共同体には文明史的意義があると指摘している。
2009年9月9日には、民主党、社民党、国民新党が「3党連立政権合意書」で、「中国、韓国をはじめ、アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し、東アジア共同体(仮称)の構築をめざす」と謳った。同月発足した鳩山政権は東アジア共同体を推進する姿勢を示した。
東アジア経済グループが、東アジアのアイデンティティ確立という歴史的使命を伴いつつ、参加国全ての平和と繁栄を支える機構に育つだけでなく、ひいてはそれが世界全体に寄与することを期待したい。