マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負

マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負
『日馬プレス』269号、2004年3月1日

欧米のブロック化を牽制
1990年12月10日、マハティール首相はマレーシアを訪問した中国の李鵬首相の歓迎晩餐会で演説し、次のように述べた。
「欧米経済のブロック化という不健全な傾向が強まっている。それが公正で自由な貿易を妨げようとしている。私は、出来ることならそうしたくはないのだが、欧米の経済ブロックに対抗するために、アジアも自分たちの経済ブロックを組織して、経済的結びつきを強めなければならないと考えるようになった。そこで中国は重要な役割を演じるべきだと信じている」
当時、欧州共同体(EC、1993年に欧州連合=EUに改称)は経済統合を推進し、一方アメリカはECのブロック化を牽制しつつ、着々と北米自由貿易協定(NAFTA)へ向けて動いていた。アメリカは、1988年1月にカナダと米加自由貿易協定に調印、1990年8月にはメキシコと自由貿易協定締結交渉の開始で合意した。その後、1992年8月にアメリカ、カナダ、メキシコはNAFTAの協定案に合意している。
マハティールの提案は、東アジア経済グループ(EAEG)構想と名づけられたが、それは排他的なものを意味していたわけではない。東アジア諸国が経済問題を話し合う緩やかな討議の場が想定されていたに過ぎない。EAEGは、直接的には日米欧間の貿易交渉の頓挫といった事態に対応して、アジア各国が先進国との貿易交渉に備えなければならないという危機感に発していた。というのは、マハティールが李鵬を迎える3日前の12月7日、ブリュッセルで開かれたウルグアイ・ラウンドの閣僚会議が、農業分野での対立が解けずに交渉中断となり、展望が見えないまま1991年へと先送りされていたからである。

EAEGの文明史的意味
むろん、EAEGには文明史的な意味が内包されていたとの見方もある。それは、欧米の価値観を基礎にして形成される経済秩序ではなく、平等、相互尊重、相互利益の原則による経済秩序を形成したいというアジア人の意志に支えられている。例えば、1994年5月の太平洋経済委員会総会で、マハティールは次のように述べている。
「私たちが建設しなければならないのは、太平洋ゲマインシャフト(共同社会=筆者)です。太平洋は、人口的な国家関係ではなく、村・家族・友人のような関係として結び付くグループを建設しなければならないのです」
こうした考え方は、戦前の日本の興亜論者が構想した共栄圏に通ずるものがある。それはむしろ、日米開戦後に日本政府が「大東亜共栄圏」を喧伝する以前に存在した、在野の亜細亜合邦構想に近いものであろう。
確かに、興亜の理想と挫折の歴史を知るマハティールのビジョンとEAEGとは密接に関わっている。そのビジョンとは、列強の植民地だったアジアが真の独立を回復し、主体的な意志で自らの繁栄を勝ち取ることにほかならない。
だが、アメリカはEAEGをブロック化構想だと断じて、それを葬り去ろうとした。これは、戦前の日本の亜細亜合邦論の再否定をも意味するものだったのではないか。

ベーカーのEAEGつぶし
EAEG封じ込めを先導したのは、ブッシュ(父)政権の国務長官ジェームス・ベーカーである。彼は、いまも共和党内で一定の影響力を持つとともに、投資会社カーライル・グループの顧問を務めている。
1991年7月に、ベーカーはASEAN拡大外相会議に出席するためクアラルンプールを訪れ、「アメリカには、太平洋は西と東、つまり、欧米とアジアを隔てるものだとの認識が依然として根強い。あなたの考えは、この分離主義を刺激し、太平洋に線を引くものだ。それは、日本とアメリカの分断につながる」と激しくマハティールを批判した。そして、ベーカーは、日本政府にはEAEGに反対姿勢をとるよう求める書簡を送りつけた。
だが、マハティールは怯まなかった。1991年9月の国連総会では「アメリカがNAFTA作りを進めていながら、一方でEAEGに反対するのは、背景に人種差別的な偏見がある」とやり返した。
この指摘は、軽視できない。列強の植民地支配がアジアやアフリカに対する差別意識と無縁でなかったように、アジアの主体的な動きをつぶそうとする傲慢なアメリカの態度の背景には、アジアの秩序はアメリカが形成するのだという驕りが見え隠れするからである。
マハティールは、EAEGの「グループ」という表現が誤解を与えると判断し、1991年10月に、わざわざ協議体(CAUCUS)を意味するEAECに改称までし、アメリカの警戒感を解こうとした。それでも、アメリカはEAECつぶしに執念を燃やした。それに呼応していたかに見えるのが、日本の外務省北米局である。1991年11月5日に、渡辺美智雄が外相に就くや、北米局幹部はEAECに反対するよう進言している。そして、その直後の11月11日のベーカー訪日の際に、日米は「アメリカが入らない組織には、日本も入らない」と事実上のEAEC不参加の密約を交わしたとも報じられている(『毎日新聞』1991年11月29日付朝刊)。
実は、この会談でベーカーは、マハティールの民族衣装までも槍玉にあげている(『毎日新聞』1991年11月29日付朝刊)。これに対して、マレーシア国防省の官僚は、アメリカの官僚の訪問を玄関払いにし、広報省はアメリカ産りんごのテレビ広告の放映を禁止したといわれている。
マハティールは、1992年10月には、「アメリカがEAECに反対するのはダブルスタンダードである。環大西洋諸国からなるECに対して、アメリカはEAECに対するようなクレームをつけなかった。他の地域のグループ結成が許されて、何故東アジアだけが許されないのか」と述べている。この間、日本政府はEAECに関して、関係国の合意形成を待つとの立場をとり続けた。
しかし、1993年7月23日、マハティールは当初EAECに消極的な態度をとっていたインドネシアを説得し、ASEANでのEAEC合意にこぎつけたのである。そして、非公式ながら1994年7月にはEAECメンバー国による外相会合が実現している。

ASEAN+日中韓
1997年12月には、EAECの予定メンバー、ASEANと日中韓によるASEAN+3首脳会議がクアラルンプールで開催された。実は、このときも日本は消極的姿勢を示していた。しかし、ASEAN側が日本が不参加ならば、中国、韓国だけと会談を開催するとの立場をとったために、参加に踏み切ったとされている。産経新聞社の内畠嗣雅記者は、翌日次のように報じている。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」
マハティールは、アメリカの執拗な妨害工作を克服して、実質的にEAEC実現にこぎつけたのである。ベーカー時代の東アジア・グループに対する反対論は後退し、現ブッシュ政権はASEAN+3の発展を容認している。
一貫してEAECを支持してきた中国は、ASEANとの経済関係強化を進めてきた。当初EAECに消極的だった韓国も、ASEAN+3に積極的に関与するようになってきた。金大中大統領は「東アジア・ビジョン・グループ」(EAVG)や「東アジア・スタディ・グループ」(EASG)設置の主導権をとり、盧武鉉が大統領に就いた後の2003年12月には、EASGの提言に基づいて「東アジアフォーラム」が発足している。
こうした中で、日本政府には、中韓とASEANの経済関係強化を傍観しているわけにはいかないとの意識が強まっていったのではなかろうか。2002年5月には小泉首相がマハティールとの会談で、ASEAN+3事務局をマレーシアに設置することを支持している。マハティールが粘り強く提唱し続けた「東アジア経済グループ」構想は、いまようやく実質を伴うものとして動きはじめている。

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