1990年12月10日、マハティール首相は東アジア経済グループ(EAEG)構想を提唱した[後に東アジア経済協議体(EAEC)に改称、両者の概念は若干異なるが、以下ここでは、引用部分を除いてすべてEAECと表記する]。経済問題について、より密接に討議する場を作ろうというのが提案の趣旨だった。当面のメンバー国は、ASEANと日本、韓国、中国である。
欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)が矛盾しないように、EAECと日米安保は矛盾するものではない。いわんや、EUが反米を目的とした機構ではないように、EAECは反米を目的とした機構ではない。同時に、EAECは特定の大国が主導するものではなく、対等、相互尊重の原則に基づいて東アジア各国が主体的に参加する場である。
EAECには、真に対等、相互尊重、相互利益の原則による共栄圏を東アジアにつくり、国際社会にその原則を示して、世界を支配する価値観の修正を促す、という企てさえを読みとることができる。
1994年5月23日からクアラルンプールで開かれた太平洋経済委員会(Pacific Basin Economic Council=PBEC)第27回総会の基調演説で、マハティール首相は自らの太平洋協力構想を明確に示した。彼は、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違いについてふれた後、次のように続けた。
「私たちが建設しなければならないのは、太平洋ゲマインシャフトです。太平洋は、人工的な国家関係ではなく、村・家族・友人のような関係として結び付くグループを建設しなければならないのです」と。彼は、パックス・シニカ(中国による平和)もパックス・ニッポニカもパックス・アメリカーナも拒否し、平等、相互尊重、相互利益の原則に基づいた太平洋コミュニティーをつくりたいと訴えたのである(Dr. Mahathir’s Speech,”Building an Egalitarian Pacific community”,ISIS FOCUS ,April 1994, pp.43-48.)。
ところが残念なことに、アメリカはEAECに反対した。そこには、アジアの秩序を自らの手で構築したいというアメリカの驕りがあったのではなかろうか。
EAEC実現阻止のために、アメリカはASEANの分断を狙ったかに見える。しかし、結局ASEANは自らの意思でEAEC支持の立場を固めた。ところが、日本政府は「EAECに乗るな」というアメリカの圧力に屈して、EAECを支持することができなかったのである。
1991年4月、海部首相(当時、以下肩書きは当時)はマハティール首相との会談で「EAEC構想の背景に、自由貿易擁護と国際経済の先行き不透明感に対する心配があることはよく分かった」と述べていた。この発言をマレーシア政府は「積極的な反応であり、構想推進にプラスになる」と前向きに受け止めていた。アブドラ・バダウィ外相は首脳会談の翌日、「日本はEAECを否定せず、進展に関心をもっていると表明したが、これは筋が通っており、我々はそれを歓迎する」と述べた。
だが、この海部発言以降にアメリカの巻き返しは本格化したのではないか。1991年5月8日の日米次官級政治協議で、ロバート・キミット国務次官はEAECに対する明確な反対の意思を小和田恒・外務審議官に伝えている。
1991年7月には、アメリカは直接マハティール首相に対してEAEC批判を投げつけている。ベーカー国務長官はASEAN拡大外相会議に出席のためクアラルンプールを訪れ、マハティール首相を激しく攻撃した。
「アメリカには太平洋は西と東、つまり、欧米とアジアを隔てるものだとの認識が依然として根強い。あなたの考えは、この分離主義を刺激し、太平洋に線を引くものだ。それは、日本とアメリカの分断につながる」。ベーカーは、91年11月11日にも、「どんな形であれ、太平洋に線を引くことは、絶対に認められない。EAEC構想は太平洋を二分し、日米両国を分断するものだ」と繰り返しEAECを批判している(→「マハティール十番勝負 (3)ジェームス・ベーカーとの勝負」『日馬プレス』269号、2004年3月1日)。
マハティール首相は腸の煮えくり返る思いで、繰り返されるベーカーの発言を聞いていたに違いない。ベーカーのマハティール首相批判は、故・大来佐武郎が「ベーカー長官のような刺激的なものの言い方は、逆に日本とアジアを分断させてしまうじゃないですか」とアマコスト駐日米大使に、苦言を呈したほどだ(『朝日新聞』1992年1月18日付朝刊)。
驚くことに、日米が1991年末にEAECに参加しないという密約をかわしたとの説すらある。1991年11月11日に開かれた渡辺美智雄外相主催のベーカー米国務長官歓迎夕食会で、「アメリカが入らない組織には、日本も入らない」と事実上のEAEC不参加の密約を交わさせられたと報じられているのだ(『毎日新聞』1991年11月29日付朝刊)。⇒渡辺美智雄大臣の国会答弁
マハティール首相が1991年12月に訪日した際には、外務省担当者が、マハティール首相が来日時に会う商社首脳や財界人をリストアップし、EAECに協力をもとめられたら、聞き置くだけにしておくようになどと指導したとも報じられている。
こうして、海部政権に比べて宮沢政権のEAECに対する立場はより消極的、否定的になっていた。 1993年1月14日、マレーシア訪問中の宮沢首相は、マハティール首相と首相官邸で2時間会談したが、宮沢はアジア・太平洋地域が「開かれた経済」である必要を強調し、EAECに批判的な姿勢を明確にした。
国内には、アメリカの反対論に追随する形で、EAEC慎重論も根強かったが、明確なEAEC支持論もあった。
一貫してEAEC支持の論陣を張ったのが、林理介・大東文化大学国際関係学部教授である。「EAECはAPECの不足面を補う」もので、決して攻撃的な存在ではないと主張する林氏は、朝日新聞社でニューデリー支局長、アジア総局長、論説委員などを歴任したジャーナリストでもあり、1986年にはマハティール首相に単独会見もしたマハティール首相理解者の1人である。
最も明確なEAEC賛成論を発表していたのは、元外務官僚の故・古川栄一である。古川氏は、1953年外務省入省、在タイ大使館参事官を経て、国連アジア太平洋開発センター副所長を務めた人物で、1991年に日本国際戦略センターを設立していた。
また、福田政権時の外務省アジア局長で、三菱重工顧問の中江要介氏は、よりはっきりと日本政府を批判してこう述べていた。
「マハティール首相構想の場合にもまた、日本は先に米国の顔色を窺っているのである。米国がノーといえば、一緒になって何かとあら探しをする。米国がアジアの経済圏構想に反対するのは、米国の覇権主義が邪魔されるからであろう。そのしり馬に乗って構想をつぶすのに加担したとすると、それは日本の政治的役割を放棄したことになる。アジアと反対の方向に向いている日本には、アジアでの政治的役割はない」と(中江要介『中国の行方』(KKベストセラーズ、1991年、185―186ページ)。
だが、こうした当然の主張は、EAEC反対論の前にかき消されていったのである。
企業の利益を第一にかんがえる産業界にEAEC賛成論が少なくないのは、驚くにあたらない。
たとえば、神戸経済同友会は1991年4月17日、アジアに関する問題を研究してきた西太平洋問題委員会の成果を「開放型東アジア協力体制の形成にむけて―分析と提言―」と題して発表している。報告書はEAECに基本的に賛同、「アジアの発言力を高め、アジアが世界で認知されるためにはアジア経済圏内で、これまで以上の協力体制づくりが必要」としている(『日本経済新聞』1991年4月18日付朝刊)。
通産省(現経済産業省)内にもEAEC賛成派は存在していた。短期的にはともかく、長期的に対米貿易より対アジア貿易によって日本産業全体の利益が守られると判断すれば、むしろ政治的影響を度外視しても通産省はEAEC推進に傾くと予想するむきもある。通産省自身がアジア経済圏の可能性を検討してきているのだ。すでに1988年頃から、通産省においても、過度のアメリカ市場依存の産業政策を見直すべきだとのかんがえ方が台頭していた。1988年にはまた、通産省などが経済審議会(首相の諮問機関)の国際経済部会(田淵節也部会長)審議を通じて、東アジア経済圏構想をまとめていた。構想は、アメリカなどがメンバーに含まれず、EAEC同様の東アジア諸国だけの経済圏である(「霞が関が進める『東アジア経済圏』構想」『選択』1988年6月、80―81ページ)。
これに対して、『朝日新聞』の船橋洋一氏は、EAECに反対してこう書いていた。
「この地域に向け日本がなすべきことは、一緒にEAECを担ぐことではない。まず、日本の市場をもっと開放し、内需拡大を進めること。次に、ウルグアイ・ラウンドの成功とガットの活性化に向けて他を引っ張ること。それから米国を保護主義に向かわせないよう日米関係を改善すること。そして、アジアと太平洋を有機的につなげるようアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)の開かれた地域主義、政策協調を育てること、である。この面での日本のリーダーシップは欠けていたし、いまも不十分である。その空白がEAECをもたらしたともいえるのだ」(『朝日新聞』1992年1月29日付)
一見すると、EAECの是非は経済問題として論じられていたかに見えるが、多くのEAECについての経済的分析が政治性を帯びている。多くのEAEC反対論は、「EAECは自由貿易圏作りの構想だ」「EAECはブロック化構想だ」と故意に断定して議論を展開する。これに対してEAEC支持論の多くは、「EAECはブロック化構想ではない」という点とともに、(1)貿易障壁を除去していくにはGATTより地域的取り組みの方が向いている、(2)すでに自然な流れとしてアジアの経済圏はできつつある、(3)EAECは日米分断とはならない――などの点を強調している。
外務省内部の綱引き
外務省内部も割れていた。アメリカがEAECに反対の立場をとったことから、外務省も反応に困っていたのだ。これは、アメリカの見解とアジアの多数の見解が分かれた際に、どちらを優先させるかという外務省に古くからある路線対立であり、決して新しいものではない。冷戦終結によって顕在化してきたにすぎない。国際社会の復帰を機に、政府は1957年に「外交青書」の発行を決めたが、ここでも日本外交の原則をめぐって激しい綱引きがあったのである。
斉藤鎮男氏は、『外交』の中で「外交3原則の策定―大臣官房総務参事官時代」の一章を割き、1950年代にアジア重視の姿勢を示すことについて、外務省内で議論があったことを明らかにしている(斉藤鎮男『外交』サイマル出版会、1991年、39-46ページ)。結局、外交原則は、親米派とアジア派の両者が妥協して、国連重視とともに「自由主義諸国との協調」と「アジアの一員としての立場の堅持」の両方が謳われることになった。渡辺昭夫氏は、これについて、「列強協調主義とアジア主義の対立がすがたをかえてここに再現されている」と指摘している(渡辺昭夫『アジア・太平洋の国際関係と日本』東京大学出版会、1992年、104ページ)。
実際、1991年3月4日の外務省内の会議ではEAECについて、「あの構想を無視していいのか」「本当に議論の余地はないのか」など、若手官僚から問題提起の声が上がった(『読売新聞』1991年3月8日付朝刊)。外務省では、GATTやOECDなどの担当者は「日本こそ経済ブロック化のブレーキ役をつとめるべきだ」と自由貿易堅持の立場をとったが、自主規制や構造協議でハードな交渉を何度も経験している担当者は、「肩入れもいいではないか。対米交渉のカードにもなりうる」と反論したという。
また、1991年6月には外務省幹部も「数次にわたる多角的貿易交渉を通じて相当程度、互いに市場を開き合った今、地域の結びつきに考えをめぐらすのは悪いことだろうか」とEAEC擁護論を展開している。
しかし、1991年末以降、外務省も歯切れが悪くなった。
「うちの方は、かかわっていないのです。地域政策課の方の書類に従っています」。1993年4月1日、外務省経済局の担当者は筆者の取材に対して、そう逃げるように言った。
アジア局地域政策課の書類とは「EAEG及びEAEC」と題された簡単な報告。「とりあえずの我が国の立場」として、次のようにある。
「我が国としては、EAEC構想がUR(ウルグアイ・ラウンド)の先行き不透明感や欧米の地域主義的動きに対する懸念から出てきたとの背景は理解している。他方、地域経済協力に対する我が国の基本的考えは、如何なる地域経済協力も、経済ブロックにつながらず、GATTの諸原則に合致した『開かれた協力』を目指すものでなければならないというものである」。
外務省でEAECにかかわるのは、経済局、アジア局地域政策課、アジア局南東アジア第2課マレイシア班、北米局の北米1課、2課などである。
EAECについて日本の態度を協議した時、もっとも強くEAECを支持したのが経済局だったはずだ。経済局は、ヨーロッパ共同体(EC)や、北米自由貿易協定(NAFTA)が進む中、日本もブロック化に向かう可能性があることを示さなければ、世界のブロック化は防げないと主張していた(「〔政局〕天皇訪中の意味するもの」『エコノミスト』1992年9月1日、82―83ページ)はずではないか。
その彼らが、EAECについてのコメントを避けるようになった。外務省内も割れていたのである。
1993年12月15日、外務省でアジア太平洋地域大使会議がはじまった。会議には26の国・地域駐在の大使や総領事が出席した。この会議でEAECへの対応が議論されたのである。
「ASEANで検討が進んでおり、日本も真剣に取り組むべきだ」。ASEAN駐在大使からこうした指摘が相次いだ。
17日に会議は閉幕し、EAEC設立構想に日本が参加する方向で積極的に検討することで一致した。こうして外務省はEAEC加盟の是非について「数カ月以内に結論を出す」ことを決めた。この外務省決定を受け、細川政権は1994年1月5日、EAEC構想に積極的に対応、参加を前向きに検討する方針を固めた。
シアトルでのAPEC会議でアメリカとASEANの立場の違いが明白になるなかで、政府も曖昧な態度のままではアジア諸国の不信感を招くと判断したのであろう。1995年にはAPEC会議が日本で開催される。日本としてAPECとEAECについての明確なスタンスを示さねば主宰国として積極的に動くこともできない。またNAFTAの発効、ウルグアイ・ラウンドの妥結という状況変化も日本の政策転換に大きな影響を与えた。
もともとEAECに消極的であったグループの間でも、NAFTA発効が決まったことによって、EAECをNAFTAのブロック化を防ぐ牽制球として使うべき、との考えが台頭してきたかに見える。たとえば橋本龍太郎氏などもそうした考えを表明していた(橋本龍太郎『VISION OF JAPAN』KKベストセラーズ、1993年)。
外務省はとりあえずEAECへの対応を明確にすべきと判断した。しかし依然として北米局を中心に外務省内にはEAEC参加慎重論が根強くあったのである。先に外務省経済局の沈黙についてふれたが、ここでも水面下で激しい綱引きが行われていたのかもしれない。この時期経済局長を努めていたのが小倉和夫・駐ベトナム大使である。一時期、小倉氏ら外務省の一部でオーストラリアを参加させることでアメリカの理解を得て、EAEC推進に動くことができるとの議論があった(小倉和夫「地域統合と日本の選択」『外交フォーラム』1992年12月)。小倉氏は単純なアジア主義を唱えられるような立場にはいない。冷徹なリアリズムを要求されるポジションにある。だが、そんな小倉氏でもアメリカへの反発を強めているのだ。『外交フォーラム』の1991年6月号に小倉氏が書いた論文、「『理念の帝国』と『喪失の民』との亀裂」を、「ニューヨーク・タイムズ」は「最近の最もはっきりした対米批判」として取り上げた(『朝日新聞』1992年1月23日付朝刊)。
そしてついに小倉氏は「アジアの復権」を高らかに謳いあげたのだ(小倉和夫「『アジアの復権』のために」『中央公論』1993年7月号、60-73ページ)。「あらゆる面で、『アジア』が長年背負ってきたマイナスの価値は、ようやくプラスに転じつつある」と。さらに小倉氏いわく。
「欧米のアジア政策に追従する必要はない。結果的に同じ政策を取ってもいいが、最初から同じと決めてかかる必要はない」、「アジアを脅威と見るのは、アジア以外に世界の中心がある、という欧米中心的な考え方だ。アジアは世界の重要な部分であって、世界にとって何が問題かという問題の立て方をすべきではないか」(「小倉和夫さん 駐ベトナム大使(インタビュー)」『AERA』1994年5月2日、28ページ)。
1994年5月22日付『北海道新聞』も、小倉氏(離米外交志向派)と丹波実条約局長(日米同盟重視派)とを対比させて外務省の分裂の傾向を指摘している。
いずれにせよ、細川政権時代に日本はEAECに前向きになった時期があるが、反対派の運動によって結局消極論に傾斜していく。