筆者は、予てから『日本外史』成立は、竹原の学問、特に尊皇斥覇を説いた崎門学との関わりで論じる必要があると考えてきたところ、今回、竹原尋常高等小学校訓導を務めた松浦魁造の『頼山陽先生』(竹原町、昭和十六年)と出会った。松浦は、まさに『日本外史』を竹原精神の結集としてとらえている。
〈頼山陽の一代を貫く精神は、山陽の郷里芸州竹原に伝統せる所謂「竹原精神」に外ならぬもので、明治維新の原動力をなした日本外史も、日本政記も、将又幾多勤皇の詠詩も之みな竹原伝統の忠孝精神が山陽によつて華と開き実を結んだものに外ならぬのである。頼山陽の出づる実は決して偶然ではなく竹原の天地山河に潜む霊気と、一千余年の輝く歴史を作つた数多祖先の精気とが鍾つて山陽を生んだもので、謂はゞ頼山陽を出すために竹原の山河歴史は営々数百年にわたつて時代を動かす忠孝の大文豪頼山陽先生出現の準備をなしてゐたのであると謂ふ事が出来るのである〉
山陽は、安永九(一七八一)年十二月二十七に、大坂江戸堀で生まれている。幼名は久太郎。松浦の『頼山陽先生』には、山陽誕生時の興味深いエピソードが描かれている。
〈春水夫妻は我子の誕生日まで待ち切れず、あの交通の不便な時代に半年後の翌天明元年閏五月八日には、久太郎をつれて竹原に帰つた。(久太郎の祖父)亨翁は初孫久太郎を膝に抱いて「吾は已に老先き短く孫の行末を見ること難し、この孫の為に一生の護符を書き遺さん」と言つて自ら筆を執り方紙に「忠孝」の二字を書し、お守袋に納めて手づから初孫の肌に掛け、春水夫妻に対して深意の在る所を訓へたのである〉

山陽の祖父亨翁(惟清)は谷川士清に師事した崎門派で、小半紙に「忠孝」の二文字を書いて守袋に収めていたという。そして、竹原に垂加神道を広めた最初の人が、唐崎赤斎の祖先定信である。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだ。定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。惟清はそのことを承知の上、自ら「忠孝」の二文字を頼家においても継承しようとしていたに違いない。松浦は次のように書いている。
「此の忠孝の護符こそ実に山陽五十三年の生涯を貫く勤皇精神の根源を成したもので、天保三年九月二十三日暮六つ時、日本政記の筆を握つたまゝ暝目するまで、片時も肌身離さす身に着けてゐたものである。山陽の本領は実に源をこの忠孝の護符に発したものであつて、之を護符として与へた祖父父亨翁の忠孝精神は、当時盛を極めた竹原の敬神尊皇を奥儀とせる文教の深い感化と影響とをうけたもので、それが父春水や二叔春風、杏坪の胸に強く伝はり、やがて山陽に至つてその精華を発揮したものに外ならぬのである〉
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武家政権を厳しく批判した頼山陽の「古今総議」
頼山陽は、寛政八年、十七歳の時に「古今総議」を著している。これこそが、『日本外史』序論の底稿となった文章である。
〈天子、之れが将となりたまひ、大臣・大連は、之れが偏裨たり……[神武天皇より]三十世の後、外国の制に因り、八省、百官を立つ。五十世に至り、政権は世相[代々の首相]・外家[藤原氏]の竊む所となる。当時の制、七道[全国]を郡県にして、治むるに守・介[薩摩守・長門介の如き]を以てし、天下の軍国は、更はる〲六衛に役し、事あれぱ則ち将を遣はして之れを合し、事止めぱ其の兵を散じて、以て其の[兵]権を奪ふ。相家[世相・外家]の専らにするに及び、人[官吏]を流[家筋]に選び、文武、官を世にし、加ふるに鎮守府の多事なるを以てし、関八州の土豪にして、将家[武将]に隷[属]するもの、因習の久しき、君臣の如く然り、而して七十世に至り、綱紀ます〱弛み……兵力を挾んで、爵賞を[強]要するもの、平氏に始まつて、源氏に成り、遂に総追捕使の名に托して、私隷[家の子郎党]を六十州[全国]に碁布[配置]して、以て兵食の大権を収め、天下の大勢、始めて変ぜり。変じで未だ幾ぱくならず、その外家北条氏、陰かに人心を結び、以て其の権を竊み、之れを九世に伝へたり。朝延は其の民心を失へるに乗じ、以て旧権を収復せり…。又足利氏の横奪する所となり、而して大権の将家[征夷大将軍]に帰するもの、盆々定まり、少子を[関]東に封じ、功臣を分かつて世襲の守護と為し、而して天下の大勢、再び変じ、[以下、織田・豊臣氏に到り]大勢、三たぴ変ぜり〉(木崎好尚『青年頼山陽』)

山陽は、『日本外史』では次のように述べている。
「思うに、わが日本がはじめて国を建てたときは、政事向きのことは万事が簡略でたやすく、文官・武官というような区別もなく、日本国中の者はだれでもこぞってみな兵士であって、天子はその元帥(総大将)となられ、大臣・大連がその副将軍となっていたので、将帥という定まった官職があったわけではなかった。
だから後世のように、世にいう武門とか武士とかいうものはあるべきはずもなかった。天下が泰平無事であるならそれまでのこと、いったん有事の際には、天子はかならず自分で征伐の苦労をされた。もし天子がなにかの理由で出陣されないときには、皇子や皇后がその代理をされて、けっして臣下の者にうち委せてしまわれることはなかったのである。だから兵馬・糧食の大権は人手に渡ることなく、しっかりと天子の手の内にあって、よく天下を抑え従え、なおその余威は、国内ばかりでなく、延びて三韓(朝鮮南部の馬韓・弁韓・辰韓)や粛慎(シナ古代の北方民族)にまでも輝きわたり、これらの諸国はみな貢物を持ってわが日本へ来朝しないものはなかったのである」(頼惟勤訳)
こうした山陽の武家政権批判は、山県大弐の『柳子新論』「正名」(第一篇)や藤田幽谷の『正名論』にも通ずる。
「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。……保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(『柳子新論』)
〈「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し〉(『正名論』)
鈴木大拙「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)
鈴木大拙は「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)において、次のように書いている。
「さて、東洋思想の特殊性ですが、西洋の人は客観的にものを見る。客観的に見るから知的になる。たとえば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折ってあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、──炭素がはひつてるだらうな、燃えるから。水素はないでせうね、水気がないから。──とにかくそんなことで、この紙がわかったことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話でなくして、紙そのものになれといふのですね。
そして、西洋の人が東洋のことを研究する、ことに仏教や老荘を研究するとき、これがどうしてもわからぬ。紙になれといふと、どうして人間が紙になれようかと、まあ、そんなやうに考へるですね。

お前が紙になれ、紙になれば紙がわかる。蜜柑になれば蜜柑がわかる。蜜柑の形容をいくら外から持ってきても、物理的、科学的に、今日はアトムの時代だから、原子的に考へてみたところが、蜜柑はわからぬ。蜜柑と一つになれば、それで蜜柑全部がわかる、といふやうなことを、欧米の人にいふと、蜜柑をどうしても外におく。どうして蜜柑になれようかと云ふ。客観的に、分析的にものを考へるくせのある人は、それが容易でない。東洋の人のはうは割合にやりやすい。さういふ伝統があるからですね。欧米の人はさういふ伝統を持たんですね。
欧米の人の考へにすると、ものになるといふその証拠が出ないといかんと云ふ。その証拠といふのが、客観的な証拠になるのですね。つまり研究をして、それを実験して、実験がその人の云ふ通りになれば、それで証拠が立つたといふわけです。ところが東洋の人、ことに仏教や老荘的な人は、証拠なんてことをいふから駄目なんで、証拠も何もないといふこと、そのことが証拠だ。このことのほかに証拠を求める必要はないと云ふ。いはゆる「肯心自ら許す」といふことでたくさんだ、と。
証拠を求めるとか、証拠を出すとかいふことが第二義におちいつてをるんだから、いらない話だ。かう云うても、西洋の人ではどうしてもその通りにならないのです。すべてが論理的にいかないと承知ができない。論理的にいくといふことが、また大きな力なんです。
客観的にものを処理していくところには、それだけの特色がある。それはどういふ特色かといふと、ものを概念化するといふことが、その特色の一つですね。
ところが、この分析的な客観的な見方をすると、蜜柑が一つ二つ、三つ四つと、いくつでもあるわけです。ところが主観的な見方といふか、東洋的な見方にすれば、一つの蜜柑になりきれば、その一つの蜜柑が、二つにも三つにもなりうるんだとするですね。西洋的の見方にすれば、二つ三つになったその蜜柑から、どの蜜柑にも通用する特質を抜き出してきて、これが蜜柑だといふのです。この蜜柑は少し青い、その蜜柑は黄色い、ことちは酸とぱい、そつちは甘いが、しかしながら、その蜜柑たるにおいては同じであるといふ。その蜜柑たる特殊性を抜き出してこれが蜜柑だと、かういふ。つまり抽象的な考へ方ができる。抽象的に考へることができるといふことも、また大切なことなんですがね。
しかしながら、抽象になると、個人の生きたものはなくなるですね。みな型にはまつてしまふ」
ハイブリッド戦時代の「総力戦的虚々実々の戦法」─「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」②
高嶋辰彦は、天地人の広漠複雑性に注目して西欧兵学の科学技術万能の限界を次のように説いた。
「西欧の世界は天地人共に東洋に比して矮小である。其處に発達せし尖鋭なる科学と技術とが、武力戦に於いて特に絶大の決戦力を有つことも亦当然である。ドヴエーの空軍万能論の如き其の最も極端に趨りて稍々迷妄に堕したる一例である。
東洋の武力戦に於ても、尖鋭なる科学、卓越せる技術に基く所謂近代的兵器の威力の重要なるは言を俟たない。併し此処に於ける天地人の広漠複雑性は、幾多の制約を西欧的科学、技術兵器の上に課するのである。自動火器の故障、火薬の燃焼躱避、戦車、自動車、飛行機の速かなる衰損の如き其の一例である。
東洋兵学兵制に於ける科学技術は独特の大自然に即し、西欧流のそれに対し厳密なる検討を遂げ、独自の境地を開拓して自ら完成すべきであろう」
続けて高嶋は、後方業務の重要性を次のように指摘する。
「西欧兵学に於てすら或は集中を以て戦略の主位とした。東洋戦場に於ける武力戦の困難は後方に在る。作戦兵力の輸送、集中、転用、軍備の補給、守備、治安等に関する複雑困難さは西欧と同日の比ではない。従つて之を克服することに寧ろ戦勝の決定的要素を見る。蒙古軍即ち元軍が常に其の補給点を前方に求めたるが如きは多大の示唆を含むものである。後方業務を重視し、東洋独自の新原則の確立と共に、有事に際して必ず之が圓滑を期することは東洋兵学に於ける重要課題である」
さらに高嶋は、武力偏重の西欧兵学に対して、総力戦的虚々実々の戦法の優位性を説く。
「西欧は地域矮小、民族単一、国家の総力的団結比較的鞏固である。此処に発達したる兵学が武力偏重の強制的色彩を帯ぶるは止むを得ない所である。然るに東洋の実情は大いに之と異り、前諸項と関連して総力的見地に於て到る処に虚隙を呈し、普く之を塡むることは殆んど不可能に近い。
此の処に乗じて敵の意表に出で、総力戦的優勢の発揮を、在来兵学の原則に準じて行ふの余地は東洋に於て最も大である。斯かる総力戦運用の原理は、又武力戦内部に於ける思想手段、経済手段等を以てする総力戦的虚々実々の戦法に於て多大なる開拓の前途を有して居る。正に東方兵学の高次性を発揮すべき好適の一面である」
ハイブリッド戦の時代が到来したいま、「総力戦的虚々実々の戦法」こそ、東方兵学の高次性を発揮すべき分野なのではなかろうか。
「肇国の大精神を世界に顕現実践することが皇戦の目的だ」
高嶋辰彦は、昭和十三年十二月に著した『皇戦 皇道総力戦世界維新理念』(戦争文化研究所)で、次のように皇戦の目的を説いている。
「(支那)事変を体験するに伴ひ逐次認識を明にせる事項の一つは、我が国の戦争即ち皇戦の目的は、我が國體の保護宣揚、即ち我が国ごころを内外に宣べ行ふこと、更に換言すれば我が肇国の大精神を世界に顕現実践して、建国以来の真生命を達成するに在るといふことである。国防に関する一般通年たる人民、国土、資源等を外敵に対して護るとか、その危険を未然に防ぐため、予め脅威を取り除くとか、乃至は自ら力を養ふために国防力要素の不足を獲得するとかいふが如き在来の考へ方では、不知不識の間に皇戦の本義を没却するが如き重大過誤に陥る処が多いのである。……こゝで特に大切なことは、此の国ごころは決して外に対して宣揚するだけではなく、国内に対して同様の作用を必要とするといふことである。国内即ち日本全国民が先づ世界に実践の模範を示し得るだけの国ごころの体得者、実践者とならなければ、対外宣揚の資格と力とがない……」
敵将兵を味方とするような東洋兵学
支那事変以降、高嶋辰彦は東洋兵学の重要性を説くようになった。東洋兵学に対する高嶋の思いは戦後も持続した。例えば彼は、昭和三十(一九五五)年七月に「アジア政策における日本の体験と日米相互安全保障の将来」(『月刊自衛』)を著し、東洋では統率即ち人の掌握と統御指導とが兵学の第一義だと説いた。
彼は、ジンギスカンが親兵一万人の姓名を記憶していたという伝説を紹介し、兵の掌握は下士官級、でき得れば兵まで貰かれていなければならないと説いた。その上で高嶋は精神指導、心理掌握のための教育の重要性を指摘した。
さらに高嶋は、戦場や駐留地附近の現地住民の心を味方とすることが必要だと説き、朝鮮戦争に参加した際の中共軍の例を挙げる。高嶋によると、中共軍の「抗美援朝教育」は、現地住民を味方とするために徹底的な教育を行った。
そして高嶋は、東洋においては、敵に向う前に敵地の住民、敵軍の将兵、敵将の側近までみ、できる限り味方にするように工作し、敵将が孤立し、崩壌する寸前に、敵住民に歓迎されながら進軍して行くのが名将の術とさえ言われていると述べ、次のように書いている。
「これらの点でソ連や、中共の戦略、手法はアジア、東洋兵学の真髄をつかんでいる点がある」
本来、日本でもこうした兵学が維持されていたが、明治以降の兵学は多くを西欧に学んだため、現地住民、敵地住民、敵将兵を味方とする様な兵学は後退してしまった。
さらに高嶋は、西欧兵学はアジアにおける地上戦や、駐留勤務に困難を来す盲点が存するのではないかと指摘する。この高嶋の指摘は、アジア各地での反米機運の効用、ベトナム戦争でのアメリカの敗北というその後の歴史を予見しているかのようである。
高嶋辰彦「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」①
令和四年十二月に策定された国家安全保障戦略には、「サイバー攻撃、偽情報拡散等が平素から生起。有事と平時の境目はますます曖昧に。安全保障の対象は、経済等にまで拡大。軍事と非軍事の分野の境目も曖昧に」と書かれている。軍事的手段と非軍事的手段を組み合わせた、いわゆる「ハイブリッド戦」の時代が到来しているということである。
まさにいま、西欧兵学兵制の限界を克服し、皇道に基づいた日本独自の兵学兵制を活用する時がきているのではないか。そこで浮かび上がってくるのが、戦前に皇道兵学兵制を説いた高嶋辰彦の思想的価値である。
同時に、わが国は欧米列強の覇道主義に抵抗する過程で、自らが覇道主義に陥り、日本軍は皇軍としての誇りを失ってしまったかに見える。それが日支事変の戦局にも暗い影を落としていたのではあるまいか。日本を取り巻く安全保障上の環境が厳しさを増す中で、自衛隊は防衛力の強化の前に皇軍としての誇りを取り戻す必要がある。そのためにも、高嶋が唱えた皇道総力戦思想に学ぶべき時である。
高嶋は、昭和十三年十月に、「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」(『偕行社記事』)を著し、次のように指摘した。
「今次支那事変の体験は、東洋における於ける戦ひが、其の質に於て欧州大戦をも凌ぐ複雑多岐の一面を有し、高次なる我が皇道総力戦を以てして始めて克く之が解決を期し得べきことを明かにした。是れ此の事変の有する世代的、世界史的重大意義と、東洋の実情、我が国の特性等との然らしむる所である。
是に於て近世世界を風靡せるの感ありし西欧流の兵学、兵制も亦更に遥かに高次なる新興兵学兵制の前に、縦横に批判せられ、嶮厳なる栽きを受けざるを得ない趨勢となつて来た」
高嶋は東洋の実情と我が国の特性と西欧兵学兵制とを対比する。自然現象の活用という観点については、次のように指摘している。
〈西欧の自然は単一である。其処に発達したる兵学が地形主義万能に堕し、自然現象の活用に於て幼稚なるは言を俟たない。之に反し東洋のそれは実に千変万化、其の複雑多岐なる点に於て世界に冠たるものがある。所謂「天の時」が古来の東洋乃至日本兵挙に於て重要視せられた所以であらう。
炎熱、大旱、酷寒、氷結、大雨、颱風、洪水、飢饉、黄塵等の大規模周到なる兵学的活用は、正に東洋兵学者の究明創設すべき重要課題である〉
高嶋はこう述べて、大地の活用を指摘する。
〈西欧の大地も亦単一である。其処に発達した兵学が地形主義万能とは謂へ、尚甚だ単純なる地形を基礎としあるも亦止むを得ない。然るに東洋に於ける大地の変化は又世界に冠たるものがある。所謂「地の利」の高唱は之に因するのであらう。
大規模なる山岳、密林、濕地、湖沼、河川、平原、沙漠等及其等の内に生成する幾多の動植物は限り無き多元性を展開して居る。乃ち之に関する大局的兵学上の運用原理の開拓も亦東洋兵学の見逃すべからざる重大任務と謂ふべきであらう〉
次に高嶋は大海洋の活用を説く。
「日本を繞る海洋の広大にして複雑なるは之れ亦到底西欧の比ではない。唯々此の方面に於ては英国及最近の米国が類似の戦場を予想して居る。故に我等の努力としては、大海と複根なる小海との関連、海洋と大陸との連鎖、之に伴ふ陸海空三軍の有機的協同運用に兵学研究上の重点が指向せらるべきであらう。
次に「人の統御と操縦とに依る思想手段の重要化」についてこう述べる。
「西欧陸地上の人性は単純である。一見理窟多きが如く見ゆる徒等は、強権強力の前に、又は思想的指導の前に案外単一従順なるは歴史の示す所である。此処に発達したる兵学が「人」の統御と操縦とに関する取扱ひに於て、比較的あつさりして居ることは当然である。然るに東洋大陸に於ける人は全く之と其の選を異にする。柔なるが如くにして靭、屈したるが如くにして実は然らず。単純なる強権強力は動もすれば意外の反発に遭ひ、向背離合容易に予想すべからずして、今日の主従朋友忽ちにして明日の敵味方となる。所謂「人の和」が重要視せらるゝ所以であらう」
唐崎家を支えた吉井家の歴史
唐崎定信は闇斎が「道は大日孁貴の道、教は猿田彦神の教」と説き、猿田彦神を祭ることとした教えにしたがい、竹原市本町にある長生寺に庚申堂を建てた。その時、定信に協力したのが、吉井半三郎当徳(まさのり)であった。

吉井氏の先祖は、豊田郡小泉村に住んでいた小早川氏の家臣吉井肥後に遡る。寛永の初め頃、その子源兵衛が竹原下市に移住し、米屋を営み、さらに質屋も営んで財を蓄えた。源兵衛は、慶安三(一六五〇)年、竹原に塩田が開かれると、いち早く塩浜経営に乗り出し、吉井家の基盤を築いたのである。明暦三(一六五六)年には、二代目米屋又三郎が年寄役に任ぜられている。これ以降、吉井家は代々年寄役を務めることとなる。
唐崎定信が闇斎に学び、竹原に戻った延宝四年頃、吉井家の当主は三代目の当徳であった。唐崎家と吉井家は、定信・当徳の時代から崎門学を通じた深いつながりがあったということである。しかも、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。
清継の子の信通や彦明、さらに孫の赤斎の遊学費用を、吉井家が負担していた。唐崎家は代々師について崎門学を学んだが、それは吉井家の支援があったからこそ可能だったのである。例えば、信通は、谷川士清や松岡仲良の塾に入門し、彦明は三宅尚斎の門に入り、赤斎もまた長期間に亘って谷川士清や松岡仲良に学んだ。
吉井家もまた、唐崎家を支援するだけではなく、崎門学を学んだ。一族の吉井正伴(田坂屋)は玉木葦斎に学び、葦斎の歿後は松岡仲良に学んでいる。また、同族の吉井元庸(増田屋)も松岡仲良に学んでいる。六代目米屋半三郎当聰は、十五歳の時から闇斎の高弟植田艮背に従学していた。だからこそ、当聰は赤斎の精神を理解し、庇護者として彼の活動を助けたのである(金本正孝「唐崎赤斎先生碑の建立と吉井章五翁」)。
唐崎赤斎が刻印した「忠孝」の二文字
唐崎定信が闇斎から授けられた「忠孝」の二字は、唐崎家の宝として受け継がれ、赤斎は、明和三(一七六六)年頃、礒宮八幡神社境内の千引岩(ちびきいわ)に、この「忠孝」の二文字を刻印したのである。

赤斎が自決する前年、寛政七(一七九五)年八月に仲村堅は「忠孝石碑並びに銘」と題して次のように書いている。
宋南遷の後国勢稍(やや)蹙(しゅく)す有り。天驕(てんきょう)(匈奴)日に横たう当に此時なるべし。恢復を欲し王室を張皇(ちょうこう)す。而して能く其事をする者。李綱・岳飛・文天祥・張世傑の数人の輩のみ。然(しかれ)ども其の義気忠烈は天祥の右に出る者無し。其の行状史書に載在(さいざい)す如し。是に以て贅(ぜい)に及ばず。我芸(げい)の鴨郡竹原。応皇の別廟有り。五十宮(礒宮八幡神社)と称す。前面は海。後は山を負う。巍々(ぎぎ)とした宮殿なり。鬱々(うつうつ)とした林木。真に以て奇勝と為す山麓に一巨石有り。信国公文天祥書す所忠孝二大字を刻む。祠官唐赤斎石工を使わして刻ましむ也。字大三尺許り。端厳遵勁後人(たんげんしゅうけいこうじん)の及ぶ所に非ず。蓋し信国公の忠烈然りと之使う所となすか。初め赤斎氏の祖父隼人京師に遊学し、闇斎先生の門に業を受く。高第の弟子に為る。先生嘗て某侯の門に遊ぶ。席上夫(か)の忠孝二字の真を観る。乃ち請う之の影書を。以て其家に蔵すと。隼人君師資の誼を以て、又請う之が影書を。扁額を作り、以て家珍に為す。既にして赤斎氏以為(おもえ)らく扁額之壊れ易し。石に刻めば之に勝りたるに如かず。是に於いて上石を遂ぐ。永(とこし)えに子孫に伝えて不朽ならん。嗚呼赤斎氏の挙。上(かみ)は志に父祖を継ぎ、下(しも)は謀 子孫に貽(のこ)す。延べば他人に及ぼし、是詩の謂う所の、孝子匱(とぼし)からず永く爾(それ)類(たぐい)を錫(たま)う者(こと)か。旦其端厳遵勁(たんげんしゅうけい)。覧者(みるもの)をして信国公の人となりを髣彿せしむ。千万世の下(もと)。則ち其功亦偉ならず哉。余郡の耳目官(じもくのかん)と為す。拝謁五十宮。此に於いて寓目に与る実感す信国公の忠烈を。且つ嘉(よみ)す赤斎氏の盛挙を。是に於いて記し以て贈と為す。作を遂げ銘し曰く。
応皇の鎮まる所 維(こ)れ海の浜 魚塩(ぎょえん)(海産物)利有り
茲に民聚(あつま)る 賈舶(こはく)岸に泊す 巨室(きょしつ)比隣す
維(これ)山の麓なり 盤石嶙峋(りんしゅん) 石工鐫(せん)する所
筆勢絶倫なり 此文公に況(たと)えん 宋の名臣に有り
遵勁(しゅうけい)にして飛動 端厳(たんげん)なる精神 名下(なのもと)に虚(むなし)からず
佳手珎なるべし 維れ此の唐氏 祖親の志を継ぐ
胎厥(たいけつ)(子孫)不朽 延べば他人に及ぼし 華表(鳥居)直立す
神宮奐輪(かんりん) 幾千万世 奉祀明神(ほうしめいしん)
闇斎が唐崎定信に与えた文天祥「忠孝」の二文字
蘇峰は、唐崎赤斎顕彰碑撰文をきっかけに崎門学に傾倒していった。大きな転機となったのが、竹原を訪問し、崎門学と竹原のゆかりを目のあたりにしたことである。
唐崎赤斎の祖先定信は礒宮八幡神社神官だった。定信は万治元(一六五八)年に、磯宮八幡宮を古宮山から現在の竹原市田ノ浦に移転建設した中興の祖と言われている。
この定信こそ、竹原に垂加神道を広めた最初の人であつた。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだのである。定信が闇斎に宛てた誓文が残されている。
一 神道御相伝の御事誠に有難き仕合せ恩義の至り忘れ申す間敷事
一 以て其の人に非ざれば示すべからず堅守し此の訓を御許可無きに於いては猥りに口を開き人に伝へ申す間敷事
一 畏国の道習合附会仕る間敷事
右三ヶ条の旨相背くに於いては
伊勢八幡愛宕白山牛頭天王、殊に伊豆箱根両所権現、惣て日本国中大小神祇の御罰相蒙る者也
延宝三年乙卯十一月十九日
柄崎隼人藤原定信
山崎加右衛門様
定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。木綿布に対する闇斎の礼状も残されている。
「見事木綿壱疋御送給、遠路御懇意之到、過分二存候、我等弥無事可被心安下被」(見事な木綿壱疋御送り給い、遠路御懇意の到り、過分に存じ候、我等いよいよ無事、安心下さるべく候)
金本正孝は、闇斎のこの書状(縦十四センチ・横三十センチ)は、延宝四年に書かれたものと推定してゐる(「世に知られざる唐崎士愛の生涯」『芸林』第四十五号第二号)。
