金玉均碑文(朴泳孝撰)訳

嗚呼、非常の才を抱き、非常の時に遇い、非常の功なく、非常の死あり、天の金公を生(いだ)すや是のごときのみや、磊落雋爽(らいらくしゅんそう)にして小節になずまず、善を見ること己れの如く、豪侠にして衆を容るるは公の性なり。魁傑、軒昂として、特立、独行、百折するも屈せず、千万[人といえども]かつ往くは公の気なり。神檀の国家を扶け、磐泰の安きを尊び、聖李の宗社を翼(たす)け、天壌の庥(きゅう)者に基(もと)いするは公の自任の志なり。公、朝に仕えて未だ始めて顕われず、君に得て未だ始めて専らにせず、然り、頑ななる奸戚が〔官職に〕任じ、締比して廷に盈(み)ち、偸(ぬす)みて恬嬉(平安を喜ぶ)に狃(な)れ、壅遏(ようあつ)(押へとめて)恣ままに弄あそび、愷切の言はまさに衆怒を招き、深遠の慮ばかりは反って羣疑を致し、内は而して政令多岐なれば生民愁苦し、外は而して隣交に道を失い、嘖説は紛至し、国、幾(ほと)んど自立する能わず、而して朝夕の憂いあり。慨然として奮決し、謀りて以て君側を清めんと欲し、開国四百九十三年、甲申の冬に至り、同志を糾[合]して、乗輿を慶祐宮に奉じ、朝廷の大事を処置し、三日を越えて上に扈(したが)い昌徳の闕に帰る。餘げつ、清将をそそのかして順を犯し、衆もて寡に相懸る、空拳、張闘するも勢い能く支えるなく、僅かに身を以て日本使館に投じ、因て海を渡り、閒関(ようやく)、命を為(をさ)む。羣奸、公を畏れること甚しく、かつ公に讐(あだ)せんとし、公の甘心を欲するは必せり、前後、刺客を遣わし、項背相望(頻繁)む。公、これを防ぐこと密かにして、かつ庇護の力を得ること甚しきに至り、終に售(讐)然たるを得ず。

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趙東一の東アジア文明論

 

ソウル大名誉教授の趙東一氏が東アジア文明論を提唱している。趙氏は近著『東アジア文明論』(知識産業社)において、東アジア文明に現れた儒教・仏教・道教の思考形態を説明し、各国の長所を生かして統合された東アジア学を形成していくべきだと説いた。
アテネ出身のソクラテスがギリシャ人になり、ヨーロッパ人を経て、世界人になったように、魯の国の出身だが、500年後には中国人に、さらに500年後には東アジア人となった孔子が、世界人となるよう、東アジア人が共に努力しなければならないと主張する。東アジアが、有力な世界人候補を、どこの国の人かという論議にこだわっているために東アジア文明が形成されずにいると指摘した(『朝鮮日報』2010年7月11日)。
日本国内では、趙氏の著作の翻訳『東アジア文学史比較論』が刊行されている。

山路愛山関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
伊藤雄志   山路愛山とその同時代人たち―忘れられた日本・沖縄 丸善プラネット 2015年10月
山路愛山 源頼朝―時代代表日本英雄伝 平凡社 2008年2月 ワイド版東洋文庫 477
伊藤雄志 ナショナリズムと歴史論争―山路愛山とその時代 風間書房 2005年10月
山路愛山 現代金権史 文元社 2004年3月 教養ワイドコレクション
千葉俊二 坪内祐三 日本近代文学評論選 明治・大正篇史 岩波書店 2003.12 (岩波文庫)
山路愛山 基督教評論 日本図書センター 2003 (近代日本キリスト教名著選集 鈴木範久監修 第3期  キリスト教受容史篇 17)
徳冨蘆花、木下尚江他 徳冨蘆花・木下尚江 筑摩書房 2002.1 (明治の文学 第18巻)
藪禎子、吉田正信、出原隆俊校注 キリスト者評論集 岩波書店 2002 (新日本古典文学大系 佐竹昭広ほか編 明治編 26)
山路愛山 岩崎弥太郎 大空社 1998.11 (近代日本企業家伝叢書 4) 続きを読む 山路愛山関連文献

東亜同文書院大旅行

荒尾精の興亜の精神を引き継いだ近衛篤麿は、興亜のための人材養成という使命に邁進した。明治32年10月、彼は清国を訪れ、清朝体制内での穏健改革を目指す洋務派官僚、劉坤一と会談、東亜同文会の主旨を説明した上で、南京に学校を設立する構想があるので便宜を図ってほしいと要請した。劉坤一は「できるだけの便宜を供与する」と快諾した。こうして、翌明治33年5月、南京同文書院が設立され、荒尾の盟友、根津一が院長に就任した。ところが、北清事変のため同年8月に上海に引き上げなければならなかった。当初は騒乱が収まり次第南京に復帰する予定であったが、根津が抱いていた大規模学院計画を実現することになり、明治34年5月、上海の城外高昌廟桂墅里に東亜同文書院が開校された。以来、終戦までの45年間に約5000名の日中学生が書院で学ぶことになる。 続きを読む 東亜同文書院大旅行

田中正造関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
田中正造著、由井正臣、小松裕編 田中正造文集 2 谷中の思想 岩波書店 2005年 (岩波文庫 ; 青(38)-107-2)
田中正造著、由井正臣、小松裕編 田中正造文集 1 鉱毒と政治 岩波書店 2004年 (岩波文庫 ; 青(38)-107-1)
布川了 田中正造と利根・渡良瀬の流れ : それぞれの東流・東遷史 随想舎 2004年
小松裕著、田中正造研究会編 足尾鉱毒事件と熊本 熊本出版文化会館 2004年
日向康 田中正造を追う : その”生”と周辺 岩波書店 2003年   続きを読む 田中正造関連文献

農本主義関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
原宗子 「農本」主義と「黄土」の発生―古代中国の開発と環境 2 研文出版 2005年 古代中国の開発と環境 (2)
綱沢満昭 農の思想と日本近代 風媒社 2004年
武田共治 日本農本主義の構造 : 老農農本主義、官僚農本主義、教学農本主義、社会運動農本主義、アカデミズム農本主義の比較検討を通して 創風社 1999年
野本京子 戦前期ペザンティズムの系譜 : 農本主義の再検討 日本経済評論社 1999年
岩崎正弥 農本思想の社会史 : 生活と国体の交錯 京都大学学術出版会 1997年   続きを読む 農本主義関連文献

近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献

森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年

荒尾精『対清意見』博文館、明治27年

副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年

宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年

北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献

修験者・山本秀道の奉還思想

秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
 大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
 秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
 役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
 父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
 「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。

 しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
 大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
 さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。