藤本隆之さんが令和4年9月16日に永眠されました。謹んで哀悼の意を表します。
寂しいです。いまも藤本さんの顔を思い浮かべると、あの独特の口調で話す彼の声が聞こえてきます。
「ボクはボクですから」
「俺はやるどー」
「急ぐべからず、慌てるべからず」
「お主も、〇〇だね」
「ラジャー」
「あいよ」
そして、酔えば「酒の一滴は血の一滴」……。
藤本さんと最初に直接お会いしたのは、平成10(1998)年前後だったと記憶しています。新嘗祭で小田内陽太さんから紹介していただいたのが、最初だったと思います。以来、親しく付き合わせていただきました。死ぬほど飲みましたね。周囲は、「致死量を超えるほど飲んでいる」と呆れていました。
いつも最後は、「原宿に行くぞー」と言って、馴染みのロック・バー「ハーフムーン」に連れていかれました。若い頃は、とことん付き合いました。
私が藤本さんの寿命を縮めたA級戦犯であることは間違いないところでしょう。私は、藤本さんから「お前、飲みすぎだよ」と真顔で言われた人間ですから。
最初の頃は、酔って意見が対立すると、いきなり頭突きをしてきました。5回ほど頭突きをされたことがあります。
『月刊日本』副編集長の尾崎秀英君を、藤本さんに紹介したときのことです。やはり議論が白熱し、いきなり藤本さんは尾崎君に頭突きを食らわせました。ところが、尾崎君も引きません。思いっきり頭突き仕返したのです。以来、藤本さんが頭突きをする頻度は次第に減り、やがてしなくなりました。尾崎君も酒を飲み過ぎたことが発端で病気になり、40歳の誕生日を前に亡くなりました。藤本さん、あの世で尾崎君とはもう対面しましたか。
平成24年(2012)年5月15日、岐阜護国神社で五・一五事件80周年大夢祭が開催されました。前日の14日、廣瀬義道さんらとともに、東京から車で岐阜に向かいました。
藤本さんは、焼酎の水割りを水筒に忍ばせて後部座席に座り、こっそり飲り始めました。途中、飲み過ぎて手洗いに行きたくなった藤本さんは、高速道路走行中に、運転していた廣瀬さんに「止まれ」「おい、止まれよ」と、繰り返し叫びました。廣瀬さんは、やむを得ず路肩に停車。藤本さんは、車から飛び下り、慌てて用を済ませた瞬間、足を踏み外して崖から転落。皆、櫨本さんは崖底まで転落し、逝ってしまったと思ったことでしょう。皆、言葉を失いました。
それでも「生きているかもしれない」と思った私は、「藤本しゃちょーーー」と大声で叫んでみました。すると20メートルほど下の方から「おー」という声が聞こえてきました。枝に引っかかって、下まで転落するのを免れたようです。崖から這い上がってきた藤本さんは、「悪い」と言って、何事もなかったように車に乗り込みました。
その1年後の平成25(2013)年のある日。新宿で散々飲んで泥酔。「次行くぞ」と言ってフラフラと中華料理店に入ろうとして、ガラスに向かって突進。その瞬間、ガラスが粉々に割れました。そこに藤本さんは倒れ込みそうになりました。それを助けたのが私です。以来、「お前は俺の命の恩人だよ」と言ってくれるようになりました。
その後も、お互いに酒の失敗を繰り返しつつ、飲み続けました。やがて、藤本さんのホームグラウンドは、下北沢のバー「トラブルピーチ」になりました。酔っぱらって携帯を頻繁になくすため、奥さんに携帯の所持を禁じられました。そのため、連絡を取り合うのが、面倒でしたね。
平成28(2016)年10月29日に大アジア研究会主催で、山下公園において、フィリピンの英雄アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭を開催した時には、二日酔いのまま、東京から横浜までタクシーで駆け付けてくれました。令和元(2019)年10月26日に、富士霊園で開催した三上卓先生墓前祭にも参加してくれました。この時もやばかったですが。
ただ、私と藤本さんは酒を飲んでいただけではありません。国を憂いて真剣な議論もしました。何よりも、藤本さんからは、酒を介して、多くの方をご紹介いただきました。その事を何よりも感謝しています。
藤本さんは、交流が深まるにつれ、私が書いたものにも注目してくださいました。ただ、遠慮なく言い合える仲でしたので、厳しいことも言ってくれました。「文章に艶がないね」「文章は下手だね」と。
「だけどお前もブレずに書いてるね」ということで、『月刊日本』に書いた連載をまとめて、平成20(2008)年11月に、展転社から「アジア英雄伝ー日本人なら知っておきたいに十五人の志士たち」を出版していただきました。
翌平成21(2009)年4月2日に、文京シビックセンターで出版記念会を開いていただきました。深く感謝しています。その後も、展転社から『維新と興亜に駆けた日本人―今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(平成23年)と『GHQが恐れた崎門学─明治維新を導いた國體思想とは何か』(平成28年)を出版していただきました。
やがて、藤本さんは展転社を退職。私は月刊日本を退職。
ちょうど2年前の令和2年12月12日、藤本さんは福永武さんの協力を得て、大東会館を借りて壮行会を開いてくださいました。そこで、同志を集めて私を励ましてくれました。『維新と興亜』が本格稼働を始めた時でした。深く感謝しています。
藤本さんは体調を崩していましたが、『維新と興亜』の顧問にも就任してくださり、営業面でも編集面でも的確な助言をしてくれました。書店取次のJRCにも同行していただき、『維新と興亜』の書店販売の道を開いてくれました。
また、オンラインで開催している『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)や維新と興亜懇談会には欠かさず参加され、議論を盛り上げてくださいました。
藤本さんは、『維新と興亜』が今年7月22日に敢行した外務省前抗議街宣(日米地位協定改定要請)にも参加し、街宣車に上って堂々たる主張を訴えました。久々に街宣車からの演説をして闘志に火がついたのか、また街宣をやりたいと言い始めました。しかし、残念ながらそれが実現することはありませんでした。
藤本さんは、今年10月22日に還暦を迎えるはずでした。そこで、8月に入ると私は稲貴夫さんたちと相談し、還暦のお祝いを企画しました。ところがその矢先、藤本さんは逝ってしまいました。
最晩年、肝硬変について尋ねると、藤本さんは「大したことねえよ。医者も飲んでいいって言ってる」と言い張りました。「そんなはずはない」と思ってましたが、それでも藤本さんに、「一切飲むな」と言うことはできませんでした。私がもっと強く止めていればと悔やまれます。しかし、藤本さんは最後まで自分らしい生き方を貫かれました。酒は全力で走るためのガソリンだったのですね。
藤本さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。いずれ、そちらで一献やりましょう。