「木村武雄の日中国交正常化への執念」(『米沢日報』令和5年1月1日付)

 令和4年は、日中国交正常化50年の節目の年だった。南シナ海や尖閣諸島周辺での覇権的な動きを強め、台湾の武力統一を掲げ経済力と軍事力を強大化させる中国に対して、トランプ前大統領は、米国の対中戦略は大きく変化し、封じ込めに動き出した。現在の日本人の中国観も日中国交正常化当時から見ると隔世の感がある。50年という節目の年としては盛り上がりに欠けた。
 米沢市出身の政治家で、建設大臣を務めた木村武雄は、自分の息子に、石原莞爾の名をとって「莞爾」と名付けるくらいに、戦前から石原の思想に共鳴し、石原の王道アジア主義の体現として、日中国交正常化を位置づけた。
 王道アジア主義とは何かだが、アジアに対して覇道の原理で進出する欧米を排除し、王道の原理に基づきアジアを建設することで、王道とは、道徳、仁徳による統治を指し、覇道とは武力、権力による統治をいう。
 その王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。
 木村は、支那事変拡大に反対し、昭和14年に東亜連盟協会を設立、東条政権の覇道に反対した。戦後、木村は石原の魂を守り抜き、日中国交正常化に執念を燃やすが、時の佐藤栄作総理大臣は動かなかった。そこで目をつけたのが田中角栄で、田中派結成を主導し、昭和47年田中政権が生まれた。それは同年9月の田中首相訪中によって、「日中国交正常化」へと歴史を動かしていった。
 本書では、政治家木村武雄の誕生、石原莞爾と東亜連盟、王道アジア主義の源流、執念の日中正常化、田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ、という5章から構成されている。木村武雄の子息である木村莞爾、孫の忠三の両氏への取材をした。
 著者は王道アジア主義の源流として、西郷隆盛、米沢の宮島誠一郎、宮島大八などを挙げている。これまで日中国交正常化における木村武雄の役割が知られてこなかったのは、木村が「政界の影武者として生きる」と決めていたからと著者は述べている。

「木村武雄の日中国交正常化への執念」『米沢日報』令和5年1月1日付

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